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ポメラ日記69日目 喫茶店で小説を書いた話

 このあいだの週末、喫茶店に立ち寄った。珍しく早起きした土曜日の朝で、鞄にポメラとノートブック、読みかけの本を入れて出掛けた。

 行き先は、どこにでもあるようなイオンのショッピングセンターで、テナントとしてタリーズが入っているので、僕のお散歩コースになっている。

 小説を書くのはいつも自室で書いているのだけれど、どこかへ行くときは鞄のなかにポケットノートを入れておいたりする。

 べつに実際に読んだり書いたりするわけではなくても、「自分が書いた物語が鞄の中にある」ことが、一種のお守りみたいな作用があり、小説のアイデアを拾いやすくなる気がする。携帯のアンテナが「ばり3」とまでは言わないけど、「1」本は立つイメージだ。

 いつでもノートを開いて原稿の続きに取りかかれるようにしておくと、潜在意識に働きかかるのか、ふとしたタイミングで小説のなかのシーンを妄想していたり、誰かと会話しているタイミングで「これって小説に使えないかな?」と考えたりすることがある。

 実際に出先で小説を書くことはめったにないのだけれど、前の土曜日はたまたまお店が空いていて、テラス席もほとんど人がいなかったので、机の上に持ってきたものをぜんぶ広げてみた。

 喫茶店に寄ると大抵は本を読むか、ポメラでブログの下書きをしたり、書いた原稿を読み直したりしている。

 とくにコーヒーを飲みながら、自分の書いた文章を読み直す時間は好きだったりする。そこにあるのは、いくら下手な小説といっても自分の手で書いたもので、言葉のリズムも行間も自分用にチューニングしてあるわけだから、僕にとっては居心地のよい時間(字間?)になる。

 もちろん日を置いて読み直してみると、書いたときにはこれでいいと思っていた文章が、翌日見るとそうではなかったりする。

 これは読む方の僕自身の目や読み方が変わっていっている証拠でもあって、どの日に読んでも「これでよい」と思えるまで、焦らずに直せばいい。

 喫茶店に話を戻すと、僕は原稿を読み直しながら、「ここで続きを書いてみたらどうだろう?」と思いついた。

 ものは試しにノートを開いてペンを取ってみた。幸い、僕の後ろは植え込みになっていて、誰かが僕の書いた文章を覗き見するような心配はない。

 自室では気兼ねなくぽんと書いてしまう一文目も、外で書くと気恥ずかしさが勝って言葉が出てこない。

 時間にして、二、三分だったと思う。いつもより言葉が出てくるのが遅く感じた。自然に出てくるというよりも、捻り出して書いた。当然、文章は不自然だし、流れもどこかぎこちない。

 でも、外の日差しに照らされて浮かび上がったボールペンのインクの反射が、眩しくて懐かしい感じがした。家のなかでは思いつかなかった文章だった。

 僕がそうやってひとりで喫茶店の隅であたふたと奮闘していると、目の前の通路を通り抜けていく家族連れの姿がある。もちろん彼らは休日に買い物に来ているわけで、お客さんは途切れることなく自動ドアの入り口に吸い込まれていく。

 僕は手元にある書いた文章と、通り過ぎていく人の流れを見比べながら、「もし自分が書いたこの文章を道行くひとに読ませるとしたらどうだろう?」と考えた。

 小説では「読者の目を意識して」「作者の独り善がりにならないように」と作品を読んだ人に色んなところで言われた。何度書いても、僕の書いた小説は人にちゃんと届いていない気がした。

 ブログやライティングでそういう風に感じたことは一度もないけれど、小説だけはずっとそれを感じている。書き方が悪いのは分かっていた。

 その原因は、僕のなかに「他人の目線(客観的な視点)」をうまく取り込めないところにあるのかもしれない、という仮説を立てている。

 書店に並んでいるような本の文章に好き嫌いがあったとしても、その文章の意味が取れなかったり、主客がごちゃまぜになっている文章というのは基本的にない(故意にやっているものを除けば)。

 本のなかに一本の線があるとしたら、それが曲がったり、変わった形を描くことがあっても、必ず筋は通っている。

 ある一箇所だけを切り取って分からないときも、全体を通して一冊の本を読み通せば、何かそこに残るものがある。つながりも脈略もないように見えた箇所にも、何の意味なく置かれた文章はない。

 僕の場合は、たぶん自分のなかに「読み手(他人)の目」がないことが致命的になっている気がする。ヘンな言い方だけど、自分の中でしか通じないような表現を小説のなかでときどきしてしまう。

 これは現実の僕のものの見方とも対応しているところがあって、他者と自分の線引きがうまくいっていないのだと思う。

 僕は在宅のライターで人付き合いはしない方だし、友人もほとんどいない。ずっと白い壁に向かってタイプしながら長い時間を過ごす。

 でも、完全にひとりで過ごし続けて小説が書けるかどうか、僕には確信は持てない。どうしてかというと、小説はやっぱり人間のことを書くし、人間のことを書かない小説は存在しないからだ。

 昔の小説の知り合いで、「小説で延々と自然の風景だけを描写したい」という面白いことを言った友人がいたけれど、彼が小説を書き上げたところを僕は聞かなかった。

 晩年のサリンジャーやヘンリー・ダーガーが閉じた生活を送りながら、作品を作っていたことはよく知られている。

 もし仮に、僕の中から「他者の目」が完全に消えてしまったとしたら、僕が書くものはすべてアウトサイダー・アートになるだろう。

 そうなると誰かに語りかける必要性もなくなるし、ネット上に文章を公開する意味もなくなる。自分だけの楽しみとしてひとりで書いて、ひとりで読んでいればいいからだ。

 でもそういう風に言葉を使うのは、誰かに伝わることを諦めた表現にならざるを得ない。

 数学のような世界であれば、誰にも会わなくてもひとりでぽんと公式を思いつく天才がどこかにいるかもしれない。

 でも、言葉っていうのは本来、自分に向けて使うものじゃない。その使い方はできないわけではないけれど、おそらく代償が伴う。言葉が駄目になっていく。

 それに「自分の想像したものを再現できる装置」として言葉を使うなら、それが文字である必要はなくて、べつに絵だったり、写真だったり、スクラップブックみたいなものでいい。

 ヘンリー・ダーガーが作品に使うために廃品を集めていたり、自分にしか分からない挿絵を加えているのも、そちらの方が「自分が使うためには」都合がよかったからじゃないのか?

 アウトサイダー・アートの小説が存在しない(正確には存在するが、健常者には理解されない、あるいは理解の範疇を超えているためにまったく読まれない)のは、そもそも言語というものの成り立ちが、「誰かに語りかけて」「通じ合う」コミュニケーションのために生まれたもので、完全に意味が通じない文字は「物体」としては存在しうるけれど、それが広く読まれる作品としての価値を持つことはない。

 つまり、小説にたったひとつのルールがあるとしたら、それは「読み手に語りかけるものであること」だと思う。

 書き手のなかに、読み手の目がないと小説は書けない。書き手と読み手の目がどこかで合わなくてはいけない。

 喫茶店で小説を書いたとき、僕の目の前にあったのは「壁」ではなく、「通りすがりの見知らぬひと」で、そんなひとが本を手に取って読むときに、どんな表情を浮かべるだろうと想像してみると、途端に自分の書いたものがつまらなくなった。 

 どうすれば彼らに立ち止まって話を聞いて貰えるだろう。どうすれば見えない壁を破れるのだろう。そういうところから、小説を出発させないと、何にもならないんじゃないか。

 自分にしか通じない表現は浅い、誰かに伝わる表現はもっと深いところにある。

 2024/04/23 21:07

 kazuma

もの書きの余談:

最近は、タリーズの喫茶店に通っています。マンハッタン・ポーテージとコラボしたタンブラーやダブルウォールのグラスが並んでいて思わず買ってしまった。この前はハリー・ポッターとコラボしていたし、そういうコーヒーグッズを集める楽しみもある。

そう言えば、noteで「創作大賞2024」の公募がはじまったみたいです。夏までに今の作品が出来上がるかは分からないけれど、一応、準備ははじめておこうと思う。

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