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Never Understand

「伝えることが上手いデザイナーの方が、やはりよいですよね」と、学生から尋ねられた。
質問の裏側にあったのはこんな事柄だ。

インターンに参加してみたら、周りの学生の積極性に驚き、萎縮してしまった。その後のフィードバック面談においても、「言語化力や提案力がもう少しあると良いね」という指摘があったという。
そうね、まあ、やっぱほら、デザインって形のないものを形にするようなこともあるわけだから、伝えることが上手いというのは大きな価値になるよね、というような、誰にでも言えるような取り留めのない回答をしたと思う。その後に本人からぽろりとこぼれたのが、「自分は当事者のことを理解することができるデザイナーでありたい」ということばだった。

思い出したのは、昨年度のとある大学の卒業展示で見た作品のことである。地方でのフィールドワーク、いわゆる地域の中でデザイナーが何か価値を発揮できないか───例えば外部の目線で観光資源を見つけてブランディングするというような───ということを検討する過程をまとめたフィールドノートを含む研究だったのだが、制作者が最後に辿り着いたのは、「(少なくともこのタイミングでは)何かつくるということをしない」というような結論だった。
(実感として)外的な存在としての自分が、地域のコミュニティをかき回すことに違和感を覚えた、というようなことをギャラリーでお話されていたと思う。卒業制作のため、とそこで何かそれらしいソリューションを提案することすら、手が止まる瞬間があったのだろう。それで、その目で見たままをカメラに押さえ、丁寧なテキストでフィールドノートを綴ることに留めたのだという。

理解をする、ということは多大な労力が要ることである。そしておそらく、“完璧な理解”というものは、いかなる概念や現象においても原理的には不可能なものであるかなと思う。
デザイナーとして仕事や案件に関わる人々は、それでもおそらく理解の上に立つような策や解を形にすることを強いられることも多いだろう。先の卒展作品の態度から見習うべきことは多いが、それは地域資源を観光資源に変換する仕事への批判には必ずしも当たらない。
ただ、ただでさえ困難な”理解”のためのフェーズを、自分はデザイナーとして大切にしたいという学生の声にははっとさせられる。最初から解を出すこと、形にすることを前提としたコミュニケーションからこぼれ落ちてしまったものの中に、”理解”のための重要な兆しがなかったか。
伝えることの重要性は自明である。だが相対的に理解の重要性を下げていないか。特に、学生に就活指導をする自分が放つ「わかりやすく説明しよう」という言葉の裏側には、私を含む誰もが理解できるように説明しろ、というエゴイスティックなスタンスが潜んでいなかったか。

そうか、そうだよな、理解か~、なるほどな~う~んなるほどな~、そうだよな~…と唸りながら上のようなことを考えていると、Zoomに沈黙が流れた。学生が苦笑する声がイヤホンから聞こえ、すみません、とこちらの発話を促すようなことばがあった。精進が必要である。

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