「三菱の至宝展」に行ったら三菱創業四代のことが知りたくなった③久彌編
彌太郎の長男として生まれた岩崎久彌は慶応大学に進学後ペンシルベニア大学に留学し、22歳にして副社長として三菱に入社したエリートです。久彌は本社機能に大きな負荷がかかっていた当時の三菱に事業部制を導入し、迅速な経営判断を可能にするとともに、事業の多角化を押し進めました。その結果、三菱重工業(造船業)の近代化、丸の内エリアの開発をはじめ、キリンビール、三菱製紙、小岩井農場などを立ち上げるなど、事業を幅広く展開しました。
読書家であった久彌は第2代岩崎彌之助以上に学術的な価値を重視したコレクションを収集していきます。なかでも東アジア地域の文献を積極的に収集しており、東京帝国大学に寄贈されたマックス・ミュラー文庫や東洋文庫の中心をなすモリソン文庫など、まとまった規模の資料を一括購入しています。大規模な既存コレクションの一括購入は不用意な資料の散逸を防ぐとともに、コレクションの一貫性やその資料価値を保つ上で非常に優れた判断だったと言えます。
久彌の興味は東アジア関連の幅広い分野におよび、宗教経典、古地図、博物誌など、史料としてイメージされやすい古典籍や歴史絵巻以外の史料も多く扱っています。なかでも博物誌に関する資料は当時の国内における博物学的認識と西洋で同時代に行われていた博物学研究との違いを如実に表しているといえるでしょう。また、大蔵経のような膨大な冊数に及ぶ宗教経典が収集されていることからも、久彌が“コレクション”という単位に対する強い意識を持っていたことをうかがい知ることができます。このような、まとまった量の東アジア関連資料を所蔵する専門図書館は世界的に見ても珍しく、東洋文庫は大英図書館、フランス国立図書館、ロシア東洋学研究所、ハーバード大学燕京研究所とならび、世界五大東洋学研究図書館の1つとして数えられています。
明治期の荒波に揉まれながらも三菱商会を立ち上げた彌太郎や静嘉堂文庫の整備に尽力した岩崎彌之助・小彌太父子の事業と比べると、久彌の収集活動はいささか控えめで目立たないものが多いかもしれませんが、それは久彌がみずらの名声が世に伝わることを極度に嫌ったことが1つの大きな理由です。東洋文庫についても「金は出すが、名前は出さない」という方針を堅持し、運営は専門の研究者に委ね、久彌本人は一切口を挟まなかったとも言われています。純粋に本を愛し、謙譲の美徳を旨として生きた読書家久彌が貫いたスタンスは、研究者による自由な資料収集を促し、東洋文庫の充実した資料群の形成につながっていきました。