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「君は花束を忘れた」

<あらすじ>

八月の暑苦しい日に一番線のホームに立っていたはずのトム。気がつけば、奇妙な列車に揺られていて、行き先は一度も聞いたことがない停車駅ばかり。車内では旧友の小野真知子や、小林柄一と出会うが、この列車がどこへ向かっているかは、誰も教えてはくれない。切符には『経世鉄道 辺奈方面行 無限区間』と書かれてある。やがてトムは、この見知らぬ列車の先で、探していた人を見つける。

あいつも、こいつも、そいつも、みんなそうだ。ここにいる連中はみんな、人間には行き先があるもんだと思っていやがる。そんなもんはどこにもないのだ。(本文より)

note創作大賞2023、ファンタジー小説部門、応募作品『君は花束を忘れた』

 気が付いた時には列車に乗っていた。覚えているのは八月の暑苦しい日に一番線のホームにやってくる列車の光を見ていたことだ。頭上の電光掲示板には「回送列車」と書かれていた。それが何時何分発だったとか、どの方面に向かう列車だったとか、そういうことは覚えていない。次の瞬間には銀色の冷たいアルミの手すりを掴んでいた。車窓からは等間隔に現れる電柱と架線が流れていって、いつ終わるとも知れない線路が続いていた。車体はつねに緩やかに傾斜しているようで、線路の上を走る車輪が軋む音がした。辺りを見渡すと、背後には新聞紙の中に顔を半分埋めている片眼鏡の男がいて、紙面を隅々まで眺め回している。隣にはセーラー服を着た女子学生が首筋に付いた汗をハンカチで拭いながら、つり革を掴んでいた。天井の空調は二十八度前後の微風を送り続けていて、少女は青のリボンで結わえた後ろ髪を絶え間なくなびかせている。風で覗いた首元には傷跡があった。その形が「〆」という文字に似ていたので、おれは妙に眼を逸らすことができず、白い肌に浮かび上がったその「〆」という傷跡をじっと覗き込んでいた。車内の吊り広告には相変わらず週刊誌のゴシップ記事の大文字が踊っている。足元が揺れて列車は減速し、車掌のアナウンスが響く。
 ──次は、六路。六路。
 六路? 車掌は確かにそう言った。聞き慣れない駅名が続いていた。「海野辺」「二門末」「窪平」「六路」、どれも、まるで聞いたことがない。この列車はどこへ向かっていて、おれはなぜ、この列車に乗っているのだろう。乗り合わせた乗客たちの顔を確かめるが、もちろん知った顔はなかった。列車は六路駅のホームへ入構し、扉を開いた。「窪平」で下車した数と、ほとんど同じだけの乗客が「六路」から乗ってきた。おれは訳も分からず、閉ざされていく自動扉の合間から、見慣れないホームに降りていく乗客の後ろ姿を見送った。ここが何番線のホームで、どの方面に向かっているか、おれはガラス窓に鼻先が触れそうなほど近付けて確かめようとするのだが、入線するホームの番号はいつも違っていて、掲示板らしき表示にはただ「内回り」「辺奈」方面行き、としか記されていないのだった。
 間違った列車に乗った時の原則はただひとつで、一刻も早く次の停車駅で降りること、なのだが、そもそもこの列車に乗ったことは「間違って」いるか、間違っているとして降りることが正解なのか、おれにはよく分からないのだ。なぜって、おれがこの列車に乗っている、そのわけは知らないが、過去のおれがこの列車に乗ることを選んだのだろう。もう何駅前のことだか忘れたが、おれはおれの意思でこの列車に乗ったはずなのだ。ならば、しかるべき「目的地」があるはずで、そこへ行くために過去のおれはこの列車の扉をくぐった。行先が間違っている、とはまだ言い切れないんじゃないか? 加えて、さっきの掲示板に「内回り」とあった。つまりこの列車は環状に回っているはずで、乗ってさえいれば必ず「元の駅」に戻ってこられるのだ。そういう腹積もりで、おれはかえって安心し、この未知の列車での移動を楽しんでいた。そして「辺奈」という駅を一目見てやろうと待ち構えているわけだった。
 列車は鉄橋に差し掛かり、眩い陽光が窓の向こうから差し込んでくる。反射の加減で窓は鏡面のようになり、おれは映り込んだもうひとりの像と向かい合っていた。橋桁の下にはエメラルド色に染まった河が流れている。もうひとりのおれはその河の上で、真昼に見る鬼火のように宙に浮き上がっていた。車掌がアナウンスをはじめた頃、おれは車両の奥に見知った顔があるのを見つけた。小野真知子。学生の頃の友人だった。小野は壁に背を預け、腕組みをしながらこちらをにらんでいる。明らかにおれと勘付いた様子で、しかし警戒心はちっとも解かない目をしたまま、そっぽを向いてしまった。車掌が次の停車駅を読み上げている。
──次は、御伽。御伽。
 御伽だって? そんな馬鹿な駅名があるものか。おれは車両の奥に佇んでいる小野の姿を見遣る。学生の頃とさして変わらない、ほとんど記憶通りの小野がそこにいる。あいつは小柄で、おかっぱ頭の横髪のなかに狐のような細い目を隠している。小野は人混みのなかに少しずつ分け入って、出口の扉の前まで歩み出ようとしていた。こいつは「御伽」で降りるのか? 何だってこんなところで? 
 おれは新聞紙の男をわずかに脇へ押しやって(新聞紙の男は気分を害したように片眼鏡を僅かにずらす仕草をした)、小野のいる扉のそばに向かって車内を移動した。小野は諦めたように首をすくめ、おれに向かって吐き捨てるように言った。
「何か用? あんたに話すことなんて、何にもないんだけど」
「そんな言い草はないだろう。久しぶりに会ったっていうのに」
「……大した用がないなら絡まないで。あたし、次の駅で降りるから」
「大ありだ。どうして小野がこの列車に乗っている? なぜ次の駅で降りるんだ?」
「ふん、あんた、何にも知らないんだ」
 列車がブレーキを掛けて減速する。もう間もなく御伽駅が近付いてくる。列車は踏切の信号待ちで、橋の上で一時停止していた。
「知らないなら、一つだけ教えてあげる。あんたはこんなところに来ない方がよかった」
「何だ? どういう意味だ?」
「詳しくは話せない。あんたは自分で気が付くしかない」
「何だよ、おれも次の駅で降りるからさ……そうだな、十五分あればいい。駅前の喫茶店に入って、わけを話してくれよ。テーブルに着けばアイスサンデーだろうがアップルパイだろうが何だって好きに頼めばいいさ」
 小野は首を横に振った。カールした髪の毛先が揺れる。左目がまた隠れた。
「いいえ。あんたは降りられないわ。降りられたとしても、それはあんたのためにはならないわ。また戻ってくるだけよ」
 戻ってくる? こいつは何を言っているんだ? 背中に汗が伝うのを感じる。じっとりとした嫌みったらしい汗が。列車が揺れる。運転士はレバーを引いたらしい。小野は構わずに話しつづける。
「あんたはここで何かを見つけなきゃいけない。あたしはそれを見つけた。だからこの列車を降りてゆける」
 それじゃ、と言って小野はくるりと独楽のように廻り、背を向けた。信号は青になり、列車は橋を越え、「御伽」駅のホームに滑るように進入する。
「なあ、小野。どうしておれにつれなくするんだ?」
「あんたの喋りがうっとうしいんだ」
 目の前の扉が開いた。一斉に降りていく乗客の足音が聞こえる。おれは反射的に小野の肩を捉えた。ここで引いたら、おれは小野に二度と会わないような気がした。小野は肩に食い込んだおれのひと差し指と中指を羽虫でも叩くように振り払った。そのとき、小野の手首に傷跡があることを知った。それは「〆」という文字にやはり似ていた。
「あんたって、都合のわるいことはすぐ忘れる。この際だから言っておくわ。あんたはいま、忘れているみたいだけど、ここではない場所で、あたしたちは何度も会った。目と鼻の先で、すれ違いさえした。でもあんたはまるで何にも覚えていないような顔をするんだもの。あたし、頭に来ちゃった。ねえ、あんたにこれから起こることを当ててあげる。あんたはこれから色んなひとに去られるわ。ひとり残らずあんたのもとから去るわ。あんたには、それがどうしてだか分からない。だから、あんたはこの列車に乗っている。それが分かって?」
「……」
 列車の警笛が鳴るのと、小野がホームに降り立つのは同時だった。小野は行ってしまった。扉が閉まるとおれはその場に座り込んだ。小野は奇妙な予言を残していった。
 おれは列車に乗っている、この状況をいまいちつかみ切れず、どうせこれは悪い夢か、白昼夢の類いだと高をくくった。そう考えないと説明がつかないのだ。おれは小野とすれ違ったことがあったか? こんな風に剣呑に扱われる義理はない。大体、おれは卒業してから誰とも連絡を取っていないのだ。それは小野とて例外ではない。好かれる理由は見当たらないが、さりとて一方的に憎まれた覚えもない。記憶を辿ってみるとすべてが曖昧で、おれはただ繰り返し、あの光を見ていた。そうだ、あの光だ。一番線のホームへやって来る、先頭車両のヘッドライト。おれはあの時、どこへ行こうとしていたろう。何だってあの列車を待っていたろう。分からない。おれはどうしてここにいて、なぜ列車に揺られているか。どこへ向かおうとしていたのだ?
「御伽」駅を過ぎて、呆然と、俯いたまま、おれはスニーカーのほつれた紐の先を眺めていた。他に見るものもなかった。紐は傾いた十字のようにクロスしていて、おれは紐を解いて結び直そうとしたが、その結び目は堅く、結局は解けなかった。おれは諦めて紐を放り出した。
 車内の連中は、おれが床に直に座ろうがお構いなしで、彼らの目にものが映っているか、疑った。まるで輪郭だけの透明人間を見る目でおれを見ている。何かの手違いでたったいまおれが卒倒することがあったとしても、彼らはおれを平気で捨て置いて、停車駅に着く度に昇降を繰り返すだろう。次の駅で同じだけ降りて、また次の駅で同じだけ乗ってくるのだ。目の前にいる人間の、誰のかなしみにも気が付かないのだ。そう思った途端、おれには目の前の乗客が能面を被った芝居人形に見えた。おれはその舞台にぽつんと紛れ込んだ一匹の獣だった。おれには操り糸がないから、彼らのように行く末も来し方もない。ただ目を塞いで、この列車に揺られていることしかできないのだ。
 あいつも、こいつも、そいつも、みんなそうだ。ここにいる連中はみんな、人間には行き先があるもんだと思っていやがる。そんなもんはどこにもないのだ。列車から降りた先が、天国か地獄かなんていう、たったふたつしかない世界に囚われていて、それで自分がちっとでもひとより天国の側に転がり込みさえすれば、豚みたいに満足するのだ。おれは嫌いだった。そんな連中が定規で線を引いて街を作るのだ。おれはひょっとすると、そこから逃れようとしてこの列車に乗っているのかもしれない。そんな街で生きていくくらいなら、おれは誰も知らない駅で切符を買って、鈍行列車の末席に座って、たったひとりで行った方がよかろう。道連れはいらない。さしあたっての問題は、回送列車に乗ったはずのおれに、どうして行き先が与えられているのか、ということだった。
 奇妙な話だった。おれが乗ったのが回送列車なら、乗客がいるのはそもそもおかしい。駅に停まるのだってへんだ。回送列車はどこへも停まらず、車庫に向かうものじゃないか。小野と乗り合わせたのはどう説明する? おれは渡っていく鉄橋をガラス越しにじっと見た。川はさきほどとまったく同じエメラルド色で、平凡な住宅街の屋根が川の両端に広がっている。橋を渡り切るまでの時間はきっかり三十秒。さっき渡った川とほぼ変わらない。違うのは列車の影が川面に映し出されていることくらいだ。もしこの列車が同じ川の下流を渡っているのだとしたら、「御伽」駅を境にUターンをしている可能性がある。環状に動いているのかもしれない。しかし、あれからいくつ駅を過ぎたろう。環状列車なら、もう一周してもよさそうなものだが……。
──次は、「九十九段下」「九十九段下」。
 また違う駅だった。おれが駅名の表示を睨んでいる間に反対側の扉が開いた。
「あ」
 あ、と声が漏れる。互いに指を差し合い、顔を見合わせた。
「柄一じゃないか」
「え? トム? どうしてこんなところに?」
「それはおれの台詞だ――さあ、わからんね」
 小林柄一──、柄一はクヌギの実の形をした目をさらに丸くして辺りを見回した。「九十九段下」で乗客はぞろぞろと降りていった。座席が空いたので、おれは柄一と並んで、七人掛けの席の端に腰掛けた。間もなく扉が閉まり、駅員の警笛が響いて、列車がゆっくりと動き出した。ホームの先頭で紺青の制服を着用した駅員が進行方向に向かって真っ直ぐに指を突き出している。おれはその駅員のはめている白い手袋が妙に真新しいことに気が付いて、その駅員の姿をじっと観察していた。影がなかった。信号から伸びる影が、彼の足元に向かって差しているのに、彼の足元からは伸びる影がないのだ。駅員は制帽を深く降ろした。列車が彼を追い抜こうとするとき、その目は庇に隠れて見えなかったが、突き出した鼻、焦げ付いた黄金色の毛に、細く伸びるひげが生えていた。その口元は微笑んでいる。鋭い犬歯が露わになり、赤い舌が覗いた瞬間、おれは駅員が人間ではなく、獣であることを悟った。おれはその狐の駅員に見られないように反射的に身を隠し、座席の上でうずくまった。柄一は顔を両手で覆い、前屈みになって俯いている。
「おい、見たか? いまのは」
「なあ、トム。僕たちはとんでもない列車に乗っちまったようだよ」
 列車はまもなくトンネルに入った。白色蛍光灯の光が窓の外を一閃する。暗闇に囲まれて、おれたちはただ虚ろな目をしたまま、あらぬ方へと顔を向けていた。新聞紙の男は七人掛けの向かいの席にわざわざ移動してきて、たまたま空いていた端の席にふてぶてしい面持ちで座った。隣席の乗客には構わずに大きく紙面を広げ、そのなかに顔を半分隠している。片眼鏡だけが覗いていて、その男が読んでいるのはよく見ると競馬新聞だった。この期に及んで金のことを考えているのか。しかも新聞はさかさまになっていた。おれは呆れて、他の乗客を見回した。首元に「〆」の傷跡を付けたセーラー服の少女はまだ車内に残っていて、つり革を掴んだままだった。この乗客たちは、さも平然とした顔で乗り降りしているが、彼らがいったいどこへ行けるというのだろう。目の前の乗客をとっつかまえて、行き先を尋ねてみたいが、おれの挙動にまったく関心を抱かないところを見ると、徒労に終わる気がした。沈黙のなか、先に口を開いたのは柄一だった。
「トム。ちょっと話したいことがあるんだ」
「ああ」
 列車内に轟音が響いていた。トンネル内の走行はまだ続くようだ。
「この話を信じてくれるか、分からないが……」
「狐の駅員さえ見たんだ。何だって信じるさ」
 柄一は頷いた。
「僕がこの列車に乗ったのは二度目なんだ」と言って、柄一は俯きがちに口を開いた。
「一度目のとき、僕は自分の身に何が起きたのか、まるで分からなかった。いまもそうだけど、ほとんど気が動転していた……。トムは肝が据わっているんだな。何だろう、ひどく落ち着いて見える」
「そう見えるだけさ」
「……僕はとにかく落ち着かなかった。たまりかねて、乗り合わせた乗客に行き先を尋ねたくらいだ。僕と同年代の、サラリーマン風の男に聞いたんだ。『辺奈』って、短い答えが返ってきた。男はそれ以上喋らなくてね。ネクタイを締め直して、ずっと遠巻きに僕を眺めているんだ。まるでものを見るみたいにさ。僕はつり革につかまっていた。結局、次の駅で降りた。怖くてたまらなくなったんだ。降りよう、と考えた途端、嫌な予感がした。全身が毛羽立つような感じさ。それを振り切ってホームに降りた。降りた駅には『深町田』って書いてあった。改札を降りようとしたところで、切符がないか探した」
「切符?」
 そんなもの、持っていただろうか。おれはカーゴパンツの両方のポケットに手を突っ込んだ。右手の人差し指が紙片に触れる感触があった。親指と一緒につまんで引き抜いてみる。それは奇妙な切符だった。
「経世鉄道 辺奈方面行 無間区間 指定区間のみ有効 譲渡不可」
「柄一が言っているのはこれか?」
 柄一は持っている切符を取り出した。二枚の紙面には寸分違わず同じ内容が記載されている。違うのは柄一の切符は端が切り取られて使用済みになっていることくらいだ。
「出発駅も発行時刻も書かれていないじゃないか」
「僕も探したんだよ。でもどこにも書かれていなかった。日付や時刻を表すものがないんだ。切符だけじゃない。中吊り広告にも、ホームの掲示板にも。時計さえ、どこにも見当たらない」
 柄一は頭上を指差した。中吊り広告が空調の風に揺られている。おれは立ち上がってその内容を読んでみる。見知った有名人の名前が並んでいるが、それが何月何日発売か、ということは記されていなかった。
「まるで、狐につままれたみたいだな」おれは座席に戻った。
「柄一はこの切符で改札を出たのか?」
 そうなんだ、と柄一が頷く。
「正しくは、出ようとしたんだ。前の乗客が改札を抜けていったから、僕も出られると思った。おそるおそる切符を投入してみたよ。何だか駅員に手元を見られている気がしてね。切符はするする通っていって、ゲートが開いた。それで改札を抜けようとした途端、ブザーが鳴って、駅員から呼び止められた。『戻りなさい。君はまだ出てはいけない』って。でも、それを振り切って僕は改札を抜けた」
「改札の外には出られたんだな?」
「出たはずだった」
「駅員は人間だったか?」
「いや、狸さ」
「……」
 おれは両手を頭の後ろで組んだ。
「そのあと、目の前が見えなくなった。次の瞬間には『九十九段下』の駅のホームに立っていた。仕方なく乗ってみたら、トムがいたってわけ」
「何だろう、おれたちは風変わりな夢を同時に見ているのかな?」
 柄一は手元の切符に目を落としたまま、返事はなかった。
「そう言えば、小野に会ったよ。あいつは妙なことを口走っていたな。まるで降り方を知っているような口ぶりさ。尋ねても教えてはくれなくてね。自分で気が付くしかない、とかなんとか」
 柄一はおれの言葉を遮り、俯いた顔を上げて言った。
「小野って、あの『小野』のことか?」
「そうだよ。大学生のとき、同じゼミだったろ。どうしてそんなに驚くんだ?」
「トムはなぜ驚かない?」
「なぜって?」
「小野が行方不明になった話、知らないか?」
「おれはお前達が卒業したあとのことは、何も知らないんだ」
「地方紙のニュースに取り上げられたくらいだ。駅の周辺で突然姿を消したんだ。一年ほど前の話さ。僕のところにも記者から連絡が来てね。知っていることがないか、根掘り葉掘り聞かれたよ。トムに連絡はなかったのか?」
「おれは連絡先を変えていたから。たぶん、誰からも辿れなかったと思う」
「そうか……」
 柄一は口を閉ざした。おれは向かいに映る窓ガラスの影を見据えた。未だに列車はトンネル内を走行している。どうやら地下の路線へ潜っているようだ。ガラス窓の向こうに無人駅のコンコースがあった。列車の速度が落ちる気配はない。照明はすべて落とされていて、廃止になった路線のホームに見えた。白線の代わりに鉄柵とロープが張り巡らされており、「立ち入り禁止」の札がロープにぶら下がっている。その奥にはもうひとつの線路が見えている。突風が窓ガラスを叩く。走行中の列車の音が二重に聞こえた。対向路線に一筋の明かりが見えた瞬間、轟音とともに列車は無人駅を置き去りにした。おれが瞬きをしていると、柄一が口を開いた。
「答えたくなかったら、別にいいんだけどさ。トムは卒業してからどうして僕らの前からいなくなった? ずっと分からなくてね。連絡が取れなくなったのは、君と小野だけだった」
 意味なんかないよ、とおれは言った。
「意味なんかないんだ。ただ一人きりになりたかっただけさ。何だろうな、昔のままではやっていけない気がしてね。おれは皆と一緒にいるより、一人でいる方がきっとうまくやれる人間だと思ったんだよ」
「本当にそれだけ?」
「ああ」
「それで……うまくいった?」
「いいや。でも、他に道はなかったな。どうしたって、おれたちは別れちまうさ。いま、柄一とおれは同じ列車に乗っているけれど、もし元の出発駅に帰れたとしたら、おれたちはきっと別々の列車に乗るだろうさ。いま見ているものが夢だったとしたら、おれはここで話したことも、きっと忘れちまっているかもしれないな」
「トムや小野がいなくなってから、ずいぶんつまらなかったよ」
「そんなことを言うのは柄一ぐらいだな」
「……ほんとさ。トムは卒業してから、どうしていたんだ。結局、氷川先輩とは付き合ったのか?」
「氷川先輩?」
「うん。『おれは氷川先輩のところへ行くんだ』って、言ってたじゃないか。トムが慕っていたバイト先の先輩だろう。僕がトムと最後に話したことは、たぶんそれだったと思うな」
 そうだ。おれは氷川先輩のところへ行った。そのアパートで何年も暮らした。他に行く当てもなかったのだ。あのとき、おれはどうしてホームに立っていたっけ。
「……」
「どうしたんだ?」柄一がおれの顔を覗き込んでいる。
「柄一は最初に列車に乗った駅を覚えているか?」
 柄一は首を振った。
「いや。そう改まって訊かれると、分からないな」
「この列車に乗る前の、最後の記憶は?」
「ホームで列車を待っていたと思う。どこへ行こうとしていたのかは、ちっとも思い出せない」
 やはり柄一も同じだ。どこかの駅で列車を待っていたのだ。でも、なぜその記憶が抜け落ちている? 列車はトンネルに入ってから一度も地上に出ていない。「九十九段下」からの走行区間は長いようだ。地下区間なのだろうか。
──次は、「鴨四田」、「鴨四田」。
 柄一は座席の肘掛けに左腕を乗せたまま頬杖をついている。だらりと垂らした右腕を辿ると、手の甲に痣があった。「〆」の模様が浮かび上がっていた。
「柄一、それは何だ?」おれは柄一の手の甲を指差した。柄一は首を傾げている。
「あれ、何だろうな。この痣……」
 一拍の間を置いて、柄一が口を開いた。
「そっちにもあるぞ」
「えっ」
「額のそば。かなり、薄いけど」
 おれは額に触れる。頭をぶつけた覚えはない。立ち上がって列車の窓際へと向かう。前髪を掻き上げて、蛍光灯に照らされたもうひとりのおれの像と額を突き合わせる。それは確かにあった。あの女子学生や柄一にも付いていた模様とほとんど同じ「〆」のマークが。おれは反射的に身をのけ反らせ、窓ガラスのある扉から離れた。視界の端で、片眼鏡の男がこちらをじろりと睨み付けている。席に戻ると、柄一は右の手の甲をじっと見つめ続けていた。
「妙な痣だな」と柄一は言った。
「何かの目印なのかもしれない」
「目印?」
「小野にもその痣があった。向こうに立っている学生の首元にも。この列車の乗客はもしかしたら、全員にその模様があるんじゃないか」
「でも、何のために」
「さあな」
 お手上げだった。列車はまもなく「鴨四田」駅に到着しようとしている。
「トム。次の駅で降りないか?」
「……どうして?」
「このままじゃ、僕たち、どこへ連れていかれるか、分かったもんじゃないぞ」
「でも、外へ出られなかっただろ? 降りても同じじゃないか」
「違う。元の出発駅に戻るんだ」
 どうやって、と尋ねる間もなく、柄一が息を呑んで言った。その顔は真顔だった。
「簡単なことさ。反対路線の列車に乗ればいいだけだよ。トムも見ただろう? あの無人のホームさ。確かに向かいの線路はあったろ」
 おれは手元の切符を見た。
「でも、この切符は『辺奈』方面行きだ」
「改札で事情を話して駅の外に出ればいい」
「お前は狐や狸に事情を話せば分かって貰えるとでも思っているのか」
「なら、力尽くで出るんだ。とにかくここは、僕たちがいた元の場所じゃない。これ以上、先へ先へと進んでいったら、きっと戻れなくなる」
 座席から立ち上がった柄一の背中が見える。よく目を凝らすと柄一のポロシャツは埃だらけで、年数を経て色あせたボルドーの色をしていた。袖口からは糸が伸びていて、はさみの刃で切られたような不自然な跡があり、ほつれた跡がそのままになっている。
──……方面へお乗り換えのお客様は次でお降りください。
「ちょっと待て、車掌が何かを喋っている」
「ほら、乗り換え地点じゃないか。僕は降りるよ」
「元の駅がどの駅かも分からないのに?」
「元々いたところなら、見れば思い出すだろう」
「……」
 七人掛けの座席に腰掛けていた乗客達がぞろぞろと立ち上がり、荷物置きから鞄を降ろしたり、手元のバッグを持ち直したりしている。ほとんどの乗客が昇降口の扉へ向かって降りる準備をはじめている。
「おれは『辺奈』まで行くよ」
「トムは降りないのか?」
「おれはまだ、小野の言っていたこの列車の降り方を知らない。『辺奈』っていう駅がおれにあてがわれた駅なら、そこまで行くしかないんじゃないか」
「そうか、悪かったな」
 扉が開く。乗客達の足音が途切れることなく続く。柄一はしきりに首を振って辺りを見渡している。七人掛けの席に腰掛けていた人々はひとり、またひとりと消えていき、車両はもぬけの殻になった。残っているのは、向かいの席の片眼鏡の男と、首元に痣のある女子学生だけだ。
──信号待ちのため、しばらく停車します。
 アナウンスの事務的な口調が流れた。車掌が笛を強く吹いている。
「あのさ、トム。きっとこれが最後になるから、話すよ。僕は君や小野がいなくなってから、つまらなかった。ずっと、つまらなかった。毎日、会社の壁を見つめていた。どうでもいいカレンダーの日付に追われて、気が付けば明日になった。太陽が昇らなきゃいいのになって、いつも思っていたよ。僕さ、この数年間、自分が何をしていたのか、全然記憶にないんだ。気が付いたら電車に乗って、同じ座席に座って、また同じ列車に揺られて帰るんだ。誰にも会わなかったし、誰とも話さなかった。おかしいだろ? 人はそこにいるのに、僕は喋んないんだ。いや、どうでもいいことばかり喋ってやがんだ。僕がこんなことを言うのはね、これがきっと夢だからだよ。瞼を開いたら、君はきっと忘れちまうさ」
「僕は毎日、いなくなることばかり考えていた。面白いことなんて、ひとつもなかった。笑うときは顔だけで笑うんだ。その顔の下にまったく違う顔を作るんだ。僕は笑っているそのときの顔が、きちんとひとにそういう風に見えているか、そればっかり気にしているんだな。誰か見破ってくれないかと思っていたよ。僕をぶん殴って、そのしかめたつらを露わにしてくれないかってね。でも、駄目なんだ。そこに目が二つ付いているのに、いちいち言ってやらなきゃ、三文芝居かどうかも見抜けないやつらばかりさ。ねえ、目に見えないし、触れることもできないし、喋ることもできない人間がいるとしたらさ、そいつはきっと生きている間中、ひとりぼっちの人間だと思うんだ。僕はさ、そういう連中にしか淋しさってのが、どういうもんか分からないと思うんだよ。もしそんなやつらがひとりもいなくなったとしたらさ……時間だ、僕は降りるよ」
 またな、と柄一は言った。おれはとっさに掛ける言葉も見つからず、棒立ちになったまま、慌ただしく車両を駆け下りていく柄一の背中を見送った。
「柄一!」おれは扉の取っ手を掴んで、身を乗り出すように大声で叫んだ。発車の合図がホーム中に鳴り響いていた。色あせたボルドーのシャツを着た後ろ姿がぴたりと制止した。
「お前、元の駅に戻れないって知ってたんじゃないのか?」
 柄一は振り返って、一度だけ白い八重歯を見せて笑った。学生の頃の、柄一の笑い方だった。
「よく分かったね。でも、君がどうかは分からないよ。まだ間に合うかもしれない」
 扉が閉まる。窓の外には背中を向けた柄一の姿がある。その右手はさよならを告げるように高く掲げられている。右手の甲には「〆」という模様がはっきりと浮かび上がっていた。柄一の足元に影はなかった。
 逆さまにした競馬新聞を読んでいた男は、わざわざおれの真向かいに座り、にらみを利かせている。気分が悪くなり、席を立った。その時、セーラー服を着た女子学生と眼が合った。なぜ? 彼女はこちらへと歩み寄ってくる。
「あなたがトム?」と彼女は言った。少女はおれの前で腕組みしている。
「どうして、おれの名前を知っている?」
「姉から聞いたのよ。『鴨四田』駅を過ぎても列車に乗っている人がいたら、その人がトムだから、って」
 青いリボンで結んだ髪を束ね直し、少女は走行中の列車の中でおれと向かい合うようにして立っている。
「姉?」
 おれは少女の顔を確認するが、まったく見覚えはない。記憶が抜け落ちているのだろうか。少女はおれの考えを見透かしたように言った。
「知らないのも無理はないわ。姉はきっと、私のことは話さなかったでしょう」
「君は誰の妹なんだ?」
「私は氷川アオイ。氷川睡蓮の妹」
「氷川先輩の? 君が?」
「ええ」アオイは頷く。
 先輩に妹がいた、なんて話は一度も聞いたことがない。
「私のことはいいから。先頭車両へあなたを連れていくことになってるの。それに、ここから離れた方がいいわ」
 アオイは小声で耳打ちすると手招きしながら車両の連結部へ向かった。問い返す間すらなく、少女は紺のスカートの裾を揺らしながら、奥の車両へと消えた。片眼鏡の男は鬼のような形相でこちらをにらみつけているが、どうやら動くつもりはないらしい。連結部の向こうで、アオイが何かを喋っている。ガラス越しに口元が動いているのが見えた。「は・や・く」。おれはアオイを追いかけて車両をまたいだ。扉の上には「6号車」と書かれていて、おれはアオイのいる5号車へと移った。
 扉を開けるなり、おれは言った。
「あいつはいったい何なんだ。ずっとおれのことをつけ回してくるんだ。気が付いたときから、ずっとだ」
「あいつ、って?」
「あの競馬新聞を逆さまに読んでいるいかれたやつのことだ」
「あれは番人よ。あなたが嘘をつくかどうか、見張ってるんだ。一つ残らず聞き漏らさないように耳を傾けてるの。この列車の行き先はあたしたちには決められないわ。列車に乗るかどうか、私や姉と会うかどうか、車両を一つ移動するのだって、皆、神様が決めたことだわ」
「何だ、この世界じゃおれ達に決められることなんてないのか?」
「もしかしたら、人間に決められることなんか一つもないかもしれないわ。私たちが元々いた世界だって、そうだったでしょう。あなた、生まれてくる家は選べた? どんな両親の下で育って、何を信じるか決められた? どこへ行って、誰と出会って友達になるか、あらかじめ選べたかしら。人間の一生なんて爪先から天辺まで決めらんないことづくめよ。私たちに決められるのはこんな世界を受け容れるか、拒絶するかのふたつだけ。間はないわ。何もかもを終わらせるか、踏みとどまって抵抗を試みるか、そのどちらかしかないのよ」
「だったら何でそいつはおれ達にこんな光景を見せ続けているんだ? 一から十まで人生が決まってんなら、ただの茶番じゃないか。誰が勝って、誰が負けるか、生まれたときから決まってんなら、途中で降りたくなっちまうやつがいても不思議じゃないね。もしこの世界を作ったやつが分かってて人間に対してこんな仕打ちを続けているのだとしたら、気が狂っているとしか言いようがないな。この世界にどれほどの痛みが渦巻いているか、そいつは分かっているか? それだけの犠牲を払ってでも成り立たせる価値のある世界か? どう考えたってこの世界を作ったやつは、善だけの存在じゃないよ。少なくとも人間が考えるところの善の中にはいない。裏の顔を人間には見せないように隠しているんだ。月と一緒さ」
「それでもきっと、私たちに見せたいものがあったんじゃないかしら。あなたはそんなもの見たくはないんだ、と言って遠ざけても神はあなたに見せ続けるわ。それは夢か幻のようなものかもしれない。ちょうど私たちがこの世界を認識しているように、あって、ないはずのものかもしれない。あなたは自分が存在しているって思う? ほんとうにそう感じられる? 憎しみも喜びも、みんながまやかしだって思わない? 神がそこにいるかどうかも分からないなら、私たちだってほんとうにここにいるっていう保証はないわ。眼を醒ましたら、ほんとうはどこか別のところに立っていました──そんな結末だっておかしくない。私たちがこの列車に乗って、どこから来て、どこへ行くのかなんて、どうでもいいことなのよ。どうせなるようにしか、ならないんだから、心配することは何もないわ。それで上手くいかなかったんなら、すべてが駄目になったとしたら、きっとそれはあなたのせいなんかじゃないわ。私たちは神様にだって文句一つ言わせないくらい、この世界を生きることしかできないんだわ」
 車内に沈黙が訪れた。列車の轟音だけが響いている。トンネルを抜け、不意に眼前の視界が開けた。逆さまの街が窓の外に映っている。突き出したタワービルも、道路も、流れている川も、すべてが逆向きで、まるで砂時計の中の街をひっくり返したあとに見えた。列車だけが起き上がっていて、宙に浮かぶ線路を下っている。太陽の姿はなく、代わりに逆さまの月が浮かんでいて、眼下に瞬く星が見える。
「ここは……」おれは息を呑んで、その場に立ち尽くす。
「地上に似せて作ってあるのよ。綺麗なところでしょう。でも、あなたはここに長居していてはいけないわ。次の駅に着いたら、姉が乗ってくるから、先頭車両で待っていて。私に言えることは、それだけ」
「待って、君は何者なんだ。おれはもう元の駅に戻れないのか」
「あなた次第よ。私の役目は姉とあなたを引き合わせること。この回送列車に乗る人は皆、最後に大事なひとに会う決まりになっているんだ。どうしてだかは言えないけど、そういうしきたりになっているのよ」
「……わかった」
 尋ねたいことは山ほどあった。アオイはずっとこちらの眼を覗き込んでいる。照明の光がちらついて、その眼に五つの白い斑点を作っていた。列車は弧を描いて旋回している。下降しているのか、上昇しているのか、分からない。窓の外も、その隣に立つ彼女の瞳も、鏡合わせの像のように底が見えない。おれは先頭車両の側の扉へと歩いていった。ちょうどアオイのそばを通り過ぎると、アオイはくるりと背中の向きを変えた。
「なあ……君は元の駅に戻るつもりはないのか?」おれは振り向いて言った。
「どうして、そんなこと聞くの?」アオイは首を傾げる。
「君はまだ未使用の切符を持っている気がしたんだ」
 アオイは首を左右に振った。
「ううん、わたしのは姉に渡しちゃった」
「譲渡不可の切符を?」
「ええ。だって、姉だから」
「君たち、ほんとうに姉妹?」
 アオイはそこではじめて言葉を詰まらせた。
「ねえ、誰にだって言いたくないことはあるわ。もしあなたが元の駅に戻りたいなら、その切符、誰かに渡しちゃ駄目よ。たとえどんなに親しいひとであってもね」
「君だって、その切符が大事なものだってことは分かってたろう」
「わたしは姉あっての存在なのよ。でも、どんなことがあっても、あのひとを行かせるんじゃなかった。人生は一筆書きだから、後から戻ってやり直すことはできないんだ。たとえそのときにはいくつもの道が開けているように見えていたとしてもね」
 列車は間もなく「辺奈」駅のホームに滑り込んだ。行って、とアオイは先の車両へと続く扉を指差している。おれは一歩、二歩とアオイから遠のいて、車両連結部のドアノブに手を掛けた。後ろから声がした。
「姉にいつか花束を持っていってね。あのひとが好きな花、向日葵だから」
「君は?」
「え?」
「君の好きな花は?」
 聞いてどうするのよ、とアオイは笑っている。
「覚えておこうと思って」
「わたしの名前かな。正午に咲くの」
 じゃあね、と彼女は言った。扉が開き、アオイは列車から降り立った。月明かりに照らされたホームにアオイの影は映っていなかった。やがて彼女は階段のある右手へと姿を消した。「辺奈」駅のホームには時計柱が建っていた。おれは時刻を確認しようと開いたドアに近付き、先端の時計盤を覗き見た。「Ⅵ」時の位置に「Ⅻ」の数字が表示されており、すべての数字が正反対の位置にあった。長針は通常とは逆回りに回転している。短針は「Ⅻ」の数字を差しているように見えるが、これでは十二時なのか、六時なのか、まるで分からない。おれは何枚もの扉をくぐり、先頭車両に辿り着いた。引いたドアノブがやけに冷たかった。
──当駅で停車します。発車までしばらくお待ちください。
 おれは運転席の見える先頭車両の座席に腰掛けて、あのひとがやってくるのを待っていた。ホームは未明の色に染まっている。開いたままのドアからは真夏の風が吹き込んでいて、蝉の鳴き声が途切れずに続いていた。おれはこれからどこへ向かうのだろう。息を深く吸い込むと、海辺の匂いがした。先輩は来てくれるだろうか。おれは立ち上がって運転席を覗き見る。車掌はいない。運転席のガラス越しに見た線路はY字路のように二つに分かれていた。その側には転轍機が設置されている。信号機は赤になったままだ。時計盤を見つめる。五十九分、五十八分、五十七分……反時計回りに動く、奇妙な長針を見つめていた。秒針の音までが聞こえるような気がして、顔を上げると、青いミュールの足音がする。空の色と同じ、紺青のワンピースを着た氷川先輩が窓の向こうに立っている。赤みがかったブラウンのロングヘアを後ろで束ね、こちらに向かって、小さく手を振っていた。
「久しぶりね、トム。あたし、随分待ったのよ。あなたがちっともやってこないから、てっきりあたしのことなんて忘れたんだと思っていたわ」
「待っていたのはおれですよ。先輩は何でこんなところにいるんですか?」
「さあ、どうしてだろうね。あたしにも分かんないや」
 先輩はおれの隣に並んで腰掛けた。目の前の窓にはブラインドが半分降りていて、その下に二人の影が映っていた。香水を付けているのか、サンダルウッドの香りが漂っている。先輩は交差した青いミュールの爪先を眺めている。靴には染みひとつ付いていなかった。視線に気が付くと、先輩はおれの眼を確かめるようにじっと覗き込んだ。まるでおれがほんとうにここに座っているのか、疑っているみたいに。
「花束、持ってきてくれた?」先輩は出し抜けに言った。
「花束? 何の話ですか」
「あーあ、また忘れちゃったんだ」
「……また?」
「君なら持ってきてくれるって、思ってたのにな」
「そんな約束、しましたっけ」
「うーん、まあ」
 先輩はそこで言葉を区切り、眼を泳がせた。それもそうね、とひとことだけ付け加えると、座席に深く沈み込んでしまった。先輩は目線を落とし、ミュールを履いた足首を熱心に見つめたまま、固まっている。
「そういえば、先輩、妹なんていたんですね」
「妹?」先輩は面を上げ、眉をひそめている。
「さっきまで、この列車に乗っていましたよ」
「あたしに妹なんかいやしないわ」
「先輩のことを姉だって言ってました、アオイっていう女の子です」
「……どうして知っているの?」
「何がです?」
「あたしが大事にしていたお人形さんの名前」
「……本当ですか」
 氷川先輩はこくりと頷いた。
「アパートに引っ越した時になくしてしまったのよ。それまではずっと大事に持っていた。あたしがまだ赤ちゃんだった頃にプレゼントされたお人形さん。どうしてそのお人形さんだったか、分からないけれど、父と母が誕生日にくれたの。まだ言葉も話せなかった頃から、あたし、その子と遊んでいたわ。綺麗な青いリボンを着けていたから、アオイって名付けた」
「あたしね、その子にだけは何でも話したわ。友達や先生、それをくれた父や母にだって言えないことを、みんな話したわ。アオイだけがあたしの話を聞いてくれたから。その内ね、アオイが頷いたり、瞬きしたりするようになった。あたし、そのことをちっとも不思議に思ったりしなかった。相槌を打つ声だってちゃんと聴こえるんですもの。何かかなしいことや困ったことがあったときは、いつでもアオイに心の中で話し掛けたわ。そうしたらね、アオイはいつでもそこにいてくれるのよ。何にも言わずに、あたしのことを見ていてくれるのよ。あたしね、それだけでけっこう救われるような気がしたな」
 おれは先輩の話に黙って耳を傾けていた。先輩の話が正しいとするなら、アオイは実在しない女の子、ということになる。だったら小野はどうだろう? 柄一やおれだって、どこから来たのか分からない。先輩だってそうだ。
「トム。あんた何か考え事してる?」
「してませんよ」
「いや、あんたはそういうときに黙っちゃう癖があるんだ」
「先輩は考えないんですか。こんなところにいて」
「心配しなくても、あんたは帰れるわ」
「え?」
「あんたがその気になればね。それより、小野ちゃんには会った?」
「小野? 何で先輩が小野のことを知っているんですか?」
「あんたのことを追いかけてきたからよ。あたし、あの子と話したのよ。いい子だったな。あんたをここから連れ戻そうとしていたわ」
「でも、小野はおれにはそんな風に言いませんでしたよ。口だってろくに利かなかったし、わけも話さなかったし、帰り方だって教えてくれなかった」
「口を利かなかったのはあなただし、わけを話さなかったのはあなたよ」
 先輩は膝の上で脚を組んで、流し目をしている。なぜだか知りたい? と先輩は言った。おれは頷く。
「あの子は本来、あっち側から来た子なのよ。この世界への入り口をたまたま見つけちゃったんだ。あんたのことを熱心に探すあまりね。でもあんたには会えなかった。こればっかりは仕方ないわ。あんたをここまで連れ込んだのはあたしだしね。あたしにしか、あんたをここから返せないって、小野ちゃんは分かってたのよ」
 だから手を引いたんだわ、と先輩は言った。おれは先輩の言葉をうまく呑み込むことができずに明後日の方を向いていた。いつの間にか蝉の声が鳴き止んでいた。時計盤の長針がぐるぐると回り続けていた。外の景色は夜明けのままで、逆さまの街にひと気はなく、列車が動く気配はまだなかった。
「戻らない、って言ったらどうします?」
「戻れ、って言うわ。力一杯、あんたの耳元で叫んであげるわ」
「おれ、たぶん、元の駅に戻るのが怖いんです」
 先輩はおれの肩を揺すり、正面を向けさせた。瞳にピントが合う。アオイと同じ瞳だ。あの燃えるような眼差し。滑らかな絹のような手が、おれの両手を包んでいる。その指先は氷のように冷たくて思わず息を詰めた。
「あんたはね、いつだって考えすぎるの。眼を醒ましてごらんなさい。こんなものはただの夢よ。何の意味もない夢よ。気が付いた頃に、あたしたちはあたしたちのことを忘れるわ。一緒にいる間なんて、ただの一時よ。あたしたちはさよならを言うためにここにいるの。あんたには帰る場所があるわ。あたしにはないけど、あんたにはあるわ。そこがどんなに悪い夢のように見えたとしても、眼が開く内に、あんたはそれを見ておかなくちゃいけないんだ。あたしたちが見る夢の意味は、いつも分からないわ。だってそれは最初からあたしたちが分かる言葉で書かれていないもの。ねえ、正解なんてないの。意味はあったとしても、それはあたしたちには分からないの。この世界を解くことなんてできないわ。それでいいのよ。あんたはあんたの線路の上を走ればいいの。どこまでだって続くわ。だってこの線路は途切れないもの、廻っているもの。一度会ったなら、あたしたちは何度でも会うわ。たとえいまは会えなくても、いつかは巡り会うわ」 
 先輩はどうするんですか、とおれは言った。氷川先輩はそれには答えなかった。列車は警笛を鳴らしている。出発の合図だろうか。あたし、ここで降りるわ、と氷川先輩は言った。
 じゃあね。
 おれは耐えきれず、氷川先輩をつかまえようと腕を伸ばしたが、先輩はまるでそれを最初から分かっていたかのようにひらりとかわして行ってしまった。おれの手は空をつかみ、発車音が鳴った。氷川先輩はわずかな間隙をすり抜けて、扉の向こう側に立っている。おれは閉じていく扉の窓を叩きつけた。先輩が何かを喋っている。座席のブラインドを上げ、わずかな窓の隙間から顔を出して先輩の声を聴いた。おれはひと言も聞き漏らさぬよう、必死に耳を傾けた。先輩はおれに向かって喋り続けている。
──あんたは、踏み留まりなさい。
 運転席から見える信号機が青になる。列車は動き出し、転轍機によって路線が変更された。列車は左側から右側へと大きく舵を取り、「辺奈」駅を出発した。おれはただホームの先端で手を振り続けている先輩の姿を見ていることしかできなかった。列車は旋回しながら上昇し、宙に穴を開けたトンネルを潜っていった。もう逆さまの街は見えなかった。

列車は無人のコンコースに停車した。おれは立ち入り禁止の札をまたいで駅のホームに降りた。「EXIT」と書かれた非常口のネオンが点滅している。階段を上ると改札口が見えた。おれはポケットにしまっていた乗車券を通す。ゲートが開いた。辺りには誰もいない。改札を抜けた瞬間に、おれは蝉の声を聞いた。

目の前で黄色い雨が降った。おれは向日葵の花弁が散っていくのをただ眺めていた。緑のラインが入った列車がホームを過ぎ去っていく。抱えていた花束の包みから向日葵の茎が折れ、二本の向日葵が線路の砂利の上に落ちた。
──間もなく、一番線のホームに電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください。
 ああ、あの光だ、とおれは思った。この列車にあの人は轢かれたのだ。八月四日の十二時九分に。ホームに作業員が置いていった、奇妙な石につまずいて。

──先輩、おれ、分からないんですよ。どうしてここに立っていなくちゃならないのか、分からないんです。あの列車がやって来る度に、いつも足がすくむんです。音や光も駄目です。ただ見ていることしかできないんです。おれ、いつまでここに踏みとどまっていられるか、分かりません。いつか線の向こう側へ行っちまう日のことを考えます。おれはただの臆病な獣でした。ここに立っているだけで息が詰まりそうなんです。誰にも寄りかからずにひとは生きていけるものですか。
 花束なんか、忘れちまえばよかったですね。向日葵の花が咲かなければよかったですね。そうすればおれたちはまだホームのベンチに腰掛けて、くだらない話でもしていたかもしれませんね。

「ばか」と後ろで声がした。振り向くとそこには小野が立っていた。線から半歩はみだしたおれの背後を回送列車が通過していった。突風で向日葵の包みが飛んでいった。向かいのホームで競馬新聞をホームに落とした男が喚いている。足元に落ちたたった一本の花束を小野が拾った。
「やっと気が付いたわね。あんたまで落っこちてどうすんのよ。もう線路を覗き込むのはよしなさい。向日葵はここにあるわ」
「なあ、小野」
「何?」
「あそこに落ちた向日葵と、ここにある向日葵に、違いってあるのかな」
「何? 何の話?」
「何でもない」おれは首を振った。
 小野は線路と手元にある花を交互に見比べている。
「ないわ。そんなもの、ないわ。みんな同じ向日葵よ」
「でもさ、あそこに落ちている花は、いま君が持っている花でもよかったわけだろ? 何の違いもないのに、あっちは茎ごと折れちまって、こっちのは綺麗に咲いたままだ。あの花が落ちていくことは最初から決まっていたのかな。おれが花屋からあの順番で花を買ったときに、あるいは種が芽吹いた瞬間に、もしかしたらそのずっと前から、あの花が落ちていくことは決まっていたのかな」
「決まっていたら、あんたはどうするの」
「別に。どうもしない」
「ならそれでいいんじゃない。決まっていても、決まっていなかったとしても、あたしたちはどの道、ここにしかいられないわ」
「線路の下に落ちたとしても同じことを言える?」
「でも、あんたもあたしも、まだ落ちてないわ。それは確かよ」   
「おれたちはどこへも行けないな」
「そうよ。どこにも行けないわ」
 同じところを廻りつづけるのよ、と小野は言った。
──間もなく、一番線に列車が参ります。十二時九分発、新宿方面行き……。
「小野、あのさあ」
 小野は首を傾げてこちらを見ている。
「おれ、挨拶してくるよ。先輩に」
「うん。行っといで」
 おれは小野から向日葵の花を受け取った。ホームの先頭に近付く度に、あの日の記憶が蘇った。もしあの日、奇妙な石が置かれていなかったら。待ち合わせの時刻にちゃんと着いていたら。おれが花束を忘れなかったら。
 通り過ぎていく列車とは入れ違いにホームの先頭を目指した。通過していく窓に向日葵を持ったもうひとりの自分の影が映っている。その額から「〆」の模様はインクが溶けるように消え去っていた。ホームに降り立った乗客達はみな一様に大きな目を開いて、向日葵を持ったおれをじっと覗き見たり、後ろ指をさしたり、うすら笑いを浮かべたりした。おれは青いリボンを巻いた包みを、ぎゅっと握りしめて、氷川先輩が最後に話した言葉を思い返した。
 ──どうしてあの日、ホームでつまずいたりなんかしたのか、あたしには分からないわ。死にたいと思っていたことは確かだけど、同時に死にたくないとも思っていた。でもね、トム。これだけは分かって。人間の生き死になんてひとが選べるようなものじゃないわ。君があたしと待ち合わせをしなかったら、死なずに済んだかもしれない。君はそう思っているわね? 可能性の話なんてどうでもいいの。あたしは死んだし、そうじゃなくてもいつかは死んだわ。あたしね、運命論者なの。あのホームであたしが死んだなら、あなたに会うずっと前からその日に死ぬことは決まってたって思うの。あたしが死ぬのはあんたのせいじゃないわ。あたしの運命のせいだわ。だから、あんたは走って行きなさい。未来が決まっていたとしても走って行きなさい。誰かの人生が美しいって思うのはね、人間が終わりに向かっていく生き物だからよ。神様にその美しさはきっと分からないわ。辛くなったときには思い出しなさい。またいつかあたしたちは会うわ。きっと会うわ。あんたがいまの線路を走り終わったあとでね。

 ホームの柵に立て掛けた一本の向日葵が揺れていた。夏の木立の中へ消えていく線路の先を、おれはずっと目で追いかけた。

(了)

もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。