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Dual Residence:サくら&りんゴ #27

悲しい花火

毎年7/1カナダデーに催されるビーチクラブのパーティ。
去年は感染症でもちろんキャンセルになった。
今年はロックダウン解除を待って日程が変更された。それが嵐でまた延期となった。
そして待ちに待ったこの日曜は朝から晴れ渡り、まさにビーチパーティ日和である。

楽しみ‥と言いたいところが、こういう社交の場が激しく苦手である。コッソリ窓からビーチの様子をうかがっている怪しい私。

眺めていると、ご近所だけのプライベートビーチのはずが、次から次へと人が集まってくる。

ビーチクラブからのお知らせでは、家族ごとに距離を開けること、そのスポットから離れるときはマスクをすることの注意書きがあったが、誰も守っている様子はない。remember NO grass (大麻禁止)と強調されていたにもかかわらず、どこからともなくそれらしい匂いが漂ってくる。 

フードトラックが来るのでメンバーチケットで無料のカリビアンフードやらプルドポークのサンドイッチやらが食べられるはずである。

ところがそれらの誘惑を完全に退ける引っ込み思案の私がいる。

その強力な理由
日本では一度会ったことのある人は普通、顔を覚えている。名前が出てこなくても、見覚えがあると。
ところがここではそうはいかない。だいたいビーチで見かけるリラックスした格好の人々は、私にとって見分け困難。特に男性。つまり、短パン、Tシャツ、野球帽。サングラスにヒゲ。個別判別は無理。おまけにロックダウンが続いたせいか、みんな一様におなかが出ている。
一度Laurieの夫Terryだと思って話していたら別人だったことがある。日本と違って、知らない間柄でも話をするので向こうにも違和感がなかった。ところが後ろから当の本人がLaurieと一緒にやって来たのでこっちが驚いた。

さらにこのあたりでは、黒髪でスタイルのいい南米系の女性は見かけても、私のような黒髪アジア系の人をあまりみかけない。加えて夫が何かに付け話題になるような事をやって来た(やってきてしまった、よくも、悪くも、悪くも!)。ゆえにご近所さんに印象付けられている。そして私たちはカップルとして非常に覚えやすい名前だったので、日本人名であっても人々は私の名前をよく覚えていた。
そんなわけで、ビーチの向こうからHi!と名前を呼ばれても私には皆目誰だかわからないと言う状況が多発。

引っ込み思案の理由はもっとある。
グループの中に入って会話をするのが激しく苦手である。だいたいビール片手に、ぷくぷくおなかの底から出てくるような大声で笑う人々の会話について行けない。絶対と言っていいほど内容が理解できないのである。面白そうな話ほどわからない。周りはのけぞって笑っているのに、私ひとり英語分析に頭がフル回転。眉間にしわが寄っている。
カナダで人気のTVドラマシリーズShcitt’s Creek を繰り返し観て、英会話聞き取りと、この地の人々の“面白いこと”を研究したが道のりは遠い。

だから日本に戻った時、無条件にすぐに笑えることや、面白いことが共有できることがどんなに素敵なことか。日本食よりもそんなことが私の頭の疲れを癒してくれる。

例えばついこの間、CBCニュースのオリンピック中継の録画をAmazonで観た。スケートボードのゲームで日本人選手を オリガミユートーと紹介している。折り紙?織上? 途中からHを発音すると気づいたらしく(多分フランス系のレポーター?)ホリガミと言う音に代わった。堀上? 結局彼は見事金メダルを獲得し、私もようやくHORIGOMEであることが分かった。

しかしこんなことを共有できる人が湖畔生活にはいない。


さてビーチでの騒ぎをよそに、果てしなく内にこもっているとRitaからメッセンジャーが来た。

今あなたんちの裏庭の前にいるのよ!

ガラス戸を開けると白いタンクトップに短パン姿のRitaが、つばの広い帽子をかぶって立っている。救世主が現れたような思いで、私も帽子をつかみビーチへと降りた。

Ritaの夫Marcはフードトラックの前に、はやくも椅子をセッティングしていて私たちを手招いてくれる。

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かつては夫と私がいて、彼らは私たちをよく訪問してくれた。たいてい夫とMarcが話しこんで私はいつもついて行けなくなった。

のちにMarcは、

今まで出会ってきた人の中で、あんなに色々なことを話せる人はいない、マジで。

そして、

いなくなって本当に寂しいよ

そうしんみり言った。


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ビーチバレーをする子供たちの声。ミュージックバンド。ビーチはますますの賑わいを見せてくる。

ドーナッツが向こうに出てるよとRita。
いやカリビアンフードを食べたいからデザートはラムケーキだとMarc。
へ~ラムケーキってカリビアンのスイーツなんだ!と思いながら、そんな他愛のない夫婦の会話がふっとうらやましくなる。
MarcはRitaの事を思いやっているし、さりげなくキスを交わしている六十代のカップルである。Marcの前妻との間の孫が遊びに来るとRitaは目に入れても痛くないといわんばかりにかわいがっている。

ふとこの地の夫婦関係を考えてみる。七十代のJanとバジルでチキンをローストする夫のKeithはこの間、電動自転車を購入し二人でサイクリングを楽しんでいる。Laurieとその夫Terryも絶妙ないいコンビである。もちろん愚痴を聞くこともあるが、彼らは基本、夫婦単位で行動して、私は夫婦単位で知り合いである。
夫がかつて東京の杉並に滞在していた時、私に近所付き合いがないことに驚いていた。つまり東京で親しくしているご近所さんは、たいてい妻の方を知っているが、その人の夫のことをほとんど知らない。そもそもそこに住んでいるのかと思うほど夫を見かけない。そして妻は大抵夫のことを嫌っている。それも年配になればなるほどその度合いが増えていく。そしてついにはいなくなること、つまり死んでくれることを待っている。もちろん殺すわけではないし本当に望んでいるわけでもないだろうが、夫が死んだらと言う “その後” の計画を 時折小耳にはさむのである。
でもそんな妻に限って、日本で考えるところの妻の役割をきちんとこなしているし、離婚したいと話しているわけでもない。だから、夫の事を悪くいうのはただの社交辞令かもしれない。

カナダ人から見ると、かなり不思議な社交辞令であることは確かであるけれど。


ビーチでは音楽が盛り上がってきて、JanとKeithは二人で踊り始めている。花火があるので、薄暗くなってもこどもたちは遊具で遊んでいる。カヤックで湖に漕ぎ出している人もいる。

肌寒くなって私は、上に羽織るものを取りに家に戻った。

裏庭から木製階段をかけ上がる
ガラスドアを開けると家の中にはもう
夜の闇が広がっている
ビーチの賑わいが背後に去るとそこには
時が止まったような空間が待っていた
しんとしている

私はサンダルのまま
夫の大叔母さんのロッキングチェアに座りこむ
何か抱えきれないものが
襲ってきそうな気がしたのだ
背もたれに体を預けて
ロッキングチェアを静かに揺らす

悲しみなのか
孤独なのか 
何かわからない感情が湧き出てくるのを
静かに受け止めながら
ゆらゆらと揺れる
そして
しばらくそのままに
揺れている



ふいにヒューと音がして
爆音とともにひとつ目の花火があがった
人々の歓声が聞こえる
ガラスドアからオレンジの光が飛び込んでくる
また音がして
今度は家具たちが一瞬緑や赤に彩られ
そしてまた暗闇に沈む

あわててスカーフをつかむと私は
木製階段を下りてまた賑わいの中に戻った
闇に目を凝らすと、すぐ前のベンチにはLaurieとTerryが並んで座っている
今の凄かったね!
Laurieが話しかけてくる
その大きな目が
花火を写して
煌めいている

赤や黄色や緑の光の粒は
紺色のキャンバスに美しい模様を描き
そして次の瞬間
線を引いて湖に落ちていく
湖面は一瞬
燃えるような赤に輝き
ふいに闇に戻る
人々の顔が子供たちの顔が
満ち溢れるようなしあわせ色になって
そしてまた藍色に沈む


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Laurieが
そっと
私の頬をなでてくれた

人々の歓声と指笛の音が湖面を渡っていく

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。