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「三菱の至宝展」に行ったら三菱創業四代のことが知りたくなった①彌太郎編

三菱一号館美術館で三菱の至宝展が開催中です。

国宝が12点(前後期合計点数)をはじめ、日本古美術、古典籍などが数多く展示されています。ジョサイア・コンドルが設計したクイーン・アン様式建築の中に鎮座する日本古美術の姿はまさに非日常。会期は9月12日までということで残り少ないですが、是非お勧めしたい展覧会です。

展示品の美しさ、本物が目の前にあるという感動もさることながら、三菱という組織を作り上げた人物がどのような文化的関心を持っていたのかということがとても気になったので、簡単にですが調べてご紹介しようと思います。

三大財閥の中における三菱

三井、住友、三菱は俗に「三大財閥」と呼ばれますが、御用商人として発展を遂げた三井家、住友家に比べると明治期に産声を挙げた三菱財閥は比較的新しい財閥であり、明治期の社会的な要請に対して民間の力でアプローチする姿勢をとりました。したがって、茶道、華道、漢学といった旧来的な上流社会層が共有する価値観を体現する競合2社が形成した収集作品群と比較すると社会貢献や学術的価値を意識した収集方針が伺えます。

展覧会でも「社会貢献を意識した岩崎家の美術品収集」がどのようなものであったのかが創業四代の取集品とともに紹介されていきます。

土佐の身分制度について少しだけ

初代彌太郎の話に入る前に江戸の土佐藩に存在した階級制度についてご紹介します。土佐藩には武士階級を大きく2つに分ける上士(関ケ原の戦いで東軍についた山内氏とその家臣)と下士(主に旧領主である長宗我部氏の遺臣)という独特な身分制度が敷かれていました。

下士には足袋、下駄、日傘、籠の使用などが禁止されており、上士と下士の差別は徹底されていました。時代が進み商業経済が農村部にまで浸透し始めると、貧困に陥った下士が自らの身分を売って地下浪人となる一方で、力を 持った豪商・豪農が下士の身分を買って武士になるなど、武士社会に様々な背景を持つ人が混在する状況が生じますが、関ヶ原の戦いが生んだ上士と下士という身分の違いは江戸末期まで根強く残ることになります。

創業者 岩崎彌太郎

ここからが本題です。冒頭でも紹介した通り、三菱財閥は三大財閥のなかで最も新しい財閥組織として登場しました。その創業者である岩崎彌太郎というと、2010年にNHKで放映された龍馬伝で香川照之が演じたイメージ(短気でプライドが高いホコリまみれの鳥籠売・・・)が強烈かもしれませんが、実際には破茶滅茶ながら勉強熱心で土佐藩の政治的重要人物とも関わりながら漢学や儒学について造詣を深めていました。

とはいいつつも、曾祖父が郷士の身分を売ってしまっていたため、岩崎家は下士の中でも最下層の地下浪人で、家計は貧しく、人生の前半は彌太郎と負けず劣らず短気で酒癖が悪く、負けず嫌いだったと言われている父の彌次郎が起こす事件に振り回されることになります。中でも象徴的な出来事が、1855年に父の弥次郎が起こした宴席での喧嘩にまつわるエピソードです。

当時、彌太郎は江戸で儒学を学ぶチャンスを得て必死に勉強していました。そのさなか、父の弥次郎が宴席で庄屋との大喧嘩を起こして投獄され、父の身を案じた彌太郎は土佐に帰ってきます。父の無念を晴らそうと訴える彌太郎ですが、地下浪人である岩崎家に味方する者などおらず、奉行所の判断が変わることはありませんでした。怒りの収まらない彌太郎は奉行所の壁に「官以賄賂成獄因愛憎決(官は賄賂を以って為し、獄は愛憎によって決す)」(役人は賄賂でうごき、好き嫌いで投獄する)と大書し、結局父子揃って投獄されてします。

家長である彌次郎は大喧嘩の末に半身不随となり、長男彌太郎も獄中、後の三菱第2代社長になる次男の彌之助はまだ4歳と、彌太郎20歳にして岩崎家は窮地に追い込まれます。この一件で不条理な武家社会にさらなる反発を覚えた彌太郎は学ぶことによって体制を乗り越えようとする姿勢をさらに強固なものにしていきます。

獄中でも同房の商人から算術や商法を学び、この経験は後に商いの道に進むきっかけにもなりました。後に赦免され娑婆の空気を吸って生きる生活に戻る彌太郎ですが、村には戻らず当時謹慎中だった吉田東洋が開いた鶴田塾 (少林塾)に入塾し、後藤象二郎など後に政治の中枢を担う人物の下で学びを深めることになります。勤勉な姿勢は吉田東洋らからも認められ、開成館や九十九商会(後の三菱商会)での仕事へと発展していくことになります。


次回は二代目彌之助についてご紹介します。


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