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はせべコラムvol.25 自分が山に登る理由

社内向けに書いてる自分のつぶやきを転載します。

テーマは「自分が山に登る理由」
についてです。    
      
よかったら読んでみてください。

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先週末、1泊3日の工程で縦走や3000m級の山を登るイベント、通称デスマーチを実施してきました。
このデスマーチは大学時代からの友人と毎年実施しており、今年で6年目となります。
今回は流しのカレー屋と銭湯屋のお手伝い兼カメラマンをゲストに迎え、聖山を登ってきました。
今年は悪天候による順延もあり、実施自体が危ぶまれたのですが、なんとか11月に強行しました。
ではなぜ無理してまでも毎年、山に登るのか。
その理由は三つあるなと思いました。

テーマは
①資本主義的なゲームからの一時的解放
②自分の分際を知れる
③ ①②の体験を通じて、自己の知覚を刺激し、研ぎまし、内なる冒険ができる です。

①資本主義的なゲームからの一時的解放

我々人間は、すぐに広義の意味でのゲームを作り、そのゲームの区画の中でルールやポイントをつくっていき、勝ち負けを作りたがります。
そのわかりやすい形が資本主義やスポーツです。
これにより人間は競争し、尺度を持ち出し、その尺度に従ってどこまでも強くなり上手くなり、比較し、お金持ちになりたいと思ってしまう人間の欲望が増強されていきます。
ただ、曲がりなりにもその競争社会で生き抜いてきた自分にとっては、その枠にはめられている居心地の悪さを感じつつ、楽しさもあります。
しかし、山は全く違います。
登山のような自然経験を通して、全て自分で感じて、考えて、行動して良いです。
全てが自分に委ねられており、圧倒的自由です。早く登れば良いとかの競争はそこにはありません。
情報に流されず、自分で判断して行動することができます。
スノーピークが掲げる「人間性の回復」と考えていることは近いです。

②自分の分際を知れる

ある程度社会年次を重ねていくと、経験からくる勘違いに近い自信。自分を過大評価してしまうことがあります。(恥ずかしい話ですが…)
デジタルの仕事をしている自分にとっては尚更です。
しかし、山はかつて人間が直面していたちょっと自然の調子が狂うとあっという間に死んでしまうという人間の儚さを教えてくれます。
登山を通じて、自分という存在はいかにちっぽけで弱い存在であるという自分の等身大の分際を知れること。
これが登山や海のような自然経験のギフトではないかと思います。
平時の人間生活において圧倒的な無力感とか危機感を作り出してくれるものはありません。

③①②の体験を通じて、自己の知覚を刺激し、研ぎまし、内なる冒険ができる

昔の冒険者は未到の地にいって、そこで情報を持ち帰ってみんなに伝えることが役割でした。
しかし、地球上に未開の土地がなくなった今、物理的な冒険をすることは困難になりました。
これは春山さんも言ってましたが、今までの冒険は水平移動が多かったのですが、縦のラインで考えると、まだできる冒険はたくさんあります。
そういう意味で上記①②の体験を通じて、自分の感性、知覚を磨くエクササイズをし、自分の思考の旅、内なる冒険をするのかが大事だと思うんです。

この①~③の体験をするために山に登ってるんだなぁと自分で整理することができました。
こう考えると林間学校や臨海学校って大事ですね。

次は知性の核心は知覚にあり、これからの時代はその知覚が豊かな人ほど良い仕事ができるって話を書こうと思います。

P.S.写真家がとってくれたポートレイトがよくて気に入ってます 

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