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ポメラ日記89日目 知らない街で本を読むこと

知らない街へ移動しつづける

 休日なので、電車に乗って、いつも住んでいる街と違う街で降りた。秋だからお出かけをするにはちょうどいい季節だった。新しいアパートに引っ越して気が付いたことは、僕はたぶんいつまでも同じところに留まっていられない性分なんだろうということだった。とにかく意味はなくても、外に出て歩く、移動し続けることそのものが、自分の精神状態を保つために合っていた。

 気晴らしに書店に入る。僕は知らない街に行くと、とりあえず書店に行く。とくにいま欲しい本がなくても、書店の看板の下をくぐる。いつもはじめに海外文学の棚の前に行く。それから文芸書の新刊を見て、文房具やブックカバーのある棚を一回りする。

 新潮文庫の棚を見ると、何となく背表紙で気になるタイトルがあった。ポール・オースターの「ガラスの街」。本を読みはじめるときは、裏表紙のあらすじは読まずに一文目を読む。気に入らなかったら、そこで頁を閉じて棚に戻す。

 大抵、そんな同じ動作を繰り返しながら、手当たり次第に本を変えていくのだけど、このオースターの文章を読んだときは、止まらなかった。そのまま十分くらい棚の前にいて、立ち読みをし続けた。

 はじめに気に入ったのは、ミステリー作家とおぼしきクインという主人公が、街中を歩き続ける描写だ。

 動くこと、それが何より肝要だった。片足をもう一方の足の前に出すことによって、自分の体の流れについて行くことができる。あてもなくさまようことによって、すべての場所は等価になり、自分がどこにいるかはもはや問題でなくなった。散歩がうまく行ったときは、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった──どこにもいないこと。

「ガラスの街」ポール・オースター著 柴田元幸訳 新潮文庫(2009) p.7より引用

 柴田元幸さんの訳だから安心して読めたというのもある。それと、自分がたまたま休日でどこにも行く当てがなくて公園までぶらぶら散歩していた、そのときの気分にしっくりときた。たまにそういう衝動的な理由で、本を買ったりする。文庫本だから、ワンコインと少しが財布から出て行くだけだ。

 本を買って、書店を出た。どこか座って本を読める場所がないか探していたが、休日のカフェは満席でどこにも座るところがなかった。閑散としている方の路地を進むと、ショッピングモールの外れに、誰も座っていないベンチを見つけた。そこでじっとしたまま、時計の針も気にしないで読み進めていた。

 この話は、主人公の作家のクインのもとに一本の謎の電話が掛かってくるところからはじまる。電話の主は、通話相手のクインのことを「ポール・オースター」だと勘違いしていて、自分が殺されそうになっているから助けてくれ、という主旨を話す。

 物語のなかに著者そのものの名前が出てくるのは、メタフィクションのようでいまのところ仕掛けが分からないまま、読み進めている。ただオースターのこの書き方にはちょっとヒントを貰ったところがある。

 小説を読むとき、読者はいつも必ずストーリーや筋を読んでいるわけではない。解釈しようとする人は言葉の意味や語っている内容こそが重要だと言ったりするかもしれない。でも、読む人の前に最初に入ってくるのはそこじゃない。極端な話、物語のなかで語られることに到底納得できなかったり、受け容れがたいことが起こっていても、べつにかまわない。それよりもこの言い方が素晴らしい、文章の流れがすっと入ってくる、読んでいて心地よい、そういう表現がある。

 そんな表現に出会ってしまったら、解釈はいらない。物語の意味とか理屈とかでは説明のつかないものが書けたら、それが文学だと僕は思っている。意味よりも前に先立つものを書けなかったら、書く意味なんてないような気がする。先に言葉がやってきて、意味はあとから付いてくる。

ポメラDM250のアップデートの話のつづき

 昨日話したポメラのアップデートの件で、少し進展があった。つい最近、ポメラDM250のアップデートが来たのだけど、バージョン1.1からバージョン1.2にアップロードするときに、ちょっとした手違い(?)のようなものがあった。

 一応、公式の手順では、ポメラのバージョン1.2のファイルをダウンロードし、PCリンクでファイルを移して、バージョンアップを実行すると、アップデートができる手はずになっている。

 でも、僕の環境では1.2にバージョンアップするときに、以前のプログラムファイル(ver1.1)が残っていると、1.2にアップロードできない現象に出くわした。

 ポメラDM250bot(@DM200_bot)さんとリプライで話していたときに、僕が使っている個体だけではなく、他の機種でも起こりうることを確認してもらったので、どういうことだろう? という話になった。

 とりあえず、僕の対処法としては、競合するバージョン1.1のバージョンアップファイルを消去して、1.2のものだけをポメラのSDカードに残しておくことで、きちんと認識することができたので、対処方法として共有しておきたい。

書店に立ち寄ってカポーティの本を買い足した話

 今日も知らない街に行った。最近は、電車に乗って近郊を移動している。僕の住んでいるアパートの近辺で、じっくり文章を書いて落ち着ける店があまりないので、隣町まで移動したりする。

 今日はイオンモールにいて、未来屋書店(イオン系列の書店)に立ち寄った。いつの間にかレジが無人レジになっていて、お客さんがバーコードで本のISBNを読み取って、会計していた。本のカバーや袋詰めまですべてセルフサービスのお店に変わっていたので、ちょっと驚きがあった。と同時に、書店員さんにカバーを掛けて貰う機会がないのも、何だか少し寂しい気もする。

 書店に行くと海外文庫の棚に行くのだけど、店によって充実度合いがまったく違う。国内の文芸書などの品揃えは、どの店もしっかりスタンダードなものが置かれているけれど、海外文学の新刊に関しては、書店によって扱う冊数がまったく違ったりする。一番ひどいときは棚に五、六冊ほどしか差していないこともある。

 今日、立ち寄ったお店はとくに新潮文庫の海外文学の枠がよく揃っていて、しばらく立ち止まって見たなかでカポーティの「ここから世界がはじまる」の文庫が目に止まった。

 四年前に新刊で出たときに単行本を1冊買っているんだけど、引っ越し先には持ってきていないので、文庫を買っておこうと思った。

 大抵、十分くらい立ち読みで読む。直観で必要だと思ったら買うようにしている。本に関しては財布の紐がゆるい。

 この本はカポーティの初期短編集で、カポーティがグリニッジ高校にいた時代からデビューする前後までの短編を扱っている。

 大抵の作家がデビューする頃といえば、二十代後半~三十代前後といったところだろうけれど、早熟と言われたカポーティは二十一歳で誰もがその文才を認めてしまうほどの小説を書くことができた。

 だからこれはカポーティが十代後半から二十代前半までに書いた「習作」に当たる。

 「習作」と言ったって、カポーティが書いた習作なので、十代でこんなの書けんの? とやっぱり思ってしまう。

若き日のカポーティが書いた「ヒルダ」にホリーの面影が重なる

 僕が立ち読みしていたところは「ヒルダ」という短編で、クラスでも優等生の大人しい女子学生が、なぜか校長先生に呼び出されるシーンからはじまる。

 学生の頃、先生に呼び出されるときの緊張感(何か悪いことでもした?)、校長室に入るまでの空想(校長先生はきっと勘違いをしているんだ)、突然の理不尽な言いがかり(さて、ヒルダはなぜ怒られなくてはならないのか?)。

 緊張したヒルダの息づかいまでが聞こえるような気がする、呼び出された彼女は校長からの質問に答える。「きみがいま一番興味のあることは何か?」「はあ、まだはっきりしていないんですが女優になりたいと思ったことはあります、演劇にはずっと興味を持ってまして」

 女優になりたいと思ったことはあります……。ヒルダの台詞も言葉の意味も、校長室から駆けだした理由も、読み終わる頃に分かるようになる。二回読むとなおいい。

 思い浮かぶのは、彼女が校長室でしかられながら、「むかついてたまらなかった」という、ひとりの女の子の叫びだ。いまここにあるすべてのものにノーを突きつけ、そのまま遠くへ、どこまでも行ってしまいそうな疾走。

 ヒルダにはどこかホリー・ゴライトリーの面影が見えるような気がする。ホリーも何もかもがいやになる「アカ」が見えていた。だからホリーはティファニーのある五番街までタクシーを走らせた。二人とも何かを演じているのだ。ヒルダは優等生の仮面を、ホリーは社交界の女優の仮面を。彼女たちはみんな騙してしまう、下手をすると読者さえもたやすく。

 彼女たちのほんとうの姿に気付く頃には物語は終わっている。見破るためには、言葉ではなく、行動に目を向けなければならない。なぜって彼女たちは女優だから──ヒルダの瞳は何を捉えていたか?

 2024/11/06

 kazuma


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