サくら&りんゴ #83 Will you marry me?
夫はいつも何かしていないと気が済まないタチであった。1日何もしないでゆっくり過ごしているのなんて見たことがない。仕事もいつも3つ4つを並行して進めていて、それも全然違う分野で。
よくそんなことができるなと思ったものである。
さて、夫は私と一緒に日本にいる間、カナダの家の建築作業がない分時間に余裕ができる。しかし東京でも何か見つけては動きたい性分に代わりはなくて。
ある日私が仕事を終えて戻ると、キッチンからガリガリと大きな音がする。
何事かと覗くと、夫がオーブンのトレイについた汚れをこそげ落としていた。古いオーブンでその都度洗っているもののトレイの黒い焦げ付きはだんだん層を成していた。
夫は自分でも料理をするのが好きだしレストランを持っていたこともあって、キッチン道具に関してもうるさかった。
カナダ湖畔の家では夫が集めた銅製の鍋やフライパンがあって、ふたりで1日がかりで鍋磨きをしたものである。
私の仕事中夫は暇すぎたのか、はたまたそのトレイの汚れが余りにひどすぎたのか、しかしおかげで炭化したこびりつきがごっそりそぎ落とされた。
さてその頃、つまり夫がオーブントレイの焦げ付きをこそげ落とした日本滞在の頃、私たちは結婚の約束をしたばかりの時期であった。
でもお互い初婚ではないし、年齢も共に十分どころか二十分すぎるほど取っていて、エンゲージリングや結婚式はいらないと、そんな話をしていた頃でもあった。
夫はどこかで
エンゲージリングとはローマ時代、妻は夫の所有物であるという証としてキーのついたリングをはめたのが起源
という話を仕入れて
人を物のように扱うなんて
と調子よく憤慨し
それは高額な(はずの)エンゲージリングを買わないためのいい口実だったのかもしれなかったが、私はそんな高額な(はずの)ものはもともといらないと言って、二人の間でその話は落ち着いていた。
そんな状態だったが、夫がこそげた炭を見て私の頭にピカッとライトがともった。
私はさっそく東急ハンズで細い細いチューブを買ってきて、その中に夫がこそげた炭を入れた。爪楊枝の先っちょで少しずつチクチクと押して入れる。
十分に炭がチューブに入ったら指の太さに合わせて長さを切り、端をホッチキスで止める。
じゃーん。
いつか炭素のCが構成を変えてダイアモンドに変身することを願って。
人はいくつになっても
二十歳の時と同じに
誰かを好きになって愛して
そして
こんな小さなことでもうれしくなるんだと
誰かのそばにいて
信じて
つながっていることが
こんなにも幸せなことなんだと
十分どころか二十分に年を取ってから
やっと気づいた
カナダにはコモンローと言う結婚に近い制度があって、周りで子供がいても結婚しない人はちょくちょくいて、私たちもそれでよかったのかもしれない。けれど、夫は妻を欲しがり、私は夫が欲しくて、夫は笑いながらハンドメイドの、ひょっとしたら-ダイヤに変身するかもしれない-リングを受け取ってくれた。
Will you marry me?
私が言わなければならなかったのかもしれない。
夫の心臓の病が発覚する2年前の事である。
日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。