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第1回/広告代理店で日本語コンテンツを生み出し続けるムードメーカー/Isabelle Aundrea Suaさん

こんにちは!
今回から、海外出身で日本で学生や社会人として暮らしている方々をインタビューしていきたいと思います。新型コロナウイルスの影響があり、直近は海外在住者の方の日本への留学や就職が難しい状況にありますが、それ以前は日本への留学者数や就職者数は年々増加しており、少子高齢化が進む日本社会において海外出身者の存在は目立つようになってきています。
私も学生時代には国際交流サークルや留学生ラウンジで活動していましたし、前職は海外出身者の日本就職の支援でした。
海外出身者と関わる機会は多い方だったのですが、そんな友人たちの話をじっくり聞いたことは無かったなぁと。
この連載が、「外国人」という単純なカテゴリーから脱して、個人と個人の関係性を構築するきっかけになればと考えています。(これは、とりわけ自分に対して言い聞かせています。)

記念すべき第1回は、私の大学時代の友人でもあるベルさんです。
彼女の明るく元気な性格は、一緒にいるだけでみんなを笑顔にしてしまうとても魅力的な方です。ぜひベルさんのストーリーをご一読ください。

Isabelle Aundrea Suaさん
1996年生まれ。マレーシア サバ州・コタキナバル市出身。
地元高校を卒業後、千駄ヶ谷日本語学校-中央大学文学部心理学専攻-大手小売企業-株式会社デジタルアイデンティティ



ーーーベルさんはどんな子どもだったんですか?

幼少期のころは、今では想像できないくらいとてもシャイだったと思います。
人と話すことが好きだったんですが、声が小さく滑舌も悪かったのでしばらくの間は特定の人としか喋れませんでした。
運動は得意ではなかったので、小学1年生のころから約10年間ピアノを習っていました。

生まれ育ったコタキナバルは、田舎の中の都会でした。
車社会なので電車は通ってらず、移動はほとんど車でした。
とてもきれいな海がすぐに近くにあり、時間さえあればビーチで遊んで、夕焼けを見てから帰ることが毎週末の楽しみの一つでした。


小学校から高校卒業するまでは公立の女子校に通っていました。
小学校はダンスの発表会に参加してみたり、中高は編集部に所属し学校行事の写真撮影や卒業アルバムの制作などに携わっていました。
ピアノ以外の趣味はパソコンで、HTMLをちょっとだけ覚えブログやSNSを更新したりするのが好きでした。

首都のクアラルンプールと比較すると全くの田舎ですが、美味しいごはんをたくさん楽しめて、映画館やショッピングモールは充分にあるので生活する分には困っていなかったです。

ーーー日本に留学しようと思ったきっかけは?

高校卒業したら、どこかの国には留学しようと思っていました。
家族も、姉がオーストラリア、父がカナダに留学経験あり、シンガポールも選択肢に入れていました。基本的には英語圏を想定していましたね。

でも、もともとアイドルやアニメ・ドラマで日本が好きで、興味本位で独学で日本語を勉強していたんです。それに父が気づき、「せっかく好きなら日本行ったら?」と。マハティール首相が日本好きだったことも影響して、父親は日本に好意的な感情を持っていました。父の後押しは大きかったです。また、日本語学校の1年間の学費が、姉のオーストラリアの大学の1学期の学費と同じであることを知り、経済的にも安い!と驚いたことも後押しとなりました。

ーーー最初から日本の大学への進学を目指していましたか?

まずは日本語学校に行ってみて、それから考えようと思っていました。でも、日本のことを好きになるだろうなという謎の確信を持っていました(笑)そして案の定、日本語学校が楽しくて、このまま日本に残りたいと思うようになりました。日本語学校では例の謎の確信のお陰で日本の大学進学を目指すコースを受講していたので、そのまま進学を目指しました。

ーーー大学はどのように選択しましたか?

やりたい専攻をベースに選択しました。また、現役合格することにこだわっていました。やりたい専攻というのは心理学でした。高校生の時、たまたまテレビやネットのドキュメンタリーなどをみて心理学を知り、興味を持ちました。カウンセラーという仕事に関心を持ち、インターナショナルスクールで語学力を生かしてカウンセラーとして活躍したいと思っていました。そこで、心理学を学ぶことができる大学で、自分の勉強の実力を見比べて受験する大学を決めました。

受験勉強は大変でした。日本語はペラペラしゃべれるけど、読み書きに苦しみました。半年間で小学校6年間で習う漢字を必死で覚えました。
ちなみに、日本語学校の先生からは、入学してからもっと大変になるよ、と言われていました。だから、現役合格ではなくて、2年間受験勉強した方が、もっといい大学に行けるだろうし、もっと日本語も上手になるよ、と言われていたんです。でも、私は現役合格にこだわりました。

ーーーなんとか中央大学に合格したわけですが、実際に入学してみてどうでしたか?

とにかく日本語が読めなかったです。日本語の授業で新聞を読むように言われたんですが、ぜんぜん理解できず自分のレベルを思い知りました。
また、リアクションペーパーや感想文など、大学で作成する文章には手書きのものが多く、パソコンで作成できたらどんなに楽かと思いました。とにかく書けなくて苦戦しました。同じ立場の留学生と慰め合ったり情報交換しあったりしながら過ごしていました。1年生の後期の終わりぐらいにやっと慣れた感じがしました。

勉強は、言語の壁もあり、なかなか理解が追いつかず、単位取得できなかったこともありました。心理学統計法は3年間再履修してなんとか単位を獲得したくらいでした。マレーシアの数学のシステムとの違いや、自分が英語で学んだ統計とのギャップにも大きく苦労しました。

ーーー日本での生活はどうですか?苦労したことはありますか?

やはり、ちょっとした日本のルールがわからなくて苦労しました。ゴミの分別は、市町村ごとにルールが異なり、有料のゴミ袋を買わないといけない地域もあるなど、いくら環境のためとは言われても、論理的な理由を説明してほしいと思いました。
また、地震とか怖いですね。異国の地で1人いなくなっても誰も気づかないんじゃないかって。夜道に変な人と遭遇してしまった時も怖かったです。

あとは保証人とか緊急連絡先とか誰を書けばいいのか困りました。最近は外国人向けのサービスとか出てきているけど、やはり知り合いが紹介してくれたみたいな安心感がないと使えないですね。

ーーーやっぱりベルさんといえばGスクエアのイメージが強いです。

そうですね。Gスクエアが私の大学生活の全てでした。Gスクエアは中央大学にある、国際交流ラウンジのような場所です。毎日のように多様な国際交流イベントがスタッフによって企画運営されており、留学生や留学生との交流を希望する日本人学生が集う場所になっています。大学2年生の夏にスタッフになって、卒業までずっと活動していました。すでにスタッフだった同じマレーシア出身の友人から、もう1人のマレーシア出身の友人と3人でランゲージラボというGスクエアで行われていた留学生が母国語を教える講座をやらないかと誘われたことがきっかけでGスクエアに行くようになりました。マレーシアの文化を教えながら英語を教えていました。そのうち、Gスクエアのスタッフと仲良くなり、いろいろなイベントに誘われました。その中で、スタッフとして活動する様子が楽しそうだと思うようになりました。留学生のためだけでなく日本人のためにも働く点も魅力に感じました。

スタッフには、イベント班・企画班・広報班などの役割がありましたが、私は広報班に所属してチラシ作成や宣伝・SNS運用などを担当しました。また、語学力を活かしてGスクエアで開催されるイベントのMCもしていました。

ある時、留学生の友人から「ベルって本当にGスクエアでいろんなことをやっているから、Gスクエア=ベルって印象だよね」と言われました。そのとき周りにいた他の留学生も一同に「そうだね!」と言っていました。大学に入学したら周りの人の役に立つことをしたいと思っていたので、スタッフとして頑張ってよかったなと思いました。
社会人になった今でも仲良くしている人たちは、Gスクエアで出会った人たちです。宝物だと思っています。

ーーー日本で就職しようというのはいつから考えていましたか?

大学2年生くらいから、日本に住んでて不便を感じず、慣れてきたので、他のみんなのように就活するのかなと漠然と思っていました。ですが、その頃はまだ軽く考えていた程度でした。ある時、1回だけ家族から「マレーシアに帰ってくるんだよね?」とら言われたんですが、その時は「いや、わかんない」と言いました。それ以来、家族は私が日本からは帰ってこないと思っているみたいです。

当初は心理学を学んでカウンセラーをやろうと思っていたんですが、入学した時に外国人が日本でカウンセラーとして働くのは無理だと言われてしまいました。それ以来、仕事としてやりたいことをなかなか見つけられなかったです。そこで、とりあえずいろいろな説明会に参加したら、やりたいことが見つかるかな?と考えました。

グローバル展開してる企業や、説明会を聞いて事業内容などなんとなく面白そうだ、頑張れそうだと感じた企業に応募していました。一方で、堅くて古くてブラックな印象のザ・日本の企業は合わないと思っていました。

新卒で入社した大手小売企業は、マレーシアに支社があったことが興味をもったポイントでした。リクルーターの方から、語学面も含めてマレーシアと関わる仕事での活躍や広報部での仕事での活躍を期待すると言われて、自分の語学スキルや大学時代に取り組んでいたことに関連した仕事ができそうで良さそうだと感じました。大手で安心感もあり、その会社の商品も好きでした。大学時代はアルバイト未経験で接客業のことは何も分かっていなかったですが、現場で接客業を経験した上で配属される本部での仕事の幅が広くて面白そうだと感じて入社を決めました。

ーーーその後、転職をされていますが、どういった背景がありましたか?

やはり、接客業のイメージができていなかったので、実際に働くととても苦労しました。説明会ではグローバルで自由な会社としてアピールしていたのですが、入社したら意外と古い体質を感じました。どうでもいいと感じてしまうルールが多く、なかなか理解ができませんでした。

例えば、研修中はスーツ以外着ることができなかったのですが、宿泊が伴う研修の際に、夜にちょっと売店に行くだけでもスーツを着ないといけないなど、自由時間まで拘束されてなぜそこまでするのかと驚きました。

また、社是を研修期間は毎朝唱えることにも驚きました。社是は暗記しなくてはいけなくて、まるでロボットにさせられる感覚で恐怖を感じました。日本では朝礼という文化があるとは聞いていたのですが、まさか社是まで唱えるとは思わなかったので久々にカルチャーショックを受けました。

会社では、広報やSNS運用などの仕事に関心があったんですが、この会社でそこまで辿りつくには、まず現場で最低10年働いた後、そこから本部にあがって、しかも宣伝企画部に選ばれなければならないという道のりで、やりたいことができる可能性の低さも感じてしまいました。
外国人労働者という立場もあり、私にとっての10年と日本人労働者にとっての10年という時間の感覚も違うのではないかと思います。可能性は低いと思いますが、もしかして帰国しなければならないという可能性もありえるので、なるべく自分のやりたいことができるような会社で働いたほうがいいと、転職を決意しました。

仕事自体は大変でしたが、同じ店舗で働いていた人たちや同期たちとは仲が良く、いまでも定期的に会ったりしています。どこに行っても必ず良い人たちに出会うので、自分は恵まれているなと感じます。

いまの仕事は、Gスクエアのスタッフの先輩の奥さんが人材エージェントで働いており、これまでの経緯を相談したところ紹介された会社です。広告代理店で、ネット・ウェブ広告やコンテンツ制作などをしています。私はハワイ関連の観光情報サイトのコンテンツ制作・記事編集・SNS運用などを任されています。社員は200人程度いますが、海外出身者は自分だけです。でも、とても居心地の良い会社です。会社の人たちはとてもフレンドリーで、どんな小さなことでも優しく教えてくれます。私は今でもアイドルが好きなのですが、会社では同じアイドルが好きな方が多く、グループチャットでアイドル話で盛り上がったりととても楽しく過ごしています。

新型コロナウイルスの影響が大きい中で転職したので、担当している観光サイトへの流入を維持するのに苦戦しました。
この中でどうやって改善できるか、工夫して取り組んでいます。ハワイに行くことができない中でライターさんがなんとかネタを見つけて記事を書いているので、その頑張りの力になりたいという気持ちも強いです。また、普段会社が行っているコンテンツ制作ではなく、自社サイトの運用という会社としての新しい実績をつくるチャンスなのでぜひやりきりたいと思っています。ちなみに、サイトへの流入をあげるためにここ10ヶ月1人で毎月160本以上の記事を作成して公開する作業をし続けていたので、もはや英語より日本語のコンテンツ制作の方が得意かもしれないです(笑)

ーーーこれからはどうしていきたいですか?

将来的には、PRのプロとしてフリーランスとして独立したいと思っています。ライターとしても成長したいですね。日本語の学習法などを伝えたり、日本語学校とかのSNS運用を代行するとか、留学生向けのコンテンツとかもやりたいと思っています。すぐにやろうとしていたのですが、新型コロナウイルスの影響で厳しい状況になってしまったので、いまは保留中です。あとは、家賃収入という安定した収入を持ちたいなぁ、、なんて軽く夢を見ています。(笑)どんなことでも、自分なりに頑張りたいと思っています。

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