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ポメラ日記77日目 答えのない本の読み方

 幼い頃、本の中には答えが書いてあると思っていた。

 小学生の頃、国語のテキストには「この文中の意味するところを160字以内で簡潔に述べよ」とか、そういう問題文が載っていたと思う。

 夏休みになると塾で問題が山ほど出て、1問1答早押しクイズみたいな試験を無限ループでやっていた。

 「作者の意図するところを述べよ」という質問にあたると「なんであんたは作者じゃないのに意図が分かってるんだよ?」と心のなかでツッコミを入れつつ解いていた記憶がある。

 模試があると、どこかの学校くんだりまで出かけていってせっせと問題を解くわけなんだけど、限られた時間で解かなきゃいけないのに、妙に例題の文章が面白いものに出会ってしまうときがある。

 そういうときは、テストの内容そっちのけで回答を仕上げてしまい、余った時間を使って読み直した。出題文の出典をメモしておいて、帰りに書店に立ち寄るのが楽しみだった。

 僕が子どもの頃に、はじめて試験問題の文章で心を動かされたのは、灰谷健次郎さんが書いた「天の瞳」という本で、クラスの超問題児の倫太郎という少年が、じいちゃんとテレビを見ているときに説得されるというシーンがある(幼年編のⅠ)

 テレビではカウボーイが馬に乗ろうとしているシーンが流れていて、力ずくで乗ろうとしても馬には振り落とされるという。馬は人間よりもはるかに力が強く、乗りこなそうと思っても簡単に乗りこなせるものではない。馬と人間のちからくらべになる。じいちゃんは、倫太郎に向かって、人間が馬に勝とうと思ったら、馬の持っていない人間のとくべつなちからを使わなくてはならないと諭す。それは相手のことを好きになること、正確には勝つのではない、馬と友達になることだ、というシーンが載っていた。

 僕の身の回りには、信頼できる大人がほとんどいなかったので、僕の幼少期の倫理観の一部は、灰谷健次郎さんの本に出てくる「じいちゃん」の言葉を拠り所にしているところがあった。

 僕のペンネームには「馬」の字を充てているけれど、もしかすると無意識にこの本を覚えていたのかもしれない。馬と一つになること。友達になること。

 この「本を拠りどころにする」くせは、大人になってもなかなか抜けなかった。

 「友達ができない」ときは、ドストエフスキーの「地下室の手記」の男も「僕は善良な人間にはなれない」って言ってるしな、と思い、何か信じられるものがあった方がいいよとか、きなくさい話をふっかけられたときは「いや、ニーチェが神は死んだって言ってるし、なんであんただけ十九世紀で話止まってんの?」と思い、誰かのことを憎みそうになるときは「世間のすべての人がお前のように恵まれた条件を与えられたわけではない」というグレート・ギャツビーの一説を頭の片隅で思い出したり、思い出さなかったりした。

 これがよかったか、わるかったかというと、なんとも言えない。とくに小説って倫理観(モラル)があるものとないものがあって、その種類も色々ある。

 たとえば、倫理を逸脱することで却って人間の倫理を問うタイプは、カミュ、ドストエフスキー、中村文則さんの作風が思い浮かぶ。

 倫理を超越しようとするのは、芥川龍之介、サリンジャー、ボルヘスかな。

 シチュエーションから人間の倫理観を浮き彫りにするのは、ヘッセ、カズオ・イシグロ、さっき話した灰谷健次郎さんはこのグループに入ると思う。

 倫理を問題としない(主題として扱うことを避ける)のは、村上春樹さん、ヴォネガット、カポーティといったところ。

 小説のなかの登場人物の思想や言葉をモデルにしてしまうと、うまくいかないことの方が多い。ほぼ百パーセント偏りが生まれるし、人それぞれに状況が違うので、安易に「答え」に飛びつこうとすると、現実の方でとんでもない結果を引き起こす場合もある。

 「本」や「読書」って何となく無条件にいいもの、奨励されるものとして学校教育では扱われているけれど、ほんとうはそれなりに危険も伴うものだと思う。

 「活字のどこが危険なんだ?」と言われると、読み方によってはその人の思想信条を丸ごと変えかねない点が一番にある。

 有名なのは「ウェルテル効果」というもので、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の読者が、主人公をまねて自殺を選んでしまう事象がある。

 他にもジョン・レノンを撃ったマーク・チャップマンが、犯行現場で「ライ麦畑」を読み続けていたのは有名な話だし、レーガン大統領暗殺未遂事件を起こしたジョン・ヒンクリーの愛読書も「ライ麦畑」だった。

 これらのケースに共通して言えるのは、フィクションのなかの登場人物を理想化して、そっくりそのまま自分に置き換えて「真似」をしてしまった点にある。

 思わず「真似」をしてみたくなるくらい、作品に力があるということの証でもあるけれど、フィクションと自分の人生の境目を無視して、直に接続してしまうと、安易に人生を放り出しかねない。

 ショーペンハウアーが「読書について」のなかで言及しているけれど、本を読むことはつまるところ「他人の思考や思索の跡をなぞること」で、読書は本来、自分で考えるべきところを他人に肩代わりして貰うための方法であって、読めば読むほど自分ではものを考えなくなっていくものだと言う。

 頭のなかを空っぽにしたいんなら、人生において間断無く本を読み続ければいい、という皮肉をショーペンハウアーは「読書について」のなかで書いている。

 (だからといってまったく読書しない方がいいかというと、そうではなくて、足りないところは素直に他人の考えを借りて、ある程度から先は自分でものを考えてみる叩き台にしたり、アウトプットによって自分の言葉に変える練習をすればよいと思う。

 たとえば自分の小説を書くときに他人の方法論が使えないことは、この辺の事情が絡んでいる。

 他人に考えて貰った「小説の書き方」は、結局のところその人の二番煎じに過ぎず、オリジナルな小説とは呼べない。

 一次小説、二次小説という言い方があるけれど、自分でその文章を手がけたからといって、それがオリジナルだと言えるわけではない。

 他人の方法論を借りたり、他の誰かが既にやった表現は、文学の表現にはならないと思う。作品が「面白いこと」と「新しいこと」は違う、という余談)

 フィクションのなかの倫理観を逸脱した人間(アンチ・ヒーロー像)ほど、痛快に見えるものだけれど、あれは小説の語りのなかだから制約がなく描かれているだけで、現実はもっと地味なものだし、人生が変わる劇的な場面なんかもめったにない。

 「現実の制約とかはとりあえず取っ払ってもいいんで、自由に想像の赴くままに書いて良いですよ」が小説(フィクション)のいいところなんだけど、それをそのまま日常生活に持ち込むとえらいことになるのは、そもそも両者の前提が違うからだ。

 なので、小説を読むときはもう少し穏やかな繋がり方を探してみるのがいいと思う。

 小説なんて読んでも読まなくても、人生そのものは劇的に変わったりしない。書かれてある「答え」に飛びつくんじゃなくて、「こういう考えの人もいるんですね」「そんな風に心情を表現するのか」「この言い方(書き方)は面白いな」っていう風に、ちょっと離れて見る自分を持っておくといい。

 同じものを見つけて喜んでいるんじゃなくて、違うところを見つけたときにそれを面白がって見れるかどうか。

 登場人物の考えやシチュエーションが自分の人生と似通っていると感じれば感じるほど、感情移入してしまいやすくなるんだけど、本を閉じたときに自分の人生まで登場人物にそっくり明け渡してしまわないこと。

 薬とかと一緒で「劇的に効くもの」って、効果は長続きしないし、いい気分でいられるのはほんの一瞬に過ぎない。

 本で読んだ登場人物や他の人の考え方に心酔しているのは気分がいいかもしれない。でも、傍から見れば、それはただ自分の人生や頭を空っぽにしてそいつに明け渡しただけだ。

 そういうヒッピーみたいな読み方をするんじゃなくて、小説はもっと「じんわりと、穏やかに」効いてくるものだと思う。

 いい小説やフレーズっていうのは、わざわざ自分の人生を丸ごと明け渡さなくたって、いつも心のどこかにあって、簡単に消えたりしない。忘れた、と思った頃に思い出す。

 小説を読んで得られるのは、「答え」ではなくて「問いかけ」だと思う。いつも謎ばかりが残っていく。それでいいから。

 サリンジャーの「ライ麦畑」で僕が思い出すのは、ホールデンの最後の台詞だ。かつていた周りの連中がなつかしくなるくらい、僕は十分に生きただろうか? いやな連中でさえも、さみしく思うことがあったかな? と心のなかで問いかける。

 サリンジャーやホールデンのまねごとをしても、サリンジャーにもホールデンにもなれない。だから僕は自分の言葉を探して、小説を書こうとしている。

 他人の靴で歩くことはできない。どうやっても。

 2024/07/13  17:53

 kazuma

近況報告:流行り病にやられてしばらく伏せっていました。いまも咳が止まりません。パソコンやポメラでちょこちょこ文章を打つくらいならなんとかできそうなので、久しぶりにポメラ日記を書きました。

SNS(X)については個人アカウントを廃止したのだけど、ブログの方でプロモーションのレビュー案件の依頼が来たので、「もの書き暮らし」の公式アカウントとして再開する予定です。

個人のアカウントっていうよりは、基本的には文学ブログ「もの書き暮らし」のお知らせ用として運用します。

といっても中の人は僕(kazuma)なので、あんまり変わらないかもですが。 

 (了)

もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。