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「川に向かって、言葉を吐いて」

<あらすじ>

──あたしは何でも壁越しにものを見てしまう。再会を約束した青年・八十島純之介を追いかけて、弓張町へやってきた敷島蛍は、真夜中の橋の上に立っていた。アパートには新興宗教団体『はじまりの丘』からの脅迫状が届き、純之介の失踪は謎に包まれたまま、途方に暮れた蛍は、河原で叫び続ける。純之介、うわばみ、あるいは、この世界を造った神様に向かって。

『あたしに必要だったのは壁だったって、いまでも思っているわ。ノックをしても、叩いても、ものを投げつけても壊れない。この無表情で、凹凸だらけの、ちっとも答えを寄越さない、ただの壁がさ。この壁がいつもあたしの目の前にあるんだ。(本文より)』

note創作大賞2023、ミステリー小説部門、応募作品『川に向かって、言葉を吐いて』


 ねえ、何から話そうかしら。あたしね、こういう時って、どんな風に喋ったらいいか、分からなくなるのさ。何を喋ったって、ぜんぶ同じって気がするの。あんたに話そうと思うとね、あたしはいつも森の中にいるみたいだわ。どんなにあたしが大きな声で喋ったって、あんたの耳まで聴こえやしないから。ねえ、聴こえてる? あたしの声が。ちゃんと聴こえてる? ──返事くらいしてよね。すぐに見失っちゃうからさ。あたしね、もっと遠くへ行きたいんだ。こんなところ、ほんとは一秒だって立っていられないのよ。目眩がするわ。
 いまは小雨が降っているみたい。全然気が付かなかった。ちっともつめたくないな。川を見てたの。あんたは元気でやっているかしら。手持ちの煙草の箱は空になったわ。こんな天気じゃ火だって点きやしないし、つまんないな。早くライターを寄越してよ。ちゃんと点くやつをね。あたし、いまだったら何だって燃やせる気がするな。何でもよ。さっき通行人が後ろを通ったわ。プラダのバッグにエルメスのチャームを付けてた。ばかみたい、背中にライターでも投げつけてやろうかしら。冗談よ、本気にしないで。
 夜はいいわ。ちょっとくらいおかしくなったって平気。こんな真夜中に郊外の橋を渡るのは、酔っ払いか浮浪者か、あたしみたいなどこにも行き場のないやつしかいないの。あたしいま、ベンチに座ってるんだけどさ、ここに来るまでに排水溝に向かって吐いているやつがいたわ。とても気持ちよさそうだった。街中を歩いてるとね、みんな、腹の中に溜め込んだものがあるんだって、すれ違っただけで分かっちゃうんだ。そんなやつはさ、さっさと吐いてしまったらいいんだ。あたしはこの前、道端に落ちてたコカ・コーラの缶を蹴っ飛ばしてやったよ。え? 何でそんなことするかって? ──あんたは空き缶ひとつ蹴るのに理由がいる人間なの? 目の前に空き缶が落ちててさ、あんたが蹴りたいって思ったなら、あんたはその空き缶を蹴った方がいいわ。でないとあんたはいつか、もっと替えの利かないものを蹴っちまうようになるからさ。
 あたしがいましたいことと言ったらさ、橋の欄干から川をぼうっと眺めることだな。この橋の下にはさ、ヘンな画家の爺さんがいるの。あたしは別に、知り合いでも何でもないんだけどさ。ある日の夕方に爺さんを見かけたことがあった。一丁前にイーゼルなんかを持ってきてさ。ずっと芦の束を眺めているんだな。でも、目の前のキャンバスには何も描かないんだ。来る日も来る日も、キャンバスの前に座っているだけなんだ。あたしは土手を歩いて遠くからそのキャンバスを眺めていたんだけどさ。ペンキの染みひとつない、空白のままだった。結局、あたしらのやっていることもそういうことなんだ。いや、その爺さんは、まだペンキでキャンバスを汚してないだけ、ましかもしれないな。あたしらはペンキを次から次へと塗りたくっているだけなんだ。色を確かめもせずに板の上に叩きつけてね。そんなので一枚の画なんて描けやしないさ。あんたなら、分かるだろ? 空白には耐えられないんだ。汚れていないものがあったら、なるたけ汚そうとするのさ。だってその方が気分がいいからね。終わってから蓋を開けてみなよ、空白よりひどいもんさ。イーゼルごと蹴倒して、キャンバスを遠ざけて、もう色を塗るのもやめちまう。あんたがどうだったか、知らないけどさ、橋の欄干に足を掛けたくなるときってそういうときだよ。筆なんか握れなくなって落っことしちまうんだ。
 そういえばこの間、警官に会ったわ。蒔田っていう男よ。名刺にそう書いてあった。別にあたし、やましいことなんかありゃしないんだけどさ。河川敷で火を熾したの。寒かったからね。ちょっと焚き火をしただけじゃない。そいつは巡査でさ、この辺りをよく回っているらしいわ。近くにいたおじさんに聞いたの。あたしが焚き火しようと木の枝を探し回っていた時にさ。「この辺は警察が来るから気をつけた方がいいよ」ってさ。こう、パナマ帽のつばの先を人差し指でひょいって持ち上げてね。おじさんは折りたたみ椅子に腰掛けてて、そう言いながら釣り糸のリールを回したりしているんだ。この川、釣りは禁止のはずなんだけどね。
「何ですって」あたしは聞き返した。それからしばらく話し込んでいたな。このパナマ帽のおじさん──保科さんって言うんだけどさ、ライターで火を熾そうとしてたあたしに、そんなのじゃ点きやしないよって言うんだ。
「日が暮れちまうよ」保科さんはリールを止めて椅子から立ち上がった。あたしは黙ったまま、何度もライターで火を熾そうとするんだけどさ、うまく点かないんだ。
「見てらんねえな、嬢ちゃん、これ使いなよ」
 そう言って保科さんはあたしに着火器を渡してくれた。
「何でこんなものを持ってるんですか?」あたしは尋ねた。
「釣り人は何でも持っているからねえ」
 保科さんは口を開けてけらけらと笑った。
「それに、何があるかわかったもんじゃないからね、この辺は」
「物騒ってことですか?」
「いや、治安が悪いとか、そういうことじゃないんだがね……」
 保科さんは言い淀んだ。あたしは河原の石をかき集めて風よけを作った。火はよく燃えた。ちゃんとした木の組み方があるんだと保科さんが言った。昔、ボーイスカウトをしていたんだって。あたしはポケットから煙草を取り出して吸ったわ。気分がよかったからさ。
「あんた、吸うのかい?」
「ええ、まあ」
「一本分けて貰ってもいいかね」
「どうぞ」
 あたしは箱の底を叩いて一本抜き取って渡した。保科さんはすぐに煙草をくわえて、川の方を向いていたな。それから火を付けて、風でパナマ帽が飛ばないように左手で押さえていた。これくらいの年のひとがさ、遠くを見るために眼を細めると、何だかあたしらには見えないものが見えているような気がするんだよ。きっと焦点は橋の袂とか川のあぶくに当たっているはずなのにさ、向こう岸までちゃんと見透かしたような眼をしてるのさ。
 あんたの眼は霧と一緒だったな。あたしのことなんかろくに見てなかったんだろ。雨の日に川の底を覗き込んでるのとおんなじさ。こんなしけた話はおしまいだね。煙草の火だって消えちまったんだ。
 あたしは火がはぜるのを眺めてた。それから二本目の煙草に火を点けた。保科さんは途中まで煙草を吸っていたんだけど、手を降ろしたっきり、吸うのを止めてしまった。あたしは臙脂のコートのポケットに左手を突っ込んだまま、つられて煙草を吸うのを止した。保科さんはさっきよりも深く帽子を被っていて、片目が見えなかった。
「近頃は焚き火をするやつも少なくなってな」保科さんはまだ燃えている木の枝を組み替えている。
「昔は庭でやったもんさ。いまじゃ寺の焚き上げくらいかねえ。ところであんた、煙草は右手で吸うのかい?」
「え? ……たまに、持ち替えます」
 あたしが黙っていると、保科さんは話を続けた。
「おれが川に来るのはさ、家にいるのが性に合わない質だからさ。別にかみさんがいやでここに来ているわけじゃねえ。ただちっとばかし、肩の荷を降ろしたいときがあるのさ。小っちぇえ頃から、肩身の狭い家で育ったもんだからよ。人前にいる時はいつでもおれはおれの振りをしていないくちゃならねえ。その頃から川に来るのが癖になっちまって、年を取ったいまでも止めらんねえのさ」
 一通り話し終わると保科さんは屈み込んだ。それから短くなった煙草の吸い殻を火のなかにくべた。吸い殻は「く」の字になって折れていき、やがて灰になった。
「嬢ちゃん、あんた、燃やしたいものあるか?」
 あたしは首を横に振った。吸いかけの煙草を投げ入れる。
「吸い殻、くらい」
「……そうか。おれはここを離れるからさ、あとは好きにしなよ。ああ、炭は忘れずに持って帰るんだな。この辺を回ってる駐在に見つかると面倒だしな」
 保科さんは椅子を畳み、荷物をまとめて行ってしまった。芒の穂を踏みしめる音がする。土手の階段を上っていく保科さんの後ろ姿が見えた。堤防に置いてあった荷台付き自転車に跨がり、あたしに向かって手を振っている。手を振り返すと、白の自転車はすぐに坂を下って高架下の路地へ消えてしまった。辺りはもう薄暗くって、空は葡萄色のインクを零したあとに見えた。あたしはひとりぼっちで囲んだ石のそばに立っていた。頬に当たる十一月の風がつめたかった。遠くでイチョウの葉が揺れているのが見えた。
 あたしね、燃やしたいものって沢山あったな。街を歩く度に反吐が出るの。何もかもが気に入らないわ。気取ったカフェのショーウインドウがあったら粉々に割ってやりたくなるし、肩で風を切って我が物顔で歩くスーツ姿のやつがいたら足をひっかけて電信柱に突っ込ませたくなる。一丁目から六丁目を通るすべての車の排気ガスとクラクションが気に食わないし、電話口で偉そうに喋っているやつがいたら、そいつの受話器ごとふんだくって池に落としてやりたい。交差点に立っててあたしのことを後ろからくすくす笑うやつがいたら、いますぐそいつの首根っこをつかまえて、真夜中の橋のへりに立たせてやるわ。ねえ、もういっぺん笑ってみなよ。何が分かるの。あんたに何が分かるの。あたしのことを知っているのは、あたしと神様だけよ。ねえ、いまでもそう思うな。
 蒔田ってやつはね、あたしが火の後始末をしている時に現れたんだ。ちょうど運悪くさ。あたしってこういうのをうまく逃れた試しがないんだ。いつでも最悪なときに最悪なやつが来るのさ。こういう時にどうするのかって言うとだな、あたしの経験上、変に迂回したり、裏道に回ったりすると怪しまれるんだ。平気の平左です、って澄ました顔をしていた方がいいな。でないと余計に事がややこしくなっちまうからね。あたしは転がっている炭やら燃え殻なんかをトングで拾って、無言でゴミ袋に放り込んでいた。ゴミ拾いのボランティアに見えやしないかと思っていたけど、そこまで甘くはなかったな。蒔田は近付いて話しかけてきたよ。でも警官の格好はしていなかったから、巡査かどうか、ちっとも分からなかった。
「君、ここは焚き火できない場所だって、知ってる?」
 知ってるよ。でもあたしには用があったんだ。
「すみません。すぐに片付けます」
「学生さんかな」
「いえ」
 本当のところを言うとあたしはもう二十九だ。未だにあたしの見てくれは未成年者に見えるらしい。そんなのはただの張りぼてと同じだってのにさ。
「身分証、提示してもらえるかな」
 あたしは首を横に振った。どこの誰だか知れないやつに身分を明かす馬鹿はいない。あたしが返答しないでいると、蒔田は頭の後ろを掻いて、懐から名刺を取り出した。
「私は葉山台地区の巡査の蒔田です。そこの末広橋を渡った先の交番に勤めている者です」
 あたしは炭で汚れた手でそれを受け取った。
「それで?」とあたしは言った。それであなたがあたしに何か用でもありますか。
 蒔田は少したじろいだように目線を逸らした。目線の先には橋の棚桁があって、打ちっぱなしの灰色のコンクリートのタイルがあった。
「普段からこの辺りをパトロールしているんです。非番の時にも。これは余計なお世話かもしれませんが、この辺りは足元も見えなくなるほど暗くなるんです。もう帰った方がいいですよ」
「暗くなったら帰らなくちゃいけない条例でもできたんですか?」あたしはわざと首を捻る仕草をした。蒔田は、一呼吸置いてから向き直った。警官に特有の、有無を言わさぬ口調で喋りはじめた。
「何だって、潮時というものがあります。私も警官ですから、何のわけもなく帰れと言っているのではありません。分かりますか? もうひとつお節介を言うと、私があなたを見かけたのはこれが最初じゃないんです。あなたは昨晩も、その一昨晩も橋の上に立っていましたね? 深夜の一時頃でしたっけ。パトカーから川を覗き込んでいるあなたの顔が見えましたよ。口元で独り言を言っているように見えました。川の向こうに誰かいるんですか。それとも空想上のお友達ですか?」
「余計なお世話」あたしは足元の土が蒔田にかかるようにスニーカーのつま先で蹴った。
「最初にそう言ったはずです」蒔田は悪びれることもなく言った。夜の中に溶け込んじまいそうな暗い眼、瞼の下には半月を浮かべたような隈が浮かんでいた。あたしは溜息を吐いて言った。
「いい? 仮にあたしが深夜の一時に橋の上に立っているからと言って──だから、何だって言うの? お巡りさんがあたしのお悩みごとでも解決してくれるわけ? あんたが警官だからってあたしに注意する義理なんかないわ」
「いえ、あります」
「はあ?」
「この川は飛び降りで有名な場所です、ご存じないですか?」
「あたしが自殺するような人間だと思ってるわけ?」
「状況だけ見れば、そうですね。連日、橋の上に通い詰めて、毎晩川に向かって独り言を喋っているようなら。勢いでそのまま飛び込む方もいますが、入念に下調べをする方もいますから」
 あたしは煙草を足下に落とし、スニーカーのゴム底ですり潰した。それから貰った名刺を指で丁寧に四等分に砕いて土の中に埋めた。砂利の隙間から泥に埋もれた名刺の角が飛び出していた。あたしは土塊を蹴りながら言った。
「何か誤解しているようだから、言っておきますけどね。もし橋の上から飛び降りるつもりのやつがいたとして、そいつの足を欄干から地上に押し戻すのは、あんたみたいな人間じゃないのよ。仮にあんたの言う通り、あたしがこれから川に飛び込むつもりでここに立っていて、あんたがそれを防ぐことができたとしても──あたしは靴を揃えてもういちど川に飛び込むわ。他人事だと思っているでしょう? その喋り方。反吐が出るのよ。誰かが橋の上から飛び降りたって、あんたはただ今日の死亡者数に『1』を書き加えるだけでしょ? そんな数字で、そのひとを表したことにはならないのにね。翌日にはもうそいつのことは忘れているんだ。ええ、間違いなく。あんたたちにとっちゃ、人間なんか、ただの数字と一緒なんだ」
 あたしが言い終えると、蒔田は黙ったままその場に突っ立っていた。表情をちっとも変えないままずっと正面を──あたしじゃなくて、砂利の上に残っていた薪を見ていた。すっと差し足であたしの脇を抜いて、火にくべた跡に近づいていった。しゃがみ込むなり、だんご虫みたいに動かなくなった。あたしはもう用が済んだと思って、川岸から離れた。蒔田は引き留めなかった。土手に上がって振り返ってみても、あいつは同じ場所にしゃがんでいたな。空には月のそばに金星が浮かんでいた。風が吹いて、遠くで鉄橋を渡る列車の車輪が鳴っていた。おかしなやつさ、だって、そんなところに誰もいやしないんだから。コンクリートブロックの段を下る濁流の音が響いていた。その音がずっと耳にこびりついて離れなかった。あたしに聞こえていたのはうわばみが獲物を丸呑みする音さ。さっさと呑み込んじまいなよ、こんな世界に用なんかないからさ。あたしはいつか、お前に喰われちまうって分かっている。その日までに掛けられたまじないを解かなくちゃいけないんだ。

 アパートに帰る頃には深夜の三時になっていた。明かりを落とした部屋で目覚まし時計の蓄光塗料が淡く光っていた。三ツ折りのマットレスを重ねたまま、あたしはぼんやりとそこに座っていた。こうやって窪みのなかに収まって壁を眺めているのが好きだった。何にもしないで、部屋の中で息を潜めている時間がね。
 アパートの壁は灰色のペンキで覆われている。部屋を決めるときに選んだの。黒でも白でもない、灰がよかった。何だろう? 吸い殻に似ているからかな。あたしに必要だったのは壁だったって、いまでも思っているわ。ノックをしても、叩いても、ものを投げつけても壊れない。この無表情で、凹凸だらけの、ちっとも答えを寄越さない、ただの壁がさ。この壁がいつもあたしの目の前にあるんだ。ここにいるときも、そうじゃないときも。あたしは何でも壁越しにものを見てしまう。壁はあたしを守ってくれることもあるし、突き放しもする。いつか、あんたと河原を歩いた日があったね。でも、やっぱりそのときもあたしたちの間には壁があったのさ。それからあんたは目に見えないドアノブを回して、あたしの知らないところへ行ってしまった。あのときさ、あたしが触れていたのは壁だったのか、あんたの指先だったのか、未だに分からないんだ。あんたがいなくなったあと、あたしに残されたのは何だったか分かる? それからはずっと壁の中で暮らしたわ。出ようったって出られないの。あたしは誰かと話をするとき──たとえば、さっきの蒔田や、保科さんでも構わないんだけれど──いつでも嘘つきになった気がしたな。ほんとうのことってどこまで喋っていいものか、分からなかったからさ。だからこうして川越しにあんたに向かって喋ってるってわけ。もう話す相手もいなくなっちゃったからさ。早く帰ってきてよ、来ないんならあたしが迎えに行こうか?

 部屋のチャイムの音がして、あたしはマットレスから体を起こした。どうやら寝過ごしたらしい。玄関扉のピンホールを覗くと同僚の星野遙が手を振っている。扉のチェーンを外し、ドアを開けると近所のスーパーのレジ袋を持った星野がいた。あんたが休むのは珍しいからね、と言って、袋から林檎を取り出して放った。あたしが慌てて受け止めると、いいよ、と答える間もなく、星野は玄関口から上がり込んだ。
「心配したよ、敷島。元気そうじゃん」星野は長袖のセーターの余った袖口を振っている。
「何か飲む?」と星野が続けて言った。
「それはあたしの台詞。人の家を自分のうちみたいに言わないで」
「喉、渇いた」
「あのねえ」
 あたしがヤカンで湯を沸かしている間に、星野は買ってきた紅茶のラベルを剥がすことにやっきになっていた。リスが木の実の殻を割るように外装のフィルムを引っ掻いて剥がし、並べた二つのマグにティーバッグを放り込んだ。あたしが湯を注ぐと、今度は袋詰めのビスケットを取り出して、口にくわえたまま、部屋の中を歩き回っている。一通り眺め終わると、星野はビスケットの半分を噛み割って言った。
「敷島の部屋って、敷島の部屋には見えないね」
「何それ、どういう意味?」あたしはまぜ返す。星野はテーブルまで戻ってきて、ミルクを注いだ紅茶にビスケットを浸して食べ、また話しはじめた。
「何て言うのかな、机とか、椅子とか、カーディガンとか、そこらにおいてあるものがあんたのものって感じがしないんだ」
「生活感がないってこと?」
「いんや、匂いだな」
「匂い?」
「私ね、普通のひとよりちっと鼻が利くの。部屋に入ったら、そのひとが食べたりしているものとか、服の匂いとかでどこへ行っていたのか、大体はわかっちゃうんだ」
「なら当ててみてよ。あたしはどこにいたでしょう」
「ううん、駄目。敷島のものからはいつも同じ銘柄の煙草の匂いがする。半年間、ずっと同じ。それもあんたくらいの年の子が吸いそうにない、ヘヴィーなやつ」
「ふーん、それだけ?」
「……それと、かすかに草の匂い。公園にでも行った? 煙草と混じっているから、確信は持てないけど」
 星野はテーブルの紅茶を啜った。ソーサーの上に置いたカップの水面が揺れている。底には割れたビスケットの欠片が沈んでいる。
「そういえばさ、敷島。先週の金曜に休んだって聞いたよ。明日はどうするの? シフト、代わってあげよっか」
「ううん、悪いけどあたし、もう行かないかもしれない」
「何かあった?」
「何にもない。また引っ越そうと思っただけ」
 あたしはカーテンの隙間から窓の外を眺めていた。わずかに窓を叩く雨音がする。
 星野が椅子から立ち上がって、窓際のあたしの方までやってきた。
「雨?」
「うん、そうみたい」
 水滴が窓に線を描いていく。結露した水は筋になって桟に溜まっている。
「取り込まなくてもいいの?」
「え?」
 奇妙な間があった。星野はじっとあたしの目をのぞき込んでいる。
「洗濯物。本降りになったら濡れちゃうよ」
「ああ、うん」
 あたしは慌ててバルコニーへと続く窓の錠を外した。
「好きにしてて。あたし、洗濯物を畳んだり、しまったりしておくからさ。冷蔵庫のなかにあるもの、何でも食べてていいし」
 星野は頷いて居間に戻った。冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、紅茶に注いでいる。新しいビスケットの袋を取り出して、またミルクティーに浸しながら食べていた。あたしはスウェットや靴下やジーンズをまとめて取り込んだ。デニムの生地に触れると雨の染みが残っていた。
「誰か来たみたい」不意を突くように星野が言った。
「ん? 誰?」
「分かんない。郵便かな。玄関口のポスト。取ってきてあげようか」
「ちょっと待って、星野。大事なものかもしれないし、あたしが行くわ。そのままにしておいて。ねえってば」
 あたしが洗濯物を床に放り投げた頃、星野は既に玄関口へ向かっていた。三つ折りのA4用紙が郵便受けから滑り落ち、玄関の床の上に広がっている。
「何? これ……」
 星野はコピー用紙を眺めたまま、無言で廊下に突っ立っていた。あたしは走って行って星野が持っていたA4用紙を取り上げた。無機質なタイピングのゴシック文字で文章が書かれている。
『ダツソウシヤニ×ヲ ユルスナ』
「私、追いかけてくるわ」
「行かないで」あたしは星野の腕を力一杯掴んだ。
「どうして? 犯人はすぐ近くにいるはずよ。いま追えば必ず見つけられるわ」
 あたしは首を横に振った。手元から用紙が床に落ちた。
「もしかして、あんたが休んだ理由って、これ?」 
「……」
「警察に言わないと。こんなもの、脅迫状じゃない」
「警察は当てにならないんだ」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょ! あんた、このままだったらここに住めなくなるわ。いいの?」
「帰って。ここで見たり、聞いたりしたことは誰にも話さないで。お願い」
「あんた、正気?」
 あたしは頷いた。
「いい、あたしとあなたはただの同僚。この前会ったときは元気そうにしていた。実家に帰るって話していた。誰かに聞かれたら、そう言って」
「ばか、あんたはどうするのさ」
「その質問はあたしには答えられないわ」
「……敷島、私たちって友達よね」
「友達にだって分からないことはあるわ」
 星野は溜息を吐き、玄関のドアノブに手を掛けた。
「三日間。三日間、私はあんたのことを黙っていてあげる。あんたにどんな事情があるか、私は知らないけどさ。友達だったら連絡くらい寄越しなさい。でも三日後までに無事だっていう連絡がなかったら、私は職場と警察にこのことを話すわ。いいわね?」
「分かった」
「……気をつけてね」
 星野は戸の隙間から出て行った。あたしは閉じていくドアクローザーのバネが折れ曲がるのを見ていた。床に落ちたA4用紙を拾い上げ、ライターを取り出し、台所のシンクの上で炙った。端から炭になっていく紙を眺めて、火が大きくなる前に洗い流した。煤の匂いがする煙を胸のなかに吸い込んだ。蛇口から流れていく水と、蛍光灯のそばを舞う羽虫、洗い残したガラスコップが目に付いた。あたしはガラスコップを掴んで、シンクの天板に叩きつけた。コップは粉々に砕けて、破片が四方に飛び散った。それから部屋の灯りを落としてマットレスに横たわり、暗闇のなかで天井の木目を追いかけた。排水溝に流れていく水の音を聞いた。蛇口の水は止めどなく流れ続けていた。台所を羽虫がさまようように飛んでいる。

 ねえ、何を話したって無駄だって気がするの。誰かの前で喋っているとき、あたしは借り物の人形になるんだ。もうひとりのあたしは後ろで汗だくになって、あたしの形をした人形の糸を手繰って、何とか生きているように見せようとするんだけどさ、うまくいった試しがないんだ。その内、人形の方がほんものらしいことを言い出してさ、あたしの出る幕はなくなって、袖に引っ込んでいなくなっちまうんだ。舞台でべらべら喋っているあたしの人形を、あたしは幕の裏でずっと眺めているのさ。その内にどっちがほんもののあたしだったか、分からなくなってくるんだ。あたしはその人形を跡形もなく燃やし尽くさないうちには、生きたことにはならないと思うんだよ。さっき星野と喋ったけどさ、あたし、まだ一言も喋ってないな。いや、あたしはこれまでに、誰かと喋ったことってないと思うな。嘘つきじゃないと、ここにいちゃいけないみたいだからさ。あたしが最初に憶えたことはそれだったな。皆がかけ算やら、ちょうちょ結びや、黒板に落書きなんかしている間に、あたしは誰よりも早く嘘つきになれるように訓練したんだ。
 ねえ、煙草を吸ったり、アパートを借りてみたり、昔の写真を焼いたりしたってさ、そんなことで大人になんかなれやしないよ。あんたはいつも川面を見て歩いていたな。筋書きなんて最初から決まってる。あんたはそう言った。あたしもそう思う。でもさ、もしあたしらの考えたように世界が完璧に動いていたとしたらさ──つまり、あたしらが家出をして、どこか遠いところで暮らそうとして、あんたが行方をくらますことまで、みんな台本があって、何から何まで決まってたことだっていうんならさ、神様はきっとその世界をはじめなかったはずだって思うんだよ。もしそんなものをみんな分かっててはじめたっていうんなら、たぶんそいつは神様なんかじゃないな。あたしは目の前のお芝居がただのつまらないお芝居なんかじゃないってことを信じたいんだ。そうさ。神様が嘘つきだなんて思いたかないんだ。この世界がただの影踏みのお芝居だなんて思いたかないんだ。

 トランクトローリーの鍵を開けて、手当たり次第に部屋のものをかき集めて床に並べた。ウールのオリーヴ色のマフラー、トナカイ柄のセーターにリーバイスのジーンズ。それから下着、歯ブラシ、睡眠薬……。アパートの賃貸会社に連絡して今月末には引き払うように手配した。こんなのは慣れっこ。いつだってあたしは根無し草だったし、これからもそう。猫から逃げ回るネズミみたいにあっちに行ったり、こっちに行ったり。
 トランクに詰め込めないものはゴミの日に出した。がらんどうの部屋で吸う煙草は悪くない。部屋にあったものは煙みたいに消えちまって、隣の部屋の換気扇がからからと回る音がする。吸っていた煙草の先から灰が落ちた。そのときにさ、あたしはもうここから出て行こうと思ったんだ。それからトランクの引き手を持って、玄関まで引きずっていった。
 扉を閉めたときのことはいまでも覚えているんだ。目の前で閉じた無表情なアルミ扉の向こうにはさ、あたしの暮らした部屋があって、その床にはわずかばかりの灰が落ちているんだ。次に部屋に入る誰かは箒とちりとりでさっさと片付けちまうんだろうけどさ、あの冷たいフローリングの床の上にはいまでも灰が落ちていて欲しいって思うんだよ。

 河川敷までトランクの荷を引いていった。錆びの入った鉄橋の手すり、朽ちた切り株、路肩を埋め尽くしたかたばみの葉。回転するキャスターのコマが小石を弾いていく。土手の坂を登っていくと、見覚えのある白いカゴ付き自転車が停まっていた。保科さんだ。あたしは堤防を下って川岸へと近づいていった。このあいだ、焚き火をした場所に保科さんがいる。簡易ベンチに腰掛けて、足下には大型のクーラーボックスと柵に固定した釣り竿がある。
 スニーカーの底が丸い石にぐらついて、あたしは転ばないよう、慎重に歩いていった。保科さんはすぐに足音に気が付いて、パナマ帽のつばを回して振り向いた。
「ああ、こないだの嬢ちゃんか。どうしたんだい、そんなに大きな荷物を抱えてさ」
「引っ越しをするんです」
「引っ越し? 川にでも越すのかい」
 保科さんは煙草をくわえたまま笑っていた。クーラーボックスの上に円座のクッションを敷いて、手招きしている。あたしはトランクを置いてそこへ腰掛ける。
「次に行くところ、決まってないんです。アパートはもう引き払っちゃって」
「そいつは大変だな」
「それで川に来たんです。ちょっとだけ、ぼんやりしたくて」
 岸に打ち寄せる波音が聞こえている。川の真ん中で一匹、鴨がはぐれていて、羽をばたつかせていた。

──ライター、持ってないかな。おれ、いつの間にかなくしちまったんだ。
──これっきりよ。その代わり、あたしが持っていないときは、あんたのを借りるから。
──いいよ。
──火を点けるから、さっさと出しなさい。あんた、なに吸ってんの?
──ラッキーストライク。
──ところで、このライター、おれが持っていたやつにちょっと似てないかな?
──ただの偶然よ。
──君はいつも川にいるんだな。
──悪い? あんただって教室では見掛けないわ。
──おれもよくここに来るんだ。川は忘れるにはいいところだよ。何だって流れていくんだからな。

 保科さんの指先で煙草の煙がうねっていた。柑橘の甘い匂いがして振り向くと、『ボンタンアメ』と書かれた懐かしいパッケージの箱があった。オブラートに包まれた飴菓子を保科さんは差し出している。
「どうも」
 あたしはひとつつまんで口に放り込んでみる。オブラートは口の中で解けて、舌で甘い粒を転がした。保科さんは煙草を吸うのを止めて、ふとあたしを見た。
「あんたは地元に戻るつもりはないのかね」
「あたしには帰るところがないんです」
「嬢ちゃんも流れもんってわけか」
 保科さんは溜息をつき、何も引っかからなかった釣り竿のリールを巻いている。
「……鴨がいる」
 あたしは川の向こうから泳いでくる鴨を指さした。くちばしを開いて鳴きながら、浅瀬の波に揺られている。
「あれは、合鴨だな」
「合鴨?」
「ああ、自然界にはいないはずの種だよ。どこぞの飼い主が放鳥したんだろう。元々は家飼いや稲作のために、人間がわざわざこさえたやつだな。まともに飛べないやつがほとんどさ。こんな川に浮かんでいたら、すぐ喰われちまうだろう」
「飛べないんですか? 合鴨って」
「鴨は飛べる、アヒルは飛べない。合鴨は鴨とアヒルの子だから飛べるかどうかはわからない」
「じゃあ、いつ死んだっておかしくないんですね」
 合鴨はあたしたちの前で羽をばたつかせ、飛ぼうと試みているように見えるが、わずかに水面から浮き上がるばかりで、ただ水しぶきだけが辺りに散っていた。
「本来なら飼い主が責任を持って始末しなきゃならんやつさ。自然界になかったはずのものを人間が勝手に持ち込むと、生態系を乱すことになる。あの合鴨はどのみち、殺される運命にあるんだ」
「じゃあ、あの合鴨って運がよかったんでしょうか、それとも悪かった?」
 保科さんは煙草をふかしている。タールの苦い匂い、火先から灰が零れて、その火は砂の中で信号を発するように赤く明滅している。点いたり、消えたりしながら途切れていくその明かりを、あたしはじっと視界の隅で見続けた。
 おれには鴨の運のことは分からんがね、と保科さんは煙を吐き出して言った。
「長いこと、橋の袂に座っているとさ、色んなやつを見掛けるよ。みんな、浮世を渡れなかったやつばかりさ。お前さんも知っとるだろうが、この水無月川は、飛び降りで有名な場所でね。昔の作家が、この川に身投げして水底へ沈むと月が綺麗に見える、と書いたもんだから、後を追うやつが絶えなくなっちまったのさ。おれは満月の夜に若い男が川に飛び降りるのを見たことがある。ちょうどお前さんと、同じくらいの年恰好のやつさ。すぐにレスキューに連絡が行ったが奴さんは見つからなかった。橋の上では消防の前に人だかりができていた」
「なあ、そのときにおれは、街中でのうのうと暮らした連中のことを考えたよ。橋の向こうに並んでいる家の屋根瓦も、窓から漏れた明かりも、塗りたくったペンキの色も、みんながらくたさ。街の中にはこれだけの家が建ち並んでいるのにさ、そこに住んでいる連中の誰ひとりとしてこの青年に手を差し伸べようともしなかったんだってね」
 死んじまったやつの目から見れば、生きている連中がやっていることはただのおままごとだよ。保科さんは煙草を放り投げてそう言った。しばらく口も利かないまま、あたしたちは橋の上の欄干を眺めていた。
 ねえ、どうしてあんたは待ち合わせの場所をこの街にしたのかな。あたしには分からないんだ。当てがあるんだって、言ってなかったっけ。この橋の上でさ、あんたのことをずっと待っていたの。今日こそは、今日こそはって、賭けでもするみたいにさ。気が触れたと思われたって仕方ないわ。追っ手が来たから、逃げなくちゃいけないの。もうそんなに時間なんてないんだわ。
 保科さん、とあたしは呼びかけた。保科さんはジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、川の向こうを見ている。ユリカモメが羽を広げたまま、街灯の上に停まっていた、粉々に砕けたガラス瓶と発泡スチロールの欠片が川岸に打ち上げられている。
「ちょっと手伝ってほしいことがあるんです」
「引っ越しなら、引っ越し屋に頼みなよ」
「人探しです」
「……知り合いでもいなくなったのかね」
 あたしはコートの右の懐から一枚の写真を取り出して見せた。
「こいつは驚いたな。嬢ちゃん、あの施設の子どもだったのかい?」
「知っているんですか」
「知っているも何も、つい半年ほど前にニュースになったろう、ここの団体は……。ずいぶん前の写真だな。日付が七年前だ」
 写真には蔦の張った洋館の建物とアーチの門、玄関脇のプレートには『はじまりの丘 三号館』と書かれてある。あたしの隣にはあんたが──八十島純之介の姿が映っている。あたしはさ、この街にあんたを探しに来たんだ。何を笑っているのさ、純之介。

──笑えよ、蛍。
──どうして?
──君は笑った方がいいんだ。
──いま、なんて言った?
──何でもない。ほら、かなしいことなんかないって顔をするんだ。

「この人を、探しているんです」
 あたしは純之介の姿を指した。五分刈りの坊主頭の青年。服は払い下げのデニムジャケットに白のシャツ、使い古されたグレーのスラックスに黒のサンダルを履いている。
「名前は何と言うんだ?」
「言えません」
「言えない?」
「はい」
「……嬢ちゃん、これでは情報が少なすぎるよ。大体、この写真は七年も前のものだろう。もう見た目も変わっているだろうし、失踪する人間は何かわけがあっていなくなるもんだろ? 簡単に見つかるようにはしていないだろうさ」
 保科さんは首を振ってあたしに写真を返した。
「この街にいるはずなんです」
「何か根拠があるのかね?」保科さんはパナマ帽を降ろし、椅子の座面に置いた。リールを巻き上げて、釣り糸の先に餌を付け直している。
「この街で落ち合うように約束したんです。七年前に、彼と」
「そいつが誰だか知らんがね、女の前から黙って姿を消すような男が約束を守るようなやつだとは思わんな」
 水面に釣り糸の先端の錘が落ち、鯉が跳ねるような音がして、波紋が静かに広がっていった。
「彼がこの街にいたことは分かっているんです。興信所で探偵を雇って調べたんです。『間宮荘』というアパートにそれらしい人物が数年前に住んでいたという情報を掴みました。あたしは半年前にこの街へ来て、すぐに間宮荘を訪ねました。行ってみると留守で、貸家の張り紙が貼ってありました。出てきた大家に聞いてみても、口を濁すばかりで事情も行き先も知らないと追い返されました。だから途方に暮れていたんです」
「間宮荘ねえ……、ふむ、あいつに聞けば何かわかるかもれんな」
 そう独り言を言って立ち上がり、釣り具を置いたまま、芒の穂の間を抜けて、ぬかるんだ道の上を歩いてった。あたしは川岸を離れていく保科さんの後を追って、どこへ行くんですか、と呼びかけた。保科さんはポケットに手を突っ込んだまま、人探しだよ、と言った。

 保科さんはからからと音のする自転車を押して、土手のアスファルトや砂利道を進んでいった。どこへ連れて行かれるのか見当も付かないが、とにかくあたしは黙ってタイヤの車輪の跡を追った。保科さんは途中で道を逸れ、末広橋の真下にある、だだっ広い芝生の上に自転車を乗り上げた。端に立っている白いペンキ塗りの看板は塗装が剥げていて、「ゴルフ禁止」の文字が掠れている。振り返ると堤防の上からトランペットのスケールを練習する音が聞こえていた。群生した芦に阻まれてよく見えないが、芝生には人の歩いた跡が自然と道になっていて、それを辿っていくと小さな広場に出た。ベンチに誰かが座っている。前方にはイーゼルと立てかけられたスケッチブックがある。
「やあ、源さん。久しぶりだね」
「基治か。しばらく見なかったね」
 保科さんはスタンドを上げて自転車を停め、丸太のベンチに座っている源さんの隣に腰掛けた。
「あんたがわざわざ来るっていうのは、さてはちっとも釣れとらんな」
「釣れとらんのは、いつものことよ」
「あれは何だ、お前んとこの孫か、それとも姪か?」
 源さんはあたしをはっきりと指さした。進み出るか迷ったけれど、しばらく遠いところから二人の会話を聞いておくことにした。
「いや、孫でも、姪でもないよ。どこの子か分からんが、困っているそうだ。人を探していてね」
「人探し? この川でか? 難儀なもんだな」
「源さん、駐在を見なかったかい?」
「あいつなら、向こうの高速のガード下を歩いているときに見かけたよ。松ちゃんと話し込んでいたようだ」
「ありがとう、今日はこれでおいとまするよ」
「何だ、もう行くのか」
 保科さんは笑って手を振り、自転車のスタンドを降ろした。あたしが源さんの前を通り過ぎようとした時、不意に呼び止められた。
「ちょっと待ちな。あんた、どこかで見た顔だな」
 はじめてですよ、とあたしは返す。源さんは腕を組んだまま、首を傾げている。
「いや、やっぱりどこかで見た顔だな。おれはな、景色でも人の顔でもそう簡単に忘れることはないんだ」
 そう言って源さんは首の裏を掻いている。ほんとうですか、とあたしは尋ねた。代わりに保科さんが答えた。
「源さんの言っていることは嘘じゃないさ。画家だったからな。見たものは何でもフィルムのコマ送りみたいに覚えているそうだ」
 一度見たものなら何だって描ける、と源さんは言った。
「じゃあ、どうして描かないんですか?」
 あたしは空白のスケッチブックを指さした。源さんは溜息をつき、親指の腹でスケッチブックを何枚かぱらぱらとめくった。白紙の下にあったのは、まるで目の前の川をそのまま紙の上に流し込んだような、写実的な画だった。川面に浮かび上がった橋の陰影、川岸に打ち上げられた空のペットボトル、石にこびりついた苔に至るまで、精巧に造り込まれていた。
 画家は廃業、と源さんはひとことだけ言った。あたしは懐から写真を取り出してそれを源さんに見せた。
「このひと、見たことありませんか? 写真の右側に映っている、このひとです」
 あたしは純之介の顔を指差した。源さんは写真を一べつするなり、いや、知らんね、と言った。あたしは突き返された写真を受け取った。懐にしまおうとした時、源さんはもうあたしを見てはいなかった。丸太のベンチに座り直し、シューズのそばを通り過ぎる蟻の行列を見ていた。次は松ちゃんのところへ行こう、と保科さんが言った。錆び付いた自転車のスポークが回転する、間延びした音が辺りに響いた。

「あの人、嘘をついていたとは思いませんか」
 あたしは三歩先を歩く保科さんに向かってそう言った。
「どうしてそう思う?」
「何となく」
「女の勘は当たるからねえ」
「茶化さないでください」
 保科さんは堤防のコンクリートブロックの上から川岸を振り返った。源さんの姿はいつの間にか見えなくなっていた。
「まあ仮にそうだとしても、嘘つきには嘘をつくだけのわけがあると思うんだがね」
 保科さんはそのあと口をつぐんでいた。高架下で土手を降り、フェンスの隙間を抜けて、裏道から住宅街の路地に出た。古民家の続く通りで郵便ポストのある角を曲がると、「たばこ屋 松」と書かれた店のひさしが目に入った。近くには交番の自転車が停めてあって、警官が窓口でたばこ屋の女主人と話し込んでいた。
「あら、お客さんかしらね」
 振り向いた警官の顔は驚いたような表情でこちらを凝視している。すぐに視線が移って、保科さんに会釈するのが見えた。あたしたちが近づいていっても、蒔田は同じ姿勢のまま、敬々しく頭を下げている。
「ご無沙汰しております」
 気楽にやってくれ、といって保科さんは蒔田に顔を上げるように促した。
「あたし、お茶を淹れてきますね。ベンチにでもお掛けになってください」
 たばこ屋の女主人は、腰にまで届くほど長い髪を揺らしながら店の奥に引っ込んでいった。
「君は元気そうだな。ちょっと頼みがあるんだが、話だけでも聞いてくれるか?」
「もちろんです」
 保科さんと蒔田は並んでベンチに腰掛けた。まだ座る場所は残っていたが、あたしは隣に掛ける気にはなれなくて、店前の電柱のそばに立っていた。しばらくしてデニムのエプロンを着けた女主人が二人にお茶の入った湯呑みを手渡した。あたしが手持ち無沙汰になっていると、盆の上にお茶を乗せた女主人がやってきて、あたしにも湯呑みを差し出した。
「よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
「保科さんと、知り合いなの?」
「そこの川で知り合ったばかりです」
「あなた、おいくつ?」
「二十九です」
「そう、お若いのね。私と十つばかり離れているかしら。私ね、松っていいます。うちはたばこ屋をやっていてね、橋の向こうに交番があるから、よく警官さんがやってきて話し込んだりするの。あの二人は元々、刑事と巡査でね。当時は二人で組んでこの辺りの事件を手がけていたみたい」
「保科さんって警官だったんですね」
「あら、知らなかった? そうね、もうご隠居されているから、あなたに話さなかったのかも。ほら、元警官だって知れたら、面倒ごともあるかもしれないから……。何か相談ごとでもあったのかしら?」
 ちょっと人を探していまして、とあたしは言った。写真を取り出し、源さんに見せたときと同じように指を差す。
「このひと、見たことありませんか」
 松は頬に手を添えたまま、じっと写真を覗き込んでいる。「ごめんなさい。分からないわ」と松は首を振った。
「いえ、いいんです。変なことを聞いてしまって、すみません」
 あたしが写真を直そうとしたあとも、松はじっとあたしの手元を見つめていた。
「その子ではないと思うのだけど……、数年前に同じように坊主頭に刈り上げた子が、店に来ていたことがあるわ。平日の夕方頃になると煙草を買いに来てね。ただ、いつも思い詰めたような顔をしていたの。何もないのに怯えているように見えてね。半年くらい、うちに通ってくれていたんだけど、ある日、ふつりと来なくなってしまった」
「煙草の銘柄は何でしたか?」
 松はすこし目を細めて遠くを見遣った。
「マルボロ、赤の方」
 違う。あいつが好んだのはラッキーストライクだ。いまでも、変わっていなければ。
「あと、この辺りにある『間宮荘』って知ってます?」
 あたしの言葉に松は一瞬、眉をひそめた。
「それって五和商店街の外れにあるアパートのこと? あそこはいつも貸家の張り紙が出ているでしょう。それがどうかして?」
 あたしは松の眼をじっと覗き込んで言った。
「探している人、そこに住んでいたみたいなんです」
 松は押し黙り、ちょっと失礼するわね、と言って盆を下げて店の前に戻った。蒔田と松が何かを話し込んでいる。そのうち、松が携帯電話で誰かと話しはじめた。入れ替わりに保科さんがあたしのそばへやってきた。
「人探しの話、あいつに持ちかけてみたよ。蒔田は昔の部下でね」
「警察官とは思いませんでした」
「すまなかったな、黙っていて」
「いえ、べつに……」
「警官は嫌いか?」
「嫌いというより、当てにしていないんです」
「あいつから少し話を聞いたよ。蒔田から君に話があるそうだ。そういえば嬢ちゃん、名前は?」
「敷島です」
「いい名前だ」
 保科さんは手帳を取り出してペンで何かを書き付けている。手帳から破り取った紙片をあたしの手に握らせた。開くと住所と連絡先が書いてある。「もし、蒔田と話したあとに宿が決まらなければここを尋ねてきなさい。うちの住所だ。かみさんには君が来たときに泊まれるように頼んでおくつもりだ」
「……ありがとうございます、でも」
「警察の案件とはべつに捜査するよう、蒔田には伝えてある」
「どうしてここまでするんですか?」
「こういう人探しを手がけたのは、君がはじめてじゃないんだ」
「え?」
「あとは蒔田に聞いてくれるか。おれは『間宮荘』を当たってみるよ。当たりが付けば、君に報告する。それじゃ」
 保科さんはそう言い残して、ポケットに手を突っ込んだまま路地の角を曲がって姿を消した。このひとは、いつも唐突にいなくなる。あとにはベンチから立ち上がった蒔田とあたし、二人の顔を見比べている松が残った。あたしと蒔田はにらみ合う蛇とマングースのように距離を一向に詰めないまま、その場に立っていた。松がその間に割って入り、あたしたちを交互に見遣って言った。
「三人でお茶をしましょう。敷島さん、商店街にいい喫茶店があるんですよ。お代はあたしが出しますから、よかったら一緒に行きませんか? 蒔田さんも、いいですよね」
 蒔田は様子を見て頷き、あたしは松に半ば強引に連れられて住宅街の路地を歩いた。
 松は喫茶店に着くまであたしを質問攻めにした。どこで暮らしていたのか。仕事は。いつ、この街にやってきたのか。あたしは松の言葉を話半分で、聞くともなしに聞いていた。蒔田とはあれから一言も口を利いていない。適当な相槌を打ちながら、松の話を聞いているのはこの男も同じだった。松の話で答えられることは真実を話し、素性に触れられそうになると途端に嘘を言った。松とあたしが並んで前を歩き、半歩ほど後ろに蒔田が控えていた。あたしが本当のことを話している時はちっとも顔を上げずに俯いているのに、いくつかの嘘を話している時にだけ、この男のまなざしは妙なひかりを持ってあたしのことを見つめてくるのだった。
 喫茶店に着いた頃には既に日が傾いて、窓から日が差してテーブルに影を作っていた。松と蒔田は店員とは顔なじみのようで、「お久し振り」とか言いながら、互いに会釈している。野呂、という店主は蒔田と二言三言、カウンター越しに言葉を交わすと、奥の座席へと通した。テーブルには椅子が四脚あって、座席の一角は観葉植物が植えられたパーテーションで区切られている。メニューの端には「喫茶のらくら」とゴシック文字で印刷されていた。
 松と蒔田は並んで席に掛け、あたしは一番奥の壁際を背にして、松と向かい合う形で席に着いた。主人の野呂がやってきて、グラスに入った水を給仕した。メニューを取り終わると、「ごゆっくり」と言って、伝票を裏返してテーブルに置き、カウンターの奥にある厨房へ戻っていった。あたしがグラスの水にひとくちも口をつけない内に、押し黙っていた蒔田が口を開いた。
「あなたに、いくつかお尋ねしたいことがあるんですが」
「答えられることしか言いませんよ」
「構いません、これは警察の捜査とは別件で扱いますので。保科さんの頼みを個人的に引き受けたまでです」
 あたしは無言のまま、蒔田を見つめる。蒔田は手元のグラスの水を傾けて、話を進めた。
「人を探しているそうですね。七年前に失踪したと伺いました。その懐の写真、ちょっと見せていただいてもよろしいですか?」
 いつ懐に入れたところを見られていたか分からないが、あたしはテーブルの上に件の写真を置いた。
 蒔田は屈み込んで、写真を丹念に眺め回した。天井の光に透かしてみたり、裏返したり、鼻の先まで近づけたりしている。
「この写真の、あなたたちの背後に映っている建物。これは、新興宗教団体の『はじまりの丘』の建物で間違いないですね」
「……ええ」
「あなたとこの青年は、『はじまりの丘』の構成員ですか?」
「その質問には答えかねます」
 あたしは首を振った。すると松が身を乗り出して言った。
「敷島さん。あたし達、味方よ。誰にも喋ったりしないわ」
「答えかねます」あたしは突っぱねた。
「なら、結構です。一応、話だけでも聞いてください。ここの団体のうわさというのは警察もある程度まで把握しています。しかし、捜査の許可が中々下りません。この団体の関係者には失踪者や行方不明者が多いと聞きます。教団の内部では排他的な指導が行われていて、とくに教団によって育てられた子どもは……」
 あたしは手振りで蒔田の話の腰を折った。
「話さなくてけっこうです」
 蒔田は、ばつが悪そうに傾けたグラスの水を呷った。
「それに、こんなところでは誰に聞かれたものか、分かったものではありません」
「この店はいま、貸し切りにしてるの」と松が言った。
 入り口の扉が軋む音がした。店にひとりだけ居た客が出て行ったところだった。店主の野呂が玄関の扉を開けたところで、窓ガラスの向こうで店の札をひっくり返して『CLOSE』に掛け替えた。
「だから、心配はいらないわ」
「にしたって、これじゃ取り調べですよ」あたしはトランクケースと荷物をたぐり寄せる。席を立とうとしたときに、蒔田が咳払いをして言った。
「あなた、厄介事に巻き込まれているんじゃないですか? ちょっと妙に思いましてね。一昨日の夜中は橋の上、昨日は河原で焚き火、今日は大きなトランクケースと荷物を抱えて家出、それから人探し……。アパートは引き払ったと聞きましたが、どうしてそんなに急ぐんです?」
「急いでなんかいません。次の仕事が決まるまで、落ち着かないだけです」あたしは言った。蒔田は鞄から数枚の黒ずんだ紙片を取り出した。どこかで見覚えがある、タイプされた文字。
「あなたの焚き火跡の近くに落ちていたものです。あそこで何か焼きましたね? それも散り散りにしてから焼いたんだ。あの時、私の前で名刺を砕いたのは、その時の癖だったんじゃないですか? もうほとんど焼けていたけど、何枚かは風で飛んだんですよ。足下が暗くて、あなたは気が付かなかったみたいですが」
「……」
「落ちていたのは『罰』という文字です。日常生活でこんな文書をタイプする人間は限られています。奇妙に凝った書体で、文字も傾いている。あなたがその日、何のわけもなく焚き火をしていたとは思わないんですよ。文書を燃やすのは、それを誰かに見られたくなかったから。シュレッダーに掛ければ済むものを、わざわざ焼いているのは、それがあなたにとって忌まわしい文書だからじゃないですか?」 
「それ、何だと思います?」あたしは蒔田の手元を見て、問いかけた。
「さあ。いまのところ、断言はできませんが……あなたは知っているんでしょう?」
「あたしが求めているのは、写真に映っているひとを探し出して欲しいだけです。それ以外の身辺調査はけっこうです」
「捜査対象の周辺人物から割り出していくのが、捜査の基本です。といっても、私たちはどうも信用されていないようですね。なので、取引をしませんか」
「取引?」
「ええ、これから私はこの街で起きたある事件について話します。私はその事件が、写真の中の彼の失踪と関わりがあるのでは、と踏んでいます。もしあなたがこの事件について何か知っていることがあれば補足していただきたいのです。代わりに、尋ね人について知りうる限りの情報を提供することをお約束します」
「つまり、別件の捜査に協力する代わりに、そちらが掴んでいる情報を教えてくれるわけですね」
「そういうことです。この件について我々は少々手を焼いていますので」
「……とりあえず、その事件の話を伺っていいですか?」
 松が手を挙げて主人の野呂を呼んだ。ウィンナーコーヒーのコーヒーカップが三客、あたしたちの前に並んだ。それからハムとタマゴのサンドウィッチ、サラダとミネストローネのスープが付いた。
「敷島さん、お腹空いたでしょ? お代はあたしが持つから、好きなだけいただいてね。蒔田さんも食べながら話した方がいいんじゃない?」
 あたしは頷いて礼を言った。蒔田は「ええ、まあ、そういうことなら……」と言って、ホットコーヒーに手を付けた。
 あたしがタマゴサンドを頬張っている間、松は写真とあたしの顔を交互に覗き込んでいる。何ですか、とあたしは言った。あ、いや、ね? と松は首を傾げて笑った。首の動きに合わせてポニーテールの後ろ髪がゆらめいた。
「あなたと写真のなかの彼って恋人だったんじゃないかと思って」
「どうしてそう思うんです?」
「だって、笑っているから。あなたも彼も、この写真のなかでは嬉しそうよ」
 あたしはナプキンで口元を拭う。
「昔の写真です。それにこれは、彼が笑えって言ったから笑ったんです」
「そう? あたしにはそう見えないな」
 蒔田はあたしたちが話している間、椅子に深く腰掛け、黒いバインダーの資料に目を通しながらコーヒーを啜っていた。やがて事件の話に戻ると、蒔田は向き直ってソーサーにカップを置いた。
「私と保科さんがかつて追っていた事件があります。敷島さんの尋ね人と同じように、この街──弓張町では失踪者が出ていました。失踪した人物の名は新庄正人と言います。新庄は弓張町に一時期、滞在していました。まだ二十代の若者です。地域の住人との接点らしきものはなく、唯一、コンビニエンスストアのパートとして勤めていたのが、彼の街での痕跡です。店員たちに聞いても、彼は自分のことはほとんど語らず、一日数時間だけ品出しやバックヤード業務を手伝って帰っていったようです。二年前に彼はアルバイト先から失踪、翌日に水無瀬川で遺体で発見されました。末広橋から飛び降りた人物がいると通報があり、警察も出動しましたが、間に合いませんでした。彼は身元不明の人物で、履歴書に書かれていた経歴もすべて詐称していたことが分かっています。戸籍にも登録がない、いわゆる孤児であったようで、身元不明者の原因不明の自殺ということで、一旦は処理されました。ただ現場には不可解な遺書が残されていたんです」
「遺書ですか」
「ええ、そこにはこう書かれてありました。『僕は丘の上で殺された』と。遺書の一文の下には脅迫状があって、その二枚の文書が重ねられたまま、河原の石を重石にして、橋の上に置かれていました。何者かがその文書を持ち去ろうとしていたのですが、その場にいた警官に呼び止められて、放り出して逃げていったようです。その人物の行方はいまも分かっていません」
「ずいぶん奇妙な話ですね」
「何か気が付いたことは?」
「『丘の上』っていうのが妙ですね。それと、遺書まであったのに、どうして他殺を考えなかったんですか」
「私もその言葉は引っかかっています。証拠がないからですよ。新庄が飛び込んだのは真夜中だったそうですが、通行人や河原にいた人物によって目撃されています。監視カメラを確認しても、新庄は誰の手も借りずに単独で動いていて、自らの意志で飛び降りたように見えるので、他殺ではないのです」
「でも彼が何者かによって脅かされていたせいで自殺したとは考えないのですか? あまりにも状況が不自然ですよ」
「現場の人間はもちろん勘づいていますよ。因果関係は不明ですが、何しろ遺書まで持ち去られようとしていたんですからね。新庄は何らかの事件に巻き込まれていたと見るのが妥当でしょう。保科さんと私はこの件で奔走しました。上には抗議したのですが、なら決定的な証拠を出せ、の一点張りでらちが開きません。見かけ上は明らかに自殺と見られる身元不明者の捜査に労力を割きたくないのが県警の本音です。一週間も経たないうちに、捜査打ち切りの通達がありました。この件にもう関与するなと。でも、我々の間ではどうも妙な勘が働いて、新庄の背後関係に何かよからぬものを感じるのです。新庄の街中での移動はかなり不規則で、防犯カメラの映像では、彼と全く繋がりのない地点をうろついていたりする姿が残っていました。アルバイト先からの帰宅も巧妙で手が込んでいて、まっすぐ寝所には帰らず、毎回移動経路を変えている節もあります。勤務先で新庄が素性を明かさなかったのはわざとでしょう。ただ訛りまでは隠せなかったようで、彼はどうも山梨の出身らしいことをコンビニの同僚が証言していましてね……」
 蒔田は新庄の事件をかなり詳細に渡ってあたしに話した。新庄が何らかの集会に参加していたらしいこと、五和商店街の近辺での目撃情報が多かったこと、漫画喫茶やシェアハウスなどを転々としながら暮らしていたらしいこと。
「あなたとお尋ねの青年が映っていたのも山梨ではないですか?」
 蒔田は念を押すように黒のバインダーを差し出した。ファイリングされているのは事件の資料で、『はじまりの丘 山梨県第三本部』と銘打たれたタイトルの下に、何枚かの画像がプリントされている。教団施設の洋館と新庄の顔写真だった。あたしは頷いて、バインダーの資料を指で下へとなぞった。『新庄正人──教団出身者?』。
 写真に映っている坊主頭の青年の眼はどことなく虚ろで、口元に乾いた笑みを浮かべていた。
「ちょっと待って」と松が身を乗り出し、バインダーを指先で押さえて言った。
「この子、うちで見たことあるわ。よく煙草を買いに来てた。ラッキーストライクだったかな……」
「え? 松さん。さっきは赤のマルボロって言ってましたよね?」
 松は一瞬、きょとんとした様子で狐目になり、それから表情を和らげた。
「あら、ごめんなさい。銘柄を言い間違えてしまったみたいで。赤のマルボロだったわね」そう言って松は何事もなかったようにコーヒーを啜った。
 テーブルに沈黙が訪れた。蒔田は判断が付きかねるといった具合で、松の手元をじっと見ている。ソーサーに戻されたカップの水面は波打つことなく、元の位置に収まっていた。
「そんな話を伺ったのは、初耳ですね」と出し抜けに蒔田が言った。
「新庄っていう名前だったんですね。確かにちょっと訛りがあったから、よそから来た子だとは思っていたのだけど」
「どのくらいの頻度で、店に来ていたんです?」
「週に一日か、二日くらいかな。仕事の帰り道っていう感じだったわ。店の前で誰とも話さずに一本だけ吸っていくの。時計を気にしている風に見えたから、時間つぶしだったのかな。気が付いた頃にはいなくなってた。もう二、三年も前の話」
「彼について何か気が付いたことってあります?」
「そうだな……、時々だけど、言葉に詰まるみたいだった。どもるわけじゃないけど、言葉が出ないときがあるというか。お釣りを渡すときに『今日は暑いですね』って声を掛けたことがあるの。ただの世間話なんだけれど、十秒くらい口を噤んでから、ようやく『そうですね』って彼は言ったわ。絞り出すような声でね。帰って行くときは妙にかしこまった歩き方で、いつでも緊張しているように見えた」
 あたしはもう一度、バインダーの中の写真を点検する。新庄正人、もし彼がほんとうにラッキーストライクを吸っていたとしたら──、いなくなった時期は一致している。新庄正人が純之介であることは、あり得るだろうか?
「敷島さんは、彼の写真に見覚えはありませんか?」
 蒔田は改めてあたしの前にバインダーを差し出す。いくら眺めても、写真のなかの新庄と純之介の顔は、微妙に一致しない。状況だけが一致している。なぜ?
「知り合いではないと思います。ただ頭を丸めるのは教団出身のひとが外の世界に出るときにはよくやることです。一見して誰か分からないような姿にするために」
「……まるで関係者のような口ぶりですね」と蒔田は言った。
「いまはそのことは問題じゃない。知らなくちゃいけないのは、新庄の正体と彼を自殺にまで追い込んだ連中のことでしょう?」
 蒔田はミネストローネのスープを掬う手をぴたりと止めた。スプーンからキューブ状のにんじんが零れていった。
「蒔田さん、あなたもこの件を調べたというなら分かるでしょう。この教団の組織は、規模が小さいながらも全国に拠点を持っています。この街も例外ではありません。山梨県の山中に本部がありますが、そこの出身だということは、教団の中ではエリートコースを歩んでいた人物です。仮に新庄がそんな場所から離れて、この街にまでやってきているということは、それなりの理由があったとは考えませんか?」
 蒔田はスプーンをカップのなかに落とし、首を横に振った。 
「しかし、証拠に乏しいのです。実際にそういった閉鎖的なコミュニティから、決定的なものが表沙汰になることはまずありません。それに、教団の被害者とやらの話を伺った結果、単なる被害妄想に過ぎないケースも少なくないのでね。訴えが玉石混交で、そのなかから選り分けて真実のみを取り出す、というのが非常に難しくなっているんですよ」
「でも、この新庄という青年は被害者ではないのですか?」
「だったら、その前に信頼できる相談機関に話を持ちかければいいじゃない」と松が言った。
「どうして証拠をきちんと押さえた上で訴えてくる人間がいないのか、そこが我々にとって謎なんですよ」と蒔田は頷き、腕組みをしながら唸っている。
「そんなものは謎でも何でもありません。信頼できる相談機関なんてないですから」
「そうですか?」松は怪訝な様子で尋ね返した。
「そこに教団の人間が紛れ込んでいるかもしれないって考えないんですか。逆に尋ねますけど、どうして教団の内部から告発者が出ないのか、分かります?」
 蒔田も松もそこで黙ってしまった。
「ひと言で言うと、報復を恐れるからですよ」

 ねえ、あたしたちの足が地に着くところに、居場所なんてあるのかな。あたしには分からないんだ。あんたはとうに橋の向こうへ渡っちまったかな。
 知らない街を夜通し歩いてみたってさ、そんなこと、何にもなりゃしないんだ。そのうち夜道に惑っちまって、気が付いたときには森の中の木の枝にロープをくくりつけて突っ立ってんのさ。あたしは片紐を持ちながらその場に立ち尽くしてるんだな。何時間もロープの結び目を見つめてね。ねえ、そのときに夜の色が見えるんだ。あれを見ているときだけ、心が落ち着いたな。ああ、あたしの居場所はそこにしかなかったんだってね。あのドーナツの穴みたいなロープの作った空洞がさ、この世で見つけた、あたしだけの居場所だった。あれほどぴったり収まる空間を、ほかに見つけたことはないんだ。すべてがしっくりくるのさ。つま先立ちで、その向こうを覗くんだ。
 あたしはまだ森の中を抜けらんなくて、あんたはきっと知らない街で眠ってる。それがいいさ。川のそばはいつだって静かだったからな。そこに小うるさいことを言う連中はひとりもいないんだ。あたしは息ができるうちに、喉の奥につかえているものをみんなそこら中にぶちまけてやりたいのさ。喋れなくなっちまったあんたの代わりにね。魚の骨がずっと喉に刺さっているみたいでさ。息をするだけで苦しいんだ。なにを言ってるのか、わかんないだろうね。いいさ、あたしは魚の骨が喉に詰まって取れなくなっちまったやつだけに喋ってんだ。べつにそんなもん刺さっていないと思うやつは、阿呆みたいにここにしがみついてりゃいいのさ。あんたらだけでこのつまんない世界をやりなよ。ここが天国かなんかだと思ってんならね。あたしはうんざりだな。人間なんて、誰も救われちまったりしないのさ。これが馬鹿げたゲームだってうっかり気付いちまったやつから、さっさと退場しちまうんだ。あとはよろしくやってくれよ。運の善し悪しなんてなかったんだと、このくそったれ。

 あたしは二十本目の煙草に火を付けた。箱の中身はもう空っぽ。底を叩いても何も出てきやしない。十メートル先の水面を覗き込む。夜の川は月の光を浮かべたまま、橋の下を流れ去っていく。あたしの知らない、遠いどこかの海へ。ねえ、誰もいないところへあたしを連れて行ってよ。片道切符でいいからさ。風の音ばかり聴いているんだ。あたしは指から力を抜いて、まだ燃えている煙草をわざと川面に落とした。細い円筒が宙返りして、灰を零しながら落下していく。着水の音は聞こえない。さっきまでこの指で掴んでいた。この水面の向こう側にあんたがいるかもしれない。そう思うと恐くなる。橋の照明に当てられた銀色の波が川岸へと押し寄せる。真夜中の通行人は、あたしを避けるように道の端を歩き去って行く。
 背後に誰かがいる気配がする。あたしは川岸を覗き込んでいる振りをした。誰かの影があたしの足下まで伸びている。影はぴたりと静止していた。あたしは金縛りに遭ったように動けないでいると、後ろから声がした。振り向くとそこには源さんがいた。
「ちょっと待ちな」
「驚かさないでください」
「お前さん、いま飛び込もうとしとったろう」
「してません」
「昼間は悪かったな」源さんは杖を突きながらあたしの隣に並んだ。
「もう何人も川に飛び込もうとしたやつを見たんでね」
 暇なんですね、とあたしは嫌味を言った。一瞬の空白のあとに、そうだな、と源さんは答えた。
「画でも描いたらどうです?」
「画は何を描いても面白くなくなっちまった。筆を持った途端に白けちまう」
「なら、川に飛び込んだらいいじゃないですか?」あたしは言った。
 源さんははじめて真顔になってあたしの方を向いた。杖の先で欄干の鉄棒を叩いている。
「冗談でもそういうことを言うな」
「冗談じゃないですよ、本気で言ってるんです」
「とんだじゃじゃ馬だな」
 源さんは溜めていた息を呑み込み、杖の取っ手を欄干に掛けて、川の水面を覗き込んだ。
「あんた、夜の川を見たことあるか?」
「はあ? いま見てますし、もう何十回と見ましたよ」
「川がどんな色だったか、あんた、言えるか?」
「川は川ですよ。真っ暗です。底なんて見えないくらい、真っ暗」
「落ちて帰ってこれると思うか?」
「いや」あたしは首を振った。
「本当にお前さんが夜の川を見たことがあるって言うんなら、教えてくれよ。おれがいま描きたいのはね、真夜中に橋の縁から身を乗り出して見た景色なんだ。でも、その時にどんな色で描けばいいのか、おれには分からねえんだ。川の向こうにあんたが探しているものは見つかったか? 川に飛び込んだら一度も見たことのない景色が見えるって思ってるか? それとも、死んじまったらそれでしまいだって思うか? あんたの探し物はあんたの足が着くところでしか見つからねえよ。上にも下にも何にもないぜ。ここから飛び降りていなくなることが答えだって思ってんなら、とんだ思い違いだよ」
 ほんとうに、そうかしら。あたしね、橋の上に立っていると時々川に向かって傾いちまうことがある。橋の向こうには、あんたの暮らした街があって、ここから引き返せばあたしの住んだ街がある。あたしはいつだって、あんたのいる街に向かって歩いていこうとするんだけどさ、いつかあたしはこの橋を渡り切れなくて落っこちてしまうんじゃないかって思うんだよ。だって橋の上では海からの風が強く吹いていて、あたしの髪の毛は逆立って、橋の真ん中へやってくる頃にはもう動悸が抑えられなくて、胸が潰れそうになるんだ。気が付けば重心は左へ片寄っていて、揺らめく波の上に引きつけられる。この川にはさ、不思議な磁力があって、あたしの肩や脚やスニーカーを引き寄せずにはいないんだ。そのときにふと横を向いて川をまともに見ちまったらさ、大きく口を開けたうわばみがそこにいるのさ。うわばみは鏡のうろこを持っていて、呑み込まれたらあたしは鏡の向こう側の国へ行くんじゃないかって思うんだ。それでさ、その世界ではもうあたしはあたしじゃいられなくなるんだ。
「分かってますよ、そんなことくらい」とあたしは言った。
 それじゃ、と言って立ち去ろうとしていたあたしに向かって源さんは紙片を差し出している。
「何ですか、それ?」
「あんたの探しものはここで見つかる」
「……どういうこと?」
 紙片はスケッチブックの切れ端で走り書きした文字が書かれていた。
──野々宮病院、1104号室
「あんた、逃げてきたんだろ。あの街から」
 写真をひと目見ただけで分かった。あの建物、何年ぶりに見たかね。葡萄の蔦が絡みついた、懐かしい壁だ。でも、もう二度と見たかないな。源さんはぽつりとこぼした。
「知っているんですか?」
 源さんは、ははっ、と声を立てて笑った。
「知っているも何も、君たちに画の描き方を教えたのはおれだよ。君らの方では覚えていなかったんだろう。外部から招かれた臨時の講師をやっていた。あんたは確かAクラスにいた生徒だったな? 隣に映っているのは純之介だろう。あんたらのことはよく覚えているよ。美術の時間に純之介と二人でペンキの缶を蹴っ飛ばしたことがあるだろう? それでキャンバスに付いたペンキの染みを画だと言い張った。立派な前衛芸術さ。おれは担当の教諭からその話を聞いて、思わず笑みが零れたよ。君らの世代が大人になったとき、いつかこのレンガの塔を打ち壊してくれるようになるだろうってね」
 あそこにあるのはただのまやかしの塔さ。君らはあの壁の向こう側から這い出してこなくちゃならなかった。そうだろ? 源さんは確かめるようにあたしの目を見た。

──蛍、おれたちはここを出るんだ。ここじゃ息はできても、息をしてないのとおんなじさ。塔の中にいたら、おれ達は歪められてしまう。大人になる前に塔を出なかったら、何もかもが手遅れになるんだ。おれ達の人生はいつか、教祖ただひとりのために建てられたふざけたレンガの壁一つになってそこにはめ込まれちまう。そうなったらおれ達はもう動けなくなって、あいつらのピースに合うように仕立て上げられておしまいさ。あいつらはこの世界をパズルの塔やなんかだと思ってて、それが自分たちには完成できるもんだと信じて疑わないんだな。そのためになら、人間だってパズルのピースに変えちまうんだ。永遠に完成しない塔なんかのためにだよ。「丘」の連中はおれたちのことを裏切り者だ、臆病者といってなじるだろうさ。だけどな、そんな連中の言うことに耳を貸すのは、悪魔に手を貸すのと一緒なんだ。塔の中じゃ何だって見つけられるように思うだろう。友達も家族も兄弟も、みんなそこにいるんだからな。でもな、塔の中にいるかぎり、おれたちにほんとうの付き合いなんかできないぜ。だからそんなもんはみんな見限っちまうがいいさ。おれ達は嘘つきのままじゃ生きられないんだ。そうさ、たとえこの世の端までひとりで歩いて渡っちまうことになったとしてもさ、それでかまわないよ。塔の内側にいる一握りのひとしか救わないような神が神であるもんか。

「あんた、この川でどうして飛び降りが多いか、知ってるか?」
「昔の作家が書いたんでしょう? この川に飛び込んだら月がよく見えるって」
 源さんは首を振った。
「そいつは俗説だな。本当の理由を、あんた、まだ教えられてないね」

 縁側の向こうに欠けた月が浮かんでいる。天井の照明は落ちていて、わずかに開いた障子の隙間から枕元へ月の光が差し込んでいる。青白い夜のなか、あたしは布団のなかから這い出した。薄ぼんやりとした部屋の中、次第に夜目に慣れて、あたしを取り囲んでいるものが輪郭を現した。たとえば、木彫りの時計。数字盤を見上げる黒猫の装飾が施されている。電池が入っていないのか、秒針は止まったまま。床の脇にあったキャビネットは四段で、取っ手の銀の輪っかは既に錆びている。もう何年も開けられたことがないようだった。一番上の天板には白馬のぬいぐるみが飾られていて、ビーズでできた瞳は妖しく輝いたまま、あらぬ方を向いていた。それからドレッサーは、もうアンティークな代物といって差し支えないほど、木目が黒ずんでいて、なぜかチュニックの古着が被せられたまま、鏡面を覆い隠していた。ここは誰の部屋? 
 あたしが部屋のなかで息を潜めていると、渡り廊下の板張りの床が軋む音がした。障子の間から、紫色の作務衣を羽織った婦人の後ろ姿が見える。まだ夜も明けない内から支度を済ませ、庭に出ようとしているようだった。あたしはもっとよく見ようと、枕を脇に置いて障子を引くと、そのひとは振り返ってあたしを見た。藤色の目だった。
「あら、起こしてしまいましたか」
 そのひとは履きかけた草履を揃えて石段に置き、渡り廊下をゆったりと歩いて障子の間から顔を出した。年齢ははっきりしないが、あたしよりひと回りか、ふた回りほど年上に見える。白足袋を履いていて、足下には塵一つ付いていない。下ろしたての綿の柔らかな爪先と、敷居の溝に溜まり続けている埃を、あたしは交互に見比べていた。
「昨晩、源さんから主人の下へ連絡がありましてね。あなたを河原で寝かせておくのは忍びないからと、うちへ連絡があったんですよ。主人とあたしで車から担ぎ出して、用意したお布団の上で寝て貰いました。わたしは保科基治の妻で弥生と申します。次の宿泊場所が見つかるまで、うちで泊まっていきなさい」
「そうですか。あたし、源さんと話し込んだあと、あまり記憶がないんです。橋の上でへたり込んでしまって、それから……」
「ええ、相当お疲れのように見えました。朝食の準備が出来たらお呼びしますから、それまでゆっくりお休みになってください」
「でも、お代は」
「いいんですよ、主人は時々、河原で行き場のないひとを連れてきて、ここで匿うんです。見知らぬ人のお世話ですから、はじめは戸惑ったり、抵抗がありましたけれど、じきに慣れました。大抵、一週間から二週間も経たないうちに、次の場所へ移る準備を整えて、皆さん出て行かれます。医療や福祉に繋ぐ必要があれば、病院や役所に連絡しますし、何かの事件に巻き込まれているようなら、主人の十八番です。あの人にも考えがあってこうしていることはよく分かっております」
 あたしが頷くと、弥生は頬に窪を作ってみせ、再び庭へと歩き出して行った。草履が砂利を踏みしめる音がする。松の木の根元に水を撒いている弥生の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、あたしは再び眠った。

 夜が明けて朝食の席に着くと、弥生はしゃもじでご飯をよそって、椀をあたしの前に置いた。
「今朝、主人からあなたに連絡がありましたよ、敷島さん。車で迎えに来るそうです。お昼頃になるかと。それまでお部屋でゆっくりしていらっしゃい」
「何か進展があったのでしょうか」
「さあ、主人の口からは何も」
 あたしは焼けたばかりの銀鮭に手を付けようと、置かれていた箸に手を伸ばした。その箸は大人が使う箸よりも幾分か短く、桜の花びらの模様が入った小ぶりの箸だった。銀鮭からは湯気が立ち上っていて、あたしは切り身を箸で潰しながらほぐし、塩の利いた皮と一緒によく噛んで食べた。
 朝食を済ませて部屋に戻った。昨日の夜更けには妖しげに見えた白馬の人形も、電灯の明かりの下では他愛のないぬいぐるみだった。誰かがこの部屋で暮らしていた。古びた家具の褪色や傷、蝶番の錆びなどを見るにもう十数年は経過しているだろう。最初は弥生の部屋だったのだろうと考えたけれど、それにしては幼すぎる気がする。欠けた鉛筆は鏡台の上に置かれたままで、壁際にぴたりと付けられている机は学習机だった。引き出しの下に収まっている椅子は大人が使うには華奢過ぎた。緑のキャビネットにはシールを剥がし損ねた跡がいくつも残っていて、そのシールの跡でさえ、変色してしまって褐色の染みを作っていた。
 あたしは弥生の案内で一通り居間や、玄関、台所、風呂場まで見て回った。なぜかこの部屋だけが何年も手を付けられず、顧みられることのない場所に見えた。この部屋はいったい誰の部屋だったのですか──、弥生にそう尋ねてみたかったが、肩をすぼめて歩く弥生の後ろ姿を見ると、家庭の事情にまで踏み込んだ質問をするのは、どうもはばかられた。きっかけをつかもうにも弥生は台所を離れようとせず、洗い物をしたり、リビングでワイドニュースの画面を見つめながら林檎の皮を剥いていた。あたしが朝食を採って席を立ったあとは、渡り廊下に姿を見せることはなかった。あたしは部屋で横になり、黒猫が仰いでいる時計の文字盤を見つめていた。スペードの形をした西洋風の長針が短針と重なり、ローマ数字の「Ⅻ」の上をゆっくりと過ぎていった。
 あたしが鏡台に置かれていた鉛筆に手を伸ばし、掌の上で転がしていると、障子が開く音がして保科さんと目が合った。手の窪のなかに収まった鉛筆の側面には金文字で「ほしな ゆかり」と彫られてあった。あたしは後ろ手に鉛筆を元の位置に戻した。音を立てずに鏡台の上に置いたにもかかわらず、保科さんはその手を見逃さずに溜息を吐いた。その目は妙によそよそしく、醒めた目であたしを見ていた。
「部屋のなかに置いてあるものに、勝手に触れないでくれるか」
「すみません、つい、気になってしまって……」
「君にだって触れられたくないものがあるだろう? おれにもあるんだ。それだけのことだよ」
 それから、保科さんは声の調子を元に戻して、手振りで部屋の外に出るように促した。
「行こう」
「どこへですか?」
「間宮荘だ。オーナーが君に話があるそうだ」
 保科さんはパナマ帽を被り直し、あたしの支度が済むまで庭で煙草を吸っていた。着替えを済ませ、荷物をまとめていると、障子の向こう側からくぐもった声が聞こえてきた。わずかに障子を押し開けて、隙間から覗いてみると弥生と二人で話し合う保科さんの姿があった。
「だから、あの部屋は駄目だと言ったろう」
「だって女の子ですもの。他のひとのように居間やお父さんの部屋にいてもらうわけにはいきませんわ」
「いや、しかしだな」
「ここに連れてきたのは、あの子が不憫だったからでしょう。それに、ゆかりの部屋をいつまでもあのままにしておくつもりですか。もう二十年も経っているんですよ」
「ゆかりの部屋は、ゆかりの部屋だ。何年経とうが同じだ。あの子が帰ってくるまで、あの部屋はあのままでいい。ずっとだ」
「いいえ。敷島さんにはあの部屋を使っていただきます。ここはあたくしの実家ですから。それに、手の届かない遠くのひとを助けようとするより、目の前のひとを助けろと言ったのはあなたでしょう? あたくしはその言葉に従いますわ」
 あたしはそこでそっと戸を閉じて、辺りを見回した。よく見ると壁紙には無数の凹凸があって、不自然に削れたような孔がいくつも開いていた。あたしはその窪みに掌を押しつけてみた。壁面よりも凹んでいるその孔に、親指の腹をあてがった。人差し指の爪を立てた。中指や薬指を這わせて、小指で孔を塞いだ。遠くから見ればただの傷に過ぎない、そのひとつひとつの孔は触れてみるとどれも形が異なっていて、あたしはその窪みに触れるたびに、誰かの指先に触れているように感じた。あたしはゆかりって子が誰だか知らない、でもさ、いまでもこの壁の窪みのなかに、その子がいるんじゃないかって思うんだよ。爪先で線を引くみたいにまっすぐだったり、三日月みたいにくり抜いたり、ものをぶっつけてクレーターみたいになっている窪みのなかにさ、その子がいたんじゃないかって思うんだよ。ねえ、そういう時にさ、言葉なんて何の役にも立たないんだ。あたしたちは傷跡に触れることでしか、お互いのことが分からない生き物だからさ。

 あたしはワンボックスカーの助手席に乗り込んで、窓の外を眺めていた。保科さんは無言でハンドルを握り、フロントガラスを見つめている。窓には反射の加減で、あたしのうっとうしい前髪や、昔に開けたピアスの痕や、ささくれだった唇が映り込んでいた。信号待ちのあと、通り過ぎた電柱には「弓張町 葉山台三丁目」と書かれてあった。遠くに薬を買い漁ったドラッグストアの看板がぽつんと立っている。
「間宮荘のオーナーは、どうして会ってくれることになったんですか?」あたしは尋ねた。
「さあな。おれにも分からん、ただの気まぐれかもしれん。でもな、あんたの名前を出してから、妙に反応したのは確かだよ」
「オーナーって、確か70代くらいのお婆さんでしたよね?」
 保科さんはハンドルを指で叩きながら首を横に振った。
「いいや、その婆さんはもう亡くなったんだよ。いまじゃもう代替わりしててな。出てきたのは40代くらいの娘さんだったんだ。先代の長女に当たるんだと」
「あたし、そのひとのこと、知らないですよ」
「そうだろうな。でも、向こうじゃあんたの名前は知っていたみたいなんだ。おれが何度、尋ね人について事情を話しても口を割らなかったのに、あんたの名前を出した途端に態度が一変してな。『敷島』ってひと言、言っただけだよ。それから、本人を連れてきてくれってな」
 保科さんはハンドルを左に切って、路地へ入った。一方通行の標識が現れ、突き当たりには水無瀬川の堤防が見えている。保科さんはパワーウィンドウをわずかに下げて、車内の空気の通りをよくした。いつの間にか口元に煙草をくわえている。窓の隙間から風が吹いて、あたしの髪を梳いていった。保科さんの指先で燻っていた煙草の煙がうねりながら外へ逃げていった。
 起伏のある堤防沿いの道を抜け、交差点で左折すると幹線道路と合流する。フロントガラスの向こうで末広橋のアーチ状の鉄橋が視界に入った。車は坂道に差し掛かって、あたしは水無瀬川をひと目見ようと窓際に身を寄せた。見えたのは水面ではなくて、橋の上の歩行者だった。保科さんはアクセルを強く踏んで、通行人の脇を一気に抜き去っていった。さっきまで見えていた子連れの夫婦はすぐに見えなくなった。それから手押し車を杖代わりにしたお婆さんと介護人、子ども用自転車のペダルをむやみに回し続ける少年達の一団を追い抜いた。
 あたしさ、ときどき思うことがあるんだ。どうしてあたしは、あたしじゃなきゃいけなかったんだろうって。橋の上で背中を押されながら歩くお婆さんでなく、友達と笑いながら後ろを振り返っている少年でもなく、ベビーカーの持ち手をしっかりと握っている母親でもなく、なぜ、ここにいるあたしだったのだろう。あたしがあたしじゃなきゃいけない理由はなんなの。こんなことを言うのはばかげてるかな。でもさ、ちっとも分からないんだ。
 あたしは、ただ通り過ぎていくだけなんだ。がらんどうの風とおんなじでさ。ちょうど窓の内側から外の景色を眺めているみたいに。確かにそこに人はいるし、すぐそばに見えているのに、どうしても触れられそうにないって気がするんだよ。どんなひとやものごとがあたしの前に現れたって、ただ目の前を流れていくだけよ。あんた、川に笹舟を落としたことある? 橋の上から川上に向かって葉っぱを投げ込むんだ。落としたのは葉っぱの方なのか、あたしの方なのか、知らないけどさ。まあいつかは沈むんだろうな。沈んじまった笹舟はあっという間に見えなくなって、もう浮かび上がることはないんだ。そのときにさ、風の音が鳴るんだ。ずっと耳元で鳴るんだ。あたしはさ、風のない街のなかを歩くときでも、いつでも嵐のなかにいるみたいでさ、そいつにつかまっちまったら、一歩も歩けなくなって、たとえそこが横断歩道のど真ん中でも、すぐにへたりこんじまいたくなるのさ。もう許してって言っても許されないんだ。だってそれはただの風で、他のひとにとっちゃ何でもないことらしいからさ。ねえ、これって風の中を通り過ぎたやつにしか分からないよ。あたしに掛けられたまじないってのはそういうことさ。いつか人里離れた森の中に連れ去られちまうんじゃないかって、あとはそこで木の葉のざわめきと吹き抜ける風の音だけを聴いて暮らすようになるんじゃないかって。最後はうわばみがまるっとあたしを呑み込んじまっておしまいさ。あたしは地図から消された街みたいに、最初から存在しなかった人間になるんだ。ねえ、それって何だか淋しすぎやしないか。掛けられたまじないを解いて、元の姿に戻る方法がないばっかりにさ。あたしは壁の向こう側には行けないかもしれない。そりゃ誰だって行けやしない。でもさ、あたしが言ってんのはそういうことじゃないんだ。いつもがらんどうの風の中にいるんだ。そのなかでたったひとりで立っているんだ。あたしはただあんたの声が聴きたかっただけなのにさ。

 保科さんはキーを回し、エンジンを停止させた。車は五和商店街の銀行脇にあるコインパーキングで停車した。助手席のドアロックが解除され、あたしはシートベルトを外した。外へ出ようとドアの引き手に手を掛けると、保科さんは未だにシートベルトを着けたまま、運転席のハンドルにもたれかかっていた。
「外、出ないんですか?」
 保科さんは車内に置いてあった灰皿に煙草の殻を押しつけて言った。
「おれは行かない。行けない、と言った方が正しいな。悪いが、間宮荘へは君一人で行ってくれ」
「どうしてです?」
「オーナーはおれじゃなく、君に用があるんだ。君一人でなければ、会わないと言っている。おれはその場には同席できない」
「でも……」
「間宮荘の場所は分かるな? 玄関口で呼び鈴は三回鳴らすんだ。そのあとドアノックを二回。最後にもう一回呼び鈴を鳴らせ。そうすれば、相手がインターフォンに出てくるだろう」
「面倒なことをしますね」
「それだけ警戒しているってことだ。間宮荘はぱっと見は古い貸家だが、監視カメラの数が異様に多い。張り紙は出てるが、電話番号はダミーだ。オーナーはそもそも貸す気がないんだな。賃貸会社のサイトにも物件が登録されていない。訳あり物件で間違いないだろう」
「保科さんはどうやってオーナーに接触したんですか?」
「ん? たばこ屋の松の紹介だよ。先代のことは詳しくは知らないが、現在のオーナーの娘さんとは個人的な知り合いだったようだ」
「……個人的な知り合い?」
「どういう経緯で松がオーナーと知り合ったのかは分からん。松はおそらくオーナーの秘密を守ったんだろう。インターフォンを鳴らして、オーナーが間宮荘の入り口から出てきたのをおれは確認している。本人であることは間違いない。すぐに玄関の戸を閉めて、敷地の中へは入れて貰えなかったがね。そのあと、商店街の喫茶『のらくら』へ移って、君の話をした」
「……」
「言いたいことは分かる。だが、実際に行って確かめるしかない。待ち合わせは14時きっかりに指定されている。これだけ会うのに慎重な相手だ、遅れたら面会できなくなるかもしれない。早く行った方がいい」

 ベルを三回、ドアノックを二回、最後にベルを一回。間延びした呼び出し音が建物の内側へ響いていった。人の気配は感じ取れず、声もしないが、インターフォンのレンズから覗き込むような間があった。三十秒も待っていただろうか。不意に後ろから声を掛けられた。
「敷島さん、こんなところでどうしたの?」
 振り返るとそこには松がいた。束ねた長い髪をいまではすっかり下ろしている。陽の光によって小麦色に染め上げられた髪が風に揺られてたなびいていた。
「松さん? それはこっちの台詞ですよ。いったい何が何だか──」
「からかってごめんなさいね。祥子に会いに来たんでしょう」
「祥子って、誰のことです?」
「間宮荘のオーナー。祥子と私は同級生なの。ちょっと、こっちへ来てもらえるかしら?」
 松はあたしの手首をつかんで、間宮荘の外周を回りはじめた。隣家との間にはパーテーションがあって、ツツジの植え込みが通行人の目隠しになっていた。松はコンクリートでできた花壇の縁にスニーカーの爪先を引っ掛けて、植え込みのそばに乗り上がり、猫が通るほどのわずかな隙間に身を滑り込ませた。枝葉がバネ仕掛けのおもちゃのように揺れて、擦れ合う音がした。
「ここ、人が通れるような幅の道じゃないですよ」
 あたしがそう言っても松はツツジの向こう側から手招きしている。
「いいのよ。抜けてらっしゃい」
 あたしはおそるおそる花壇に足を掛けて、コンクリートブロックの上に飛び乗った。案の定、ツツジの枝先にシャツの脇腹をつつかれたり、ジーンズのボトムを引っかかれたりしながら、花壇の隙間を抜けていった。足下には時期はずれに咲いた赤いヒトデのような花びらが落ちていた。花壇の向こう側は小さな庭になっていて、白いパラソルの付いたテーブルと、場違いなビーチチェアが二脚置かれている。軒下の洗濯機は埃を被っていて、物干し竿には空のハンガーが掛かっている。足下の雑草は伸び放題で、チェアの背面から笹の葉が何枚も突き刺さっていた。
「どうして正面から入れてくれないんです?」
「あなたの身の安全のためにね、祥子は用心深いの。じきに分かるわ」と松は言った。
 松はポシェットからキーケースを取り出して、そのなかのひとつを勝手口の鍵穴に差し込んで回した。
「祥子、入るわよ」
 開け放たれたドアの向こうには、リビングで佇むひとりの女性の姿があった。ネイビーのワンピースを着たそのひとはコーヒーのマグカップをテーブルの上に置いて、スリッパでぱたぱたと小さな音を立てながら、こちらに近づいてきた。
「あなたが、あの……」祥子という女性は戸惑い気味にあたしを見つめている。
 そうよ、とあたしの代わりに松が返事をした。
「はじめまして、敷島です。お話を伺いにきました」
「間宮荘のオーナーの間宮祥子です。はじめまして、蛍さん」
 蛍さん、というところにアクセントを付けて祥子は言った。
「私、まだ名前を名乗っていませんが」
「そうね、あなたの名前は人づてに聞いたの。お話したいことがあって。どうぞ、お掛けになって」
 祥子はテーブルクロスの上に置かれていた青く縁取られた眼鏡を掛け、あたし達に席をすすめた。
「聞きたいことがいくつもあります」あたしは椅子から身を乗り出して尋ねた。
「ええ、もちろんそうでしょう。あなたには、そうね、いなくなった純之介さんの話をしましょうか」
 祥子はコーヒーにミルクを加え、銀のコーヒースプーンでゆっくりとかき混ぜながら話しはじめた。

 *

 あなたの名前を耳にしたのは純之介君からだった。蛍、ってあなたのことを呼んでいた。彼はね、一時期、間宮荘に滞在していたことがあるの。もう三年も経ったかしらね。その前に、先代のことから話さなくちゃいけないわね。
 あなたがここを尋ねてきたのは、半年前のことだったからしら。探偵を使ったでしょう? 私の母は千とせというのだけれど、母はこのアパートについて嗅ぎ回られることを何よりも避けていたの。あなたは母が亡くなる一ヶ月前に会っているでしょう。そのときの母はほとんどノイローゼに近い状態だったわ。あなたが敷島と名乗っても、信用しなかったんじゃないかしら。
 間宮荘は表向きは貸家ということにしているけれど、母は人を匿うためにこのアパートを使ったの。『はじまりの丘』から逃れてきた人のためのシェルターとしてね。私たちの家業は小さな不動産屋を経営していて、この辺りのマンションやアパートなら五、六棟、自社の物件として持っていたわ。
 経営は上手くいっていたのだけど、母はそれだけでは満足しなくてね。慈善事業として、借り手の付かなかった間宮荘を改装して、身寄りの無いひとの一時的な避難所として使って貰えるようにした。その最初の利用者が『はじまりの丘』から逃れてきた男性だった。それ以来、『はじまりの丘』を離れていった人たちが暮らすための場所として、少しずつ受け入れをはじめたの。もちろん、母も私も危ない橋を渡っていることは分かっていたわ。家賃だって一万円か二万円くらい。こちらに利益は出ないから、ほとんどただ同然で貸したようなものよ。それも払える人だけね。
 純之介君もそんな風に脱走した人の伝手を頼ってきた一人だった。しばらくすると、ここは「はじまりの丘」を逃れてきた人の互助会のようになってね。ほら、同じ悩みを抱えていないと分からないものってあるでしょう? 間宮荘に来たときには無口だったひとも、住人として暮らすうちに心を開いて話すようになっていってね。固まっていたグラスの氷が溶けて、水のなかで混ざり合うみたいに。純之介君も最初は寡黙だった。でも、隣部屋の子と仲良くなってね、それからは冗談も言うようになった。二人が並ぶとまるで双子みたいだったわ。顔も少し似ていたからかな。え? 隣室の子の名前? 新庄君よ、新庄正人。そう、彼は水無瀬川に飛び降りて亡くなったわ。シェルターの運営を取りやめたのもそれが原因のひとつ。飛び降りた彼に罪はないけれど、警察からの指導が入ってね。無許可でこういうことをやるな、事件に巻き込まれてからでは遅い、ちゃんと役所に届け出を出して営業するように。そう言われたの。これまでシェルター運営はかれこれ六年近くやっていたのだけど、私たちは支援のエキスパートではないし、民間の私たちのやり方では立ち行かなくなってしまって頓挫した。それで当時、間宮荘に住んでいた住民たちは、あたし達で物件探しを手伝って、別のところへ移って貰うことにした。全員が次の住居を確保した時点で、シェルターを解散したの。だから、いまの間宮荘はもぬけの殻で、残った場所を当時のまま置いてあるだけよ。
 それで、肝心の純之介君の居場所だけれど、はっきり言って私達にも掴めない。彼ね、新庄君と同時期に出て行ったの。あたしたちがシェルターを解散する二年前だったかしら。これ以上、大家のあたし達に迷惑を掛けるのは申し訳ないし、このあとシェルターに入る子の居場所を奪うことにもなるから、と言って、二人とも荷物をまとめて、別の賃貸アパートを借りて出て行ったわ。困ったらいつでも私たちのところへ戻っておいで、と声を掛けたけれど、二人とも済まなそうに笑うだけで、結局、帰ってこなかった。
 ちょうど純之介君が出入りするようになった頃から、間宮荘は『はじまりの丘』の関連団体からマークされたみたいでね。シャッターに落書きをされたり、スプレーで『×』印を付けられたり、『はじまりの丘』の宗教イベントの葉書が勝手に投函されるようになった。この建物に防犯カメラが付いているのは、それが理由。母も買い物に行くときにつけられているように感じると話すようになってね。近所では、いつの間にか根も葉もない噂が流されるようになった。あの店は行き場のない人を集めて、自分の不動産に入れる貧困ビジネスをやっている、怪しいから近寄らない方がいい、とかね。善意ではじめたことが、周囲の好奇の目に晒されて、母はノイローゼになっていったわ。もう潮時だったのよ。
 それで、蛍さん。あなたに渡しておかなければいけないものがあるの。あなたへの手紙。純之介君は、もし「敷島蛍」と名乗る人物が現れたら、渡してほしいものがあるって言ったのよ。だから私たちの方でもあなたのことを探していたの。半年前は母が玄関先であなたを追い返してしまったから、辿れなくなっていたのだけど、一昨日の昼に松から連絡があってね。すぐに「のらくら」に来てくれって。松や蒔田さんと一緒にあなたはやって来た。あの店で最後に残っていた客は私だったの。だますようなことをしてごめんなさいね。
 事務所に戻って、半年前の防犯カメラの映像を確認した。店に入ってきた、あなたの顔で間違いなかった。そのあと、保科さんが人探しの話を持ってきた。純之介君を探しているとはいえ、どこまで警察のひとを信用できるか分からなかったから、私はそっけない返事をしたわ。帰って貰うつもりだったんだけど、途中であなたの名前が出てきてね。あなたが純之介君のことを心底探していることを知った。それで、こうして会って話すことに決めたのよ。
 純之介君と、もしかしたらあなたも──、『はじまりの丘』の本部から逃げてきたのでしょう。他のひとたちは地方の支部から逃れてきたと話していたわ。教団にわたしたちが執拗にマークされるようになったのは、純之介君を匿ってからなの。そのことで彼は負い目を感じていたかもしれない。あなたたちは、教団内部のエリートを養成する施設から抜け出してきたのよね。純之介君は、自分と蛍は追われていると話していた。だから他のメンバー達とは違って、間宮荘の敷地の外へ出るといつも落ち着きがなかった。
 教団と関わりを持たずに生きられたらどれだけよかったか。彼は時々、そんなことを零していたわ。でも、生まれる場所は選べない。生まれる前に遡ってやり直すことはできないから。そんな風に話していたな。

 *

 話を終えると、祥子はマグの中で傾いているスプーンから手を離し、テーブルから立ち上がって、ついていらっしゃい、と言った。祥子の背後には奥の部屋へと続くドアがあって、ドアノブを握ったまま、あたしを手招きしている。松があたしの背中を軽く押した。ドアが軋む音がして、あたしは祥子の後に続いて部屋に入った。ドアの仕切りを跨いだ途端、冷たい空気が頬に触れた。閉め切った部屋の埃の匂いがする。綺麗に整えられたリビングとは打って変わって、不動産の実務に関する書類があちらこちらに散らばったままになっている。
「この部屋は当時の事務所よ」
 祥子はパネルスイッチを指先で叩いて、部屋の電灯を点けていった。キャビネットのガラス戸の内側には「賃貸契約」と書かれたラベルの付いたファイルが並んでいる。ラベルの年月日を確かめてみると二年前より先のものはなかった。デスクには法務関係の書物や社印、引っ越し会社のチラシなどが雑然と置かれている。祥子はデスクに備え付けられた引き出しからキーケースの束を取り出して、小型ロッカーの前まで歩いて行った。9つに分かれた正方形のロッカーボックスの前で鍵のナンバーを探している。
「間宮荘ではこのロッカーを貴重品入れとして使っていてね。当時の住人達は皆使っていたわ。えーと、純之介君は7番だったわね。手紙を入れておくから、敷島蛍と名乗る人物が現れるまでこのロッカーは開けないでくれって頼まれたの。まさか、ほんとうにその日が来るなんてね」
 祥子はロッカーの鍵を回して戸を開いた。あたしはじっと目を凝らして開かれた庫内を確認した。
「あら、そんなはずは……」
 ロッカーの向こう側には灰色のスチール板があるばかりで、他に何も見当たらない。祥子は慌てて、9つの鍵をすべて使ってロッカーの戸を開けていく。しかし、どのロッカーにも手紙らしきものはなかった。
「え? どうして?」
 祥子は呆然とロッカーの前に立ち尽くしている。
「その鍵は、事務所のデスクに入れっぱなしだったんですよね?」
「いいえ。私は今日、あなたが来ると思って引き出しに入れておいたのよ。それ以降、誰もこの部屋は開けていないわ。この鍵は母から譲り受けたもので、わざわざ自宅で保管していたものを持ってきたの」
「純之介がロッカーに手紙をしまうところは、誰かが見ていたんですか?」
「もちろんよ。純之介君が出て行く当日に、彼自身が母と私に向かって説明しましたからね。ああ、大変なことになったわ。どうしましょう」

 あたしは源さんから手渡されたスケッチブックの切れ端を握りしめていた──『野々宮病院、1104号室』。あれから祥子と松の三人で間宮荘を隅々まで探し回ったが、純之介の残した手紙は見つからなかった。他に掴める手がかりはなく、祥子や松と別れたあとはその足で野々宮病院まで向かった。
 辺りは既に薄暗くなっていた。陽は白い雲に包まれたまま、西の街の向こうに沈んでいく。通り過ぎた児童公園の時計は午後六時を指していた。アスファルトの路地を抜け、小さな歩道を渡った先に野々宮病院の門構えが見えてくる。足下の歩道は無地のアスファルトから、オレンジと白で埋め尽くされたタイルに切り替わり、舗装された道が病院の玄関まで伸びていた。「医療法人太賀会 野々宮総合病院」と書かれたモニュメントが敷地内の芝生の上に立っていて、パンジーが植えられた花壇をガーデンライトが照らしている。病院の前庭を抜け、噴水のある正面玄関を通り過ぎて裏手へと回り込む。源さんのアドバイス通り、窓口の受付を通さずに、西口から院内に忍び込んだ。守衛室の前を足早に過ぎ去り、緑色に光っている非常階段のランプを見つけると、その扉の隙間に身を滑り込ませた。果てしなく続く階段を登っていく。五階で聴診器を掛けた医師とすれ違ったが、医師は足早に階段を下っていて、俯いたあたしには目もくれずに去って行った。忙しない靴音だけが踊り場の壁に反響していた。
 ようやく十一階まで辿り着き、息を整えてから非常扉を開ける。扉の向こうは入院患者のフロアで、一般の見舞客が手すりに寄り掛かった患者と立ち話をしていた。あたしは見舞いに来た客という体で、フロアのなかを歩き回った。「1101~1125」の病室表示を見つけ、戸惑いながらも「1104号室」の前で立ち止まった。病室の札に患者の名前は書かれていなかった。目の前のスライド式ドアは開かれたままになっているが、アイボリー色のカーテンに阻まれて、その内側を覗き見ることはできない。病室には四名分のベッドが収容されているようで、時折、寝返りを打って寝具のシーツが擦れるような音や患者の寝息が聞こえてきた。
 あたしがまごついたまま、廊下に立っているとナースステーションから出てきた看護師がカートの上に食器トレーを乗せて患者への配膳をはじめた。みるみるうちに配膳用のカートから夕食のトレーが病室へ運びこまれていく。西村、というネームプレートを付けた看護婦は、あたしを一べつした後に、カートを1104号室の前に置いた。西村は「研修中」と書かれた札を首から提げていて、青いストラップを揺らしながら、カーテンを小さく開けて配膳をはじめた。部屋のなかから、患者とやり取りする声が聞こえてくる。
「八十島さん、お食事ですよ」という声を聞いて、あたしは耳を疑った──純之介? 男の患者の声は、部屋のすぐ手前、右側のベッドから聞こえてきた。
「ありがとう、いただきます」
「ここに置いておきますね、どうぞ」
 あたしが配膳カートをじっと見ていると、突然、西村から声を掛けられた。
「あの、お見舞いの方ですか?」
「ええ、まあ……」
「1104号室?」
「その、八十島純之介という人を探していまして」
 西村はにこりと笑うと、運ぼうとしていた食器トレーを置いてあたしの前で向き直った。
「八十島さんのお見舞いなのね、ちょっと待っていてくださるかしら」
 西村はすぐに病室に戻ると、右手前のカーテンの隙間から顔を出した。
「八十島さん、お見舞いの方がお見えですよ」
「お見舞い? 僕に、ですか?」
「ええ」
「どなたです?」
 看護婦の西村はカーテンから廊下に振り返って言う。
「あなた、お名前は?」
「……敷島蛍です」
「ご本人とはどういう関係で?」
「昔の友人です」
 だそうですよ、と西村は笑みを浮かべてカーテンのなかに向かって言った。
「どうします? 敷島さんに病室に入って貰いますか?」
「いや、ちょっと外に出てきます。しばらく席を外します。食事はここに置いといてください」
 西村は頷いて、廊下に戻った。すれ違いざまに「ごゆっくり」と声を掛けられ、西村は次の病室の配膳に向かった。病室のカーテンの向こう側からカツカツと床を突く音がする。
 純之介、という声が喉元までせり上がっていた。男の顔を見て、あたしはすぐにそれを引っ込めた。カーテンの向こう側から現れたのは純之介とは別人だった。その男は松葉杖を突いてこちらに近づいてきた。
「はじめまして、ですかね」
「あなたは、いなくなったはずじゃ……」
 男は首を横に振り、それ以上は喋らないようにと、口元を封じるような仕草をした。
「詳しい話は外でしましょう。すぐそばにエレベーターがあります。付いてきてください」と男は柔らかな物腰で言った。
 男の右足には包帯が巻かれており、ギプスが装着されている。男は松葉杖を持ったまま、エレベーターの呼び出しボタンを器用に押した。あたしたちは階数表示が上がっていくのを無言で眺めていた。十一階のランプが点灯する。エレベーターに乗り込む乗客は、あたし達の他にはいなかった。一階のボタンを押し、エレベーターが下降していく。
「どうして、あなたが純之介の名前を名乗っているのですか?」
「あなたと同じですよ。必要に迫られてそう名乗ったまでです」
「同じ?」
「ええ。敷島さん、その苗字、誰かに貰いませんでしたか?」
「……」
「君たちは苗字を入れ替えた。僕は彼と入れ替わった。それだけの話ですよ」
「純之介はどこに行ったの」
 男はそれには答えなかった。エレベーターは一階に到着し、男は「開」ボタンをあたしの代わりに押し続けていた。行きましょう、と男が松葉杖を突いて言った。
「あなた、新庄でしょう。新庄正人」
「君は八十島蛍ですね。『敷島』は元々、純之介の苗字だ」
 玄関の自動ドアが開いて、夜風がそっと吹き込んできた。街路に植えられたプラタナスの葉はざわめき、正面の噴水には患者が願を掛けて投げ入れた硬貨が水底で揺らめいている。

 新庄はあたしを小高い丘の上に連れて行った。ふり返ると病棟の明かりは小さくなって、いくつもの部屋の窓がオセロのように灯ったり、消えたりしていた。もう一キロ近くも歩いただろうか。辺りは静まりかえって、ひと気はなく、大きく伸びた楠の影があたしたちの足元を覆っている。遠くの木立でフクロウが夜を思い出したように鳴いていた。広場には、自動販売機に空のゴミ箱、木製のベンチしか置かれていない。寂れた公園だった。ベンチに辿り着いて、新庄は手すりに松葉杖を置いて座った。あたしは新庄との間に一人分の距離を取って、腰掛けた。丘の向こうには住宅街が広がっていて、高架の上を走る線路が見渡せた。頭上にはまだ欠けたままの月と濃紺の空に針で孔を空けたような星が輝いていた。ここなら誰にも聞かれる心配はありません、と新庄は言った。
「何を聞きに来たのですか?」新庄は両手を組み合わせたまま、あたしとは目を合わさずに言った。
「純之介と入れ替わった理由」
「話せば長くなります」
「かまわないわ。その話を聞きに来たんですもの」
「聞いても恨まないでください、とくに純之介のことは」
「さあ、どうかしら」
 新庄は溜息を吐きながら、話し始めた。

 *

 彼と知り合ったのは間宮荘でした。君はどうやって僕のいる病室を突き止めたのですか? ……そうですか、源さんから聞いたのですね。源さんもかつては間宮荘の一員でした。純之介のことを追っていたなら、きっと間宮荘まではたどり着けたでしょう。あそこは「はじまりの丘」から逃れた元信者の集会所になっていました。僕は純之介が入る半年ほど前から、間宮荘に出入りしていましてね。それまで彼とは接点がなかったのですが、隣室で、年が近かったせいで、彼とは妙に馬が合いました。しばらく純之介と話すうちに、彼が教団の関連団体から厳しく追跡を受けていることに気が付きました。というのも、純之介が間宮荘に入ってからというもの、『はじまりの丘』のビラがあからさまに間宮荘の郵便受けに突っ込まれるようになったからです。オーナーの千とせさんもそのことには気付いていました。そこで嫌がらせがエスカレートする前に、二人とも間宮荘を出ようという話になりました。
 純之介は本部の出身ですが、僕も地方幹部の息子として育っていましてね。純之介と同様、オーナーの千とせさんに迷惑を掛けてしまう恐れがありました。すぐに民間のアパートを押さえて、アルバイトで働きはじめ、僕らは間宮荘を離れました。しかし、純之介はその避難先のアパートでさえ、すぐに教団に突き止められてしまったようです。
 僕は休日になれば純之介の様子を伺いに訪れました。純之介の表情にいつもかげりがあったものですから。感情の起伏もほとんどないようで、まるで目の前に読み上げ原稿があって、ただそれをなぞるみたいに話すのです。彼が憔悴しているのは明らかでした。僕が純之介から入れ替わることを提案されたのは、そんなときです。
 はじめは突拍子もない案だと思いました。人が入れ替わるなんて、いくら何でも簡単にできる芸当ではありません。外見が少しばかり似ていると言ったって、知り合いが見ればすぐに分かってしまう、と僕は言いました。純之介は、この街に知り合いはいるか? と返してきました。もしばれてもかまわない、少しの間だけ入れ替われば済む話だ、と純之介は続けました。短い間とはいえ、同じかまどの飯を喰った仲です。純之介は何か一計を案じたんだろう、と僕は思いました。
 純之介は追っ手をどうにかしてかく乱させたかったようです。僕の方でも、一度教団と関わった以上、このままで済むとは考えていませんでした。あとは寿命が尽きていくまで、誰とも関わらずにひっそりと生きていこうと思っていたのです。教団の過去には口を閉ざしたまま、墓場まで持って行こうとね。
 僕らは境遇がよく似ていたから、純之介の苦悩は推し量ることができました。教団の外で育っていたら、この苦しみはおそらく分からなかったでしょう。洗脳から抜け出せないで、自ら教団に嵌まり込んでいった人間にも。僕らは言ってみれば極めて異質なアウトサイダーでした。教団にも世間にも居場所がありません。世の中のひとは教団と関わった人間と分かれば、その瞬間から色眼鏡で見るようになるでしょう。そのうち、関わり合うのも面倒になって、僕らみたいな存在は社会から忘れ去られるようになります。あとは地域から孤立して精神病院へと送られるか、福祉の厄介になって生き延びるか、どこにも希望を見いだせずに首を吊るのが関の山です。もし運良く、これらを逃れて生き延びることになっても、僕らはきっと陽の当たるところには出られないでしょう。世間のひとが知らない負い目が僕らにはあるのです、あなたもそうではありませんか?
 いつからでしょうか、目に見えるものすべてが色褪せて見えるようになったのは。何もかもが遠ざかっていくようでした。僕がここで息をすることも、教団のことで苦しんだことも、世の中にも紛れ込めずに悩んだことも、すべてが徒労に終わるのだという確信めいたものが僕の中にはあったのです。僕が見ているものは、端から端までみんな紛いもので、本当の形をしたものは扉一枚を隔てた向こう側にあって、指一本触れられない──そういう目でものごとを見るようになると、何もかもがどうでもよくなってくるのです。
 感覚が麻痺していたのでしょう。生きることと死ぬことの境目がなくなっていくようでした。僕はこの人生など何だってよかったのです。僕が身代わりになって、純之介が少しでも助かるならそれでいいと考えました。はじめは週に一日や二日だけ、服装を交換し、アパートを入れ替えて暮らしました。それが三日になり、四日になり、僕たちは自分たちだけが知り得ることを明かしました。分厚いメモを取り、そらで言えるようになるまで覚えたら、紙片を一枚ずつ処分していきました。純之介の生年月日、過去の家族構成、これまでの生い立ち……。君の話が出たのもその流れです。もっとも、純之介は最後まで苗字を入れ替えた話をしようとはしませんでしたが。
 教団の森のなかにいた時の名前では、追っ手にたやすく見つかってしまう。だから少しでも時間を稼ぐために、君と苗字を入れ替えて、外の世界ではそう名乗ったのだと純之介は話しました。そして君たちは七年後にこの町で落ち合うはずだった。純之介は君と一緒になって、せめて君だけでも元の名前に戻すつもりでいたようです。結局それは、叶いませんでしたが。
 純之介と入れ替わるようになって一年が経った頃でしょうか。その頃にはもう、僕は八十島純之介として生きるようになっていて、純之介は新庄正人としてコンビニエンスストアの店員をやっていました。しばらくして、純之介のアパートの玄関に一通の脅迫状が届きました。差出人は不明ですが、教団の要求が書かれてあり、純之介が八十島蛍を連れて森に戻らなければ、蛍に罰を加える。純之介と蛍の居場所は突き止めた、と簡潔に書かれてありました。
 純之介はその一通を見つけたときから、様子が変わったのですが、その変化をどう言い表せばいいのか分かりません。妙に落ち着き払った様子で僕を呼び出して、こう言いました。これから別の町へ逃れることになった。最後に一筆、書いて欲しいものがあると。何ですか、と尋ねたら、『僕は丘の上で殺された』と書いて欲しい、と言うのですね。どうしてそんな物騒な文書を書かせるのかと訊くと、おれを死んだように見せかけるためだと返ってきました。
 僕はずいぶんためらいましたが、それが純之介の逃亡の手助けになるのならと、墨書きで文書をしたためました。それが遺書になるとも知らずに。それから一通の封筒が渡されました。もし、この町に敷島蛍と名乗る人物がやってきたら、おれの代わりにこの手紙を手渡してくれと。次の行き先が書いてあると彼は言いました。間宮荘のロッカーに置き残した手紙を、純之介はオーナーの千とせさんに頼んで、内密に回収したようです。おそらく事件になることを見越して、手紙が警察に押収される可能性を恐れたのでしょう。翌日の晩、純之介は新庄正人として水無瀬川に飛び降りを図り、亡くなりました。
 僕は前日に書いた文面が気になって、夜には純之介のアパートに訪れていたのですが、留守になっていました。どうにも嫌な予感がして、水無瀬川の堤防まで走って行きました。あの川は、「はじまりの丘」を逃れてきた人間にとって、特別な川です。過去に教団からの抑圧が引き金になり、水無瀬川に飛び降りて地元紙に載った人物がいたために、あの川で亡くなることは教団への抵抗になると、僕らの間でささやかれていたのです。いつか真実が明るみに出たとき、教団の影でどれほどの犠牲者がいたか分かるようになるだろうと。
 現場に到着したときは既に人だかりが出来ていて、警察のパトカーのサイレンが近づいていました、僕はあの遺書を回収しようとしましたが、地元の警察官に見とがめられて間に合わず、すぐに逃走しました。僕自身も純之介の自殺を手助けしたことで自責の念に駆られて、崖から飛び降りた結果、右脚を複雑骨折し、この病院に搬送されました。脚が治ったら、精神病院へと移送される予定です。あなたに話すことはこれでおしまいです。

 *

 新庄はポケットから一枚の洋封筒を差し出した。宛名には「敷島蛍へ」と書かれてある。純之介の荒っぽいような角張った文字だった。あたしはそれを受け取った。
「あたし、これからどうやって生きていけばいいんですか?」
「さあ、僕にも分かりません。そんなことを分かった試しは一度だってないのです」
 新庄は松葉杖を取り、ゆっくりと立ち上がった。では失礼します、と言って一歩ずつ広場から歩み去っていった。あたしは呼び止めることもできず、目の前に広がる星空を眺めていた。夜行列車が宙を駆けるように高架の上を走り去っていった。

 あたしさ、あんたに言いたいことって沢山あったな。でも、もうみんな忘れちまった気がするんだ。煙草の先が少しずつ灰になっていくみたいでさ。言いたいことは言いたいときに言わなくちゃならないんだ。あんたは、私と一緒にいればよかったんだ。たとえ、その方が早く連中につかまっちまうことになったとしてもさ。
 あたしたちはばらばらで煙草を吸ったりしちゃいけなかったんだ。隣にいなくちゃいけなかったんだ。どっかの安いぼろアパートのベランダでさ。いまにも壊れちまうんじゃないかって柵に寄り掛かってさ。遠くに浮かんだ満月をただ眺めているだけでよかったんだな。あたしは半分になった煙草の欠片を持って、夜の川のそばにいる。もうこれ以上、吸えやしない。何の目的もない紙細工と同じさ。そんな切れ端だけを持って、あたしはこれから川の向こうへ渡らなくちゃならないんだ。
 思い出がもし藁みたいな形だったとしたらさ、あたしは目の前が真っ白になるまで、焦がして灰になっていくところが見たいんだ。いなくなったやつの手紙なんか、あたしは読みたかないんだ。絶対に手の届かない星に向かって手を伸ばすようなものさ。そんな遠くで光って、あたしの眼に触れたって、この指先までは届かないんだ。だいたいあそこに浮かんでいる星だって、もう何億年も前に消えちまった星かもしれないだろ。
 あたしはもう、そんな光に用はないんだ。どんなにあがいたって、ここはただの芝居小屋なんだ。何から何までつくりものってことに気が付いちまった。あたしたちは、ただ神様が観たがった人形劇を演じているだけさ。だからあたしは終わりの日まで、神様に文句を言ってやりたいんだな。文句ってのはこんな風に世界を造っちまったことに対してだよ。幕が閉じたら、隠していた操り糸を舞台の袖からたぐり寄せて、あたしたちはきっと宙に浮かんで、夜空の向こう岸まで吸い込まれちまうさ。
 あたしたちの人生は紙切れ一枚とおんなじさ。そこには何だって書き込めるけれど、書く内容はとうに神様が決めちまってるんだ。こんな風に書かれちまったら、誰も幸せになんかなれやしない。もし地球上の人間が一人残らず幸福になるような日が来たら、誓ってもいいけれど、そこにあたしたちはいないのさ。最初から勘定に入ってないんだな。
 あたしにはもう望みなんてないんだ。生きたくもなければ、死にたくもない。これから気が触れるほど長い時間を掛けて、あたしはこのばかげた人形芝居のお人形さんをひとりぼっちで演じ続けるんだ。どこにも辿り着く港は見つけられず、水平線の上を漂い続ける幽霊船みたいにさ。あたしは誰にも触れられないし、誰もあたしに触れられない。あたしが立っているのはそういうところ。
 あんたに会う前にさよならを言えばよかった。初めて会った日にお辞儀をして、そのままくるりと踵を回して、地球の反対側まで歩いて行けばよかった。あんたが煙草を吸うためにライターが欲しいと言っても、あたしは持っていない振りをしてそのまま立ち去ればよかった。
 そうできなかったあたしは夢を見ていたんだ。あんたが忘れたライターを、あたしはポケットに入れていた。その日にあたしは教室を抜け出して、川縁であんたの煙草に火を点けちまった。あたしたちはみんな間違ったことしかやらないんだな。たぶんもう一度やり直してもさ、あたしは結局、あんたの落としたライターをつかみ取って、あんたの煙草に火を点けちまうよ。

──蛍へ。君に手紙を書こうとして、何度もやめちまった。言葉にした途端、つまらない言い訳や嘘になった。それでも筆を執ったのは、これが最後の挨拶になるからさ。おれは次の街へ行こうと思うんだ。君を置いていくことだけが気がかりでね。約束を守れなかったことを後悔している。おれがこれから向かう街はさ、川の向こうにあってさ、橋の上に立つたびに君のことを思い出すんだ。
 あの日、川縁に立っていた君は、水面の向こう側をじっと見つめていたな。まるでこっちの世界に君はいなくて、鏡みたいに映った逆さまの街に君がいるって信じ込んでいるみたいだった。放っておくと、ほんとうに君は向こう側に行っちまうんじゃないかって思ったことを覚えているよ。
 おれは君を引き留めたくってさ、話し掛ける言葉が見つからなくて、なくしちまったライターの話をした。君がライターを持っていてくれてよかったよ。おれがこんな昔話をするわけはさ、君に覚えといて欲しいからなんだ。
 君はよく壁の話をしていたな。壁、と言っても目に見える壁のことじゃない。君の周りを取り巻いている、空気みたいな壁のことさ。その壁は透明だけど、どんなガラスよりも分厚くて、決して突き破ることはできない。何でも窓越しにものを見ているみたいだって、君は話していたな。
 でもさ、ほんとうはそんな壁は抜けることができるんだ。君はその壁が確かに存在するって感じているかもしれない。それがあるって思い続けるかぎり、そのガラス窓は分厚くなって、堅く閉ざされていくばかりだ。でもさ、おれたちは何も別々の世界で生きているわけじゃないんだ。同じひとつの場所で息を吸っているんだ。たとえ目の前の人間がどれほどかけ離れたところにいるように見えたとしてもさ、ほんとうはそんなに遠いところにいるわけじゃないんだぜ。おれたちはその壁を抜けていかないかぎり、誰にも触れられやしないんだ。
 最後に君への贈り物を考えた。迷ったけれど、借りていたライターを返すことにした。ずっと昔に君から貰ったやつだ。まだ少しオイルが残っているだろうから、きっと使えると思う。
 君がこれを読み終わったら、そのライターで跡形もなくこの手紙を燃やしてくれ。この橋の向こう側まで、君が落っこちずに歩いて行ってくれることを願っている。いつか逆さまの街で会おう。さよなら。

 あたしが手紙を持ったまま、橋の上に突っ立っているとポケットに入れていた携帯に着信があった、星野からだ。あたしは電話に出た。
「もしもし」
「敷島。もう三日経ったわ。あんた、大丈夫なの?」
「うん、平気。電話を掛けてきてくれてありがとう。あたし、これから別の街へ行くことにしたんだ」
「別の街?」
「そう、川の向こうにあるの……うん、またすぐに会えるわ。心配しないで」
「何かあったら、いつでも戻ってきていいんだからね」
「ありがとう。それじゃ、またね」

 あたしは足下の水面を見つめた。風が吹いて、堤防に立つイチョウの葉が一斉にざわめき立ち、あたしの頭上を渡り鳥が翼を広げて駆け抜けていった。銀色のさざ波の向こうに鏡の国が見える。うわばみでも何でも出ておいで、あたしはあんたを燃やしてやらなくちゃいけないんだ。
 持っていた封筒を逆さまにすると、中から錆び付いた、傷だらけのライターが転がり出てきて、掌でそれを掴んだ。封筒の端をつまんで、あたしはライターの蓋を開いて、ホイールを回した。
 ばかだな。こんなライター、点くわけないじゃないか。 
 あたしはオイルの切れたライターをポケットにしまって、手紙を携えたまま、向こう岸まで歩いて行った。橋を渡りきると、逆さまの街が遠のいていた。

 (了)


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