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音と音のあいだ:不協和音の美

人間の感覚とは不思議だ。

ドビュッシーのピアノ曲が好きで、自分でもいくつか弾いてきた。

といっても先生についてピアノを習っていたのは中学生までで、ドビュッシーの楽譜と出会ったのは大人になってからである。
それも娘が習っていたピアノをやめるというので、じゃあ私がと始めた大人の手習いである。

その時に知ったベルガマスク組曲。
前奏曲、いきなり始まる和音の音色に魅了された。
その透明感。(私の技量では難易度高すぎな曲でしたが・・)

亡くなった坂本龍一さんは若いころ(というより子供のころ?)ドビュッシーに傾倒して、鏡を見ながら自分はどうしてクロードというフランス人じゃないのだろう(クロード・ドビュッシーはフランス人)と思ったらしい。
そんなことから、たまたまYoutubeで見つけたのが坂本龍一音楽の学校/スコラ/ドビュッシー、サティ、ラベル編

その講義の中で私が初めて知ったこと。

中世の音楽にはミの音がなかった!
(ドレミファ・・のミがないってどゆこと?)

バッハによってはじめてこの3度という隔たりのあるドとミの音を含むドミソの和音ができたと。
(ドミソって基本中の基本の和音だったのではないの!??)

実はこの3度の音の隔たりは、物理的にはバイブレーションが出て中世では不協和音とされていたらしい。不快な音として使われなかったということだろうか。

それが何百年かの時を経て、人間の感覚が変わって行った。

不協和音が美しい。

まさにドビュッシーやサティはかつては人間の感覚に不協和音だった7度(ドとシ)をいれたドミソシの和音などを積極的に取り入れたのである。あるいは9度(ドと1オクターブ上のレ)。当時は一般的には中々受け入れられなかっただろう音の響き。

人間としての耳の構造は変わらないのに音への感覚が時代とともに変化してゆく不思議。
そもそもの不協和音=不快という理解がどこか違っていたのかもしれない。

私にとってドビュッシーの和音は透明感のある心地いい音色としてに体にしみわたってゆく。

上の動画では戦場のメリークリスマスに取り入れられている不協和音の解説もされている。音の残響を生かして生み出す不協和音がまた美しい。

言葉できっかり示される色と色の間にも色のグラデーションがあるように、音階として言葉にあらわされている音と音の間にも音がある。

このスコラのドビュッシー、サティ、ラベル編①ではドビュッシーが影響を受けたというインドネシアの民族楽器ガムランの紹介がされている。ガムランの音の波紋はまさにドビュッシーが取り入れた隠された旋律で(隠されてない?私が知らなかっただけ?)こんなところに心が揺さぶられる何かがあったのだとあらためて気づかされた。

坂本氏の最晩年のピアノコンサートPlaying the piano 2022を観た(NHKスタジオで短時間ずつ区切りながら収録されたもの)

ひとつひとつの音の美しさを極めるかのように奏でられるピアノソロ。オリジナルのTongPooを聞いてきた人には、ピアノ音だけのそのシンプルな美しさに、涙なくしては聞けないと思う。

ゆっくり弾いて、音と音の間を聴く

そう坂本氏のコメントが入っていた。

まさにシンプルなピアノの音の残響に重ねられる不協和音の美がそこにあった。


ところでオンラインで続けているカナダローカルのヨガクラスでのこと。
ある日代わりにやってきた講師が瞑想時に、メタル製の楽器で音を出してくれた。ふちを指で沿わせて出すヒーリング音・・だと思うのだが、私には全く聞こえない。
こっそり片目を開けてパソコンの画面を見ると、私の友人は目を閉じてその音を聞き入っている風である。
パソコンの音量を100にしてみるもこちらには全く聞こえてこない。
しんとしている。

後で友人にメッセンジャーで聞くと彼女にも聞こえていなかったというではないか!
そんなことを先日東京で会ったヨガの先生に言うと、発信側のパソコンの設定を変えないとあの音はピックアップできないとのこと。

晩年坂本氏は風や街の音を録音して回って、それらの音と自分の音楽とのコラボレーションにも取り組んでいて、上の動画の最後に加えられている。

私たちには聞き逃している音がいっぱいある。


ヘッダー写真はベルガマスク組曲の前奏曲最初の和音。


日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。