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「ポメラ日記 note出張版①(話らしい話のない小説を書きたい話)」

note出張版のポメラ日記を作りました


・こんばんは、kazumaです。今日は久々にnoteの方へ投稿することにしました。ポメラ日記は本家ブログへ移転したので、こちらはnote出張版ということで、時々綴るライトな日記として記録しておこうと思いまして。ここのところ体調があまりよくなかったので、中々投稿ができなかったのですが、暇があるときに文章を打っていこうかと思います。久しぶりに戻ってくると、note版を読んでくださっている方もいらっしゃるようですね(いつも読んでくださってありがとうございます)。こちらでもたまに更新していきます。本家ブログではもの書きグッズの紹介などもしておりますので、よかったらブックマーク登録などをお願いします。

夜な夜なポメラを公園で打つ、秋は外で散歩しながらタイピング


・今日は夜の公園でポメラを打っている。ここ一週間は台風があったり、大雨が降ったりと中々外でポメラを打つ機会がなくて困った。気温も涼しくなってきているので、お散歩しながらポメラを打つには絶好の機会なんだけど。普段は在宅でPCに張り付きがちの生活を送っていて、外に出られなくて悶々としていた。台風も過ぎて、天候も夕方はよかったので、今日はいけるなと思って家のドアを開けた。近所の公園は一通り回ったので、歩いて二十分くらいの遠方の公園に来ている。適度にひとが少なくて、座りやすいベンチもあり、タイピングするにはちょうどいいところだ。夜だと気温も落ち着いていて、環境的にはわるくない。街中の公園なので虫も少なかった(ここ重要)。

知らない書店に行ったら普段だったら絶対買わない本を買おう


・週末は郊外の書店へ出かけた。最近は行ったことのないスポットを巡っている。以前立ち寄った図書館では芥川龍之介が選んだ怪異文学をまとめた本があって、いままで見たことがない本を見つけた。場所を変えると見つかるものがある。知らない書店に行くと、普段ならぜったいに買わないような本が眼に付いたりするものだ。僕はそういうものを見つけたらなるべく買って読んでみることにしている。今回は海外の都市伝説サイト「クリーピーパスタ」の本を買ってみた。都市伝説はべつに信じているわけじゃないけど、ホラー的な発想が面白かったりもするので、時々調べたりしている。芥川にも怪異趣味があったようだ(河童のモチーフを好んで、友人に河童を描いた手紙を送ったりしている)。「ありえないことが起こる」っていうシチュエーションに僕はどうも惹かれる。小説もリアリズムではなくて、ちょっと不思議なことが起こる方が好きだ。手品や魔法を見ているようで童心に帰れる。

街中ポメラスポット探しは相変わらず難航中、結局公園が落ち着く話


・街中でポメラを打てるところも探しているけれど、やっぱり中々見つからないものだ。図書館でもタイピングしてもよいか聞いてみたりしたが、ポメラみたいなデバイスが使える場所はけっこう限られていて、結局公園で打つことになったりする。喫茶店で打ってもよいのだけど、今月はポメラ用のバッグを買ったりしたので、あまりお金がなく、まだ行ったことのない公園でタイピングすることが増えた。ただいま新規スポット開拓中。

うろ覚え、漱石の『草枕』論


・八月で新作の短編を書き上げたあと、次の作品の構想を練っていた。前回は一人称の小説で、あまり筋に頼らないものをと思って書いていた。漱石の『草枕』のなかで、主人公の画家が旅館の話で出てきた「那美」という女性と話すシーンがある。画家は、会話のなかで海外の小説を即興で訳して読み聞かせようとするのだが、そのときに小説はどこから読んでもよいのだ、という話をする。つまり適当に本を開いて、そこから読み始めたとしても(面白い)小説は面白いと言うのだ。普通の小説は探偵が発明したものだと漱石は言う。

何かが起こるには何かがなければならないと考えるのが探偵


 「探偵」というのは、文字通りの意味ではなくて、おそらく何かの事柄が起きるには定まった理由がなければならないと考えることを指している。漱石はこれを嫌った。たぶんここで言っていることは、人間のひとつひとつの行動や起きた出来事に理由や理屈が見つかるようなことはほとんどなくて、そうであるにも関わらず、何かにつけ理由を見つけようとすることのいやらしさのことを言っているのだと思う。分からないものを分かると言い切ってしまうことへの不誠実さ。フィクションという虚構の中では、主人公の行動にいちいち意味が付けられたり、あるシーンを説明するために、別のシーンが前もって用意されていることがある。この不自然さのことを漱石は言っているような気がする。どんなシーンを描いていようともそこに人情(人間から見た視点、かくかくのことが起こるにはしかじかのことが必要だと見てしまうこと)が入ってしまっていると興ざめだというわけである。

非人情へと向かう試み


・『草枕』の冒頭には、人間の感情や喜怒哀楽の浮き沈みを描いたものには飽き飽きした、という画家の心情を語るシーンがある。そういうものはもう三十の年になるまでに厭というほど現実世界で体験したのだとこの画家は話す。そういった感情の機微を描くのにはもううんざりといった具合で、代わりに漱石が持ち上げたのはその対極にある「自然」「非人情」といったものだった。

 街中の書店に行けば、確かにそういった小説はごまんとある。読んで泣いたり、笑ったりする類いの本。それが善いとか悪いとかはおいといて、作りものめいたもののうさんくささのことを漱石は指摘していたのではないかと思う。この画家は、語り手なんだけど、目の前の風景や歩いて行く人々を、ひととして見るのではなくて、一枚の画にしようと思って見はじめることをやろうとしている。ひとの情や善悪の判断、しがらみのようなものから離れて、芸術を描くことができるのかということを主題に据えたストーリーだ。だから筋らしい筋というものはない。漱石の『草枕』は確かに途中から読んでも面白い。こういうことがいま書いているもののなかでやれないかと考えた。

サリンジャーの『ライ麦』はどこから読んでも面白い小説


・サリンジャーの小説に『ライ麦畑でつかまえて』という小説がある。話の内容は、ホールデン・コールフィールドが入院先の病棟から、ニューヨークにいた日々のことを回想するというもので、一人称でホールデンは延々と読者に向かって語り続ける。サリンジャーは短編作家だったからこういった長編を書くのには随分苦労したようだ。まだサリンジャーが有名になる前、彼はコロンビア大学でバーネット教授の授業を受け、そのバーネットが発刊する雑誌『ストーリー』誌に短編を掲載していた時期がある。サリンジャーが師事した人物としてはバーネットただひとりだと言われており、まだ若いサリンジャーに対してバーネットは作品を制作するにあたって助言を行う。長編を書けというのだ。サリンジャーはバーネットに向かって、自分が短編作家であって、長編を書くことはできないという手紙を送っている。第二次世界大戦のあとに、サリンジャーは『ライ麦』を書くことになるが、この長編はちょっと特殊で、もともと原型となったモデルの短編小説がいくつか存在している。サリンジャーが書いた長編作品は『ライ麦』だけで、あとは中編と短編小説とみなされている。

 サリンジャーがどうやって長編を書いたかというと、どうやらいくつかの短編小説を組み合わせて書いたようだ。原型となる短編を複数制作し、そこからイメージを膨らませて書いたらしい。この『ライ麦』もある意味、どこから読んでも面白い小説だと思う。もちろん、個々のエピソードには筋があるのだけど、どのページを開いても数行読めば、いいなと思う表現にぶつかる。この小気味よさは何だろうと考えたとき、エピソードそのもののよさ、素材の面白さという「中身」のことももちろんあるが、何より語り方そのものがよいのだと思う。僕が読んでいるのは原文ではなくて、野崎孝さんの訳だけど、このぶっきらぼうな口調が僕は好きで、やっぱり名訳だなと思う。

 作品の「中身」というのは誰しも合う合わないがある。誰もがホールデンの言っていることに共感できるかというとおそらくそうではない(むしろその方が世の中の大勢だろう)。でも語っている内容云々は脇に置いて、その言い方が素晴らしいという時がある。これも文体だから好みの問題になってくるんだけど、いい表現に出会うと一瞬で胸をつかまれるようなそんな感覚になるのだ。

 もし筋に頼らないもので、独自の表現で語ることができたとしたら、それが僕の目指すところの小説のような気がする。話らしい話のない小説を、他の誰にもまねできない自分の声を見つけて書くことができたら。

どうやって起こるかは説明できても、なぜ起こるかは説明できない


・漱石の「探偵」の話に戻るけど、結局どんなに頭のいいひとがものを考えたとしても、物事が「何で」起こるかっていうのは説明できない。「どうやって」それが起こるのかということは、理屈で説明できるけど、「なぜ」には永遠に答えられない。科学が進歩して、因果律みたいなものが片っ端から理解できるようになったとしても、「ぼく」や「わたし」がここにいる意味なんて分からないでしょ、って思う。

小説のなかの人物がある行動をとるのに理由は必要か?


・小説に限って言えば、たとえば犯人が誰々を殺害した動機とか、登場する人物に作者があらかじめ理由や目的を持たせて、行動している「ように」見せている。ミステリとかのジャンル小説はそういう決まり事の中で魅せる芸(ギミック的な、からくりの面白さ)だと思うけど、本来は人間の目的なんか、はっきり言って分からないわけだから、フィクションとして楽しむ分にはありだけど、でも他にもっと自由な書き方はないの、いちいち物語のなかで人物が動くのに理由なんか要るのって思ってしまう。そんなのまだるっこしくないか。

 たぶん漱石でさえ完全に筋に頼らないものは書けたわけではなかったと思う。物語の構造的な面白さ、新奇さだけで目立とうとするのはおそらく一回限りのもので、そう何度も何度も都合良く、誰も書いていない書き方を見つけることはできない。

わからないことが面白い小説であってほしい

 でもやるんだったら、少なくとも簡単に読み手に動機がわかったりするようでは駄目だと思う。理由や筋はあっても、読者には容易に分からないように書くということが、書き手の技術として必要じゃないかと思う。分かるから面白い、じゃなくて、最後まで分からないから面白い、であってほしいのだ。物語の秘密っていうのは、明かすことよりも隠すことのなかに、言うよりも言わないことのなかにあるような気がする。

 ところで僕は人形劇が昔から好きじゃなかったんだけど、あれがよく楽しめなかったのは、操り糸が見えて、誰かがその糸を手繰っていると分かってしまうからだ。その途端に冷めてしまう。せめて糸が見えないようにするか、そうでなければ本物の生き物のように動いてほしいと思っていた。小説も同じだ。作者の糸で動いていると分かった途端に面白くなくなってしまう。

何でもわかってしまうのが美徳である社会で小説を書くこと

・僕らの生活している社会は何でもかんでも分かることが美徳のように思われているけれど(たとえばニュース番組でキャスターとコメンテーターたちが事件が起きた事への薄っぺらい理由をいつでもあら探ししている)、もし理屈で何でも説明がついてしまったら、人間なんて要らなくなる。自然のものは説明したりしない。

 ハリケーンが起こるのは南アフリカで蝶が飛んだからだということまで、因果の鎖がもし分かるようになったって、風そのものがそこで吹いたことの意味は因果関係のなかでは説明できない。そういう理由の外側に、僕らはすでに存在してしまっている。

因果律では説明できないことを小説に書く

 因果律のなかにいながら、その状況に投げ込まれていることの謎は、因果律では説明できないのだ。探偵にだって分からないことはある。その理由や理屈で証明できないものこそが、小説の中で書かれるべきことだと僕は思っている。それを物語のなかでやろうと思ったら、やっぱり因果律そのものの見方を捨てなければならない。どこかでロジックではないものが小説を動かす必要がある。

 物語のなかで人物が自由に動き出すときって、プロットの中にはない。いつも僕はプロットから逸れはじめるとき、台本ではなくアドリブで書きはじめたときに、面白い表現ができる。最初から最後までそう書くにはどうすればいいかって考えている。べつに設定やプロットが無意味だということを言いたいのではない。むしろその逆で、もの書きが小説を書くときにはいつでもその世界が頭の中に立ち上がってこなくてはならないと思う。想像力というのは現実を裂いて、そのなかに分け入っていけるかということで、プロットや設定というものはこれを補助するための踏み切り板のようなものだ。僕はもっと小説のなかの人物が、作者の意図を越えて語りはじめるときを探している。

  思ったよりも長くなった、アドリブで書いた。今日はこれで。

 2022.9.28  11:47

 kazuma

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