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In Focus?

電車の中で隣り合わせた人が、分厚い本の残り数ページに差し掛かっているのを見かけた。決してまじまじと観察していたのではない。食い入るような姿勢で読んでいるのがぼんやりと目に入り、それが少々異様な気迫だったのである。少しだけ、ほんの少しだけ観察したら、残り数ミリで本が終わるのがわかった。
やはり小説、それもミステリ小説などの類だろうか。犯人、あるいは驚くべき犯人の動機が明かされつつあるのかもしれない。あるいは世界の謎が解き明かされ、かみさまは実在するがつくりもので、種も仕掛けもあって、恋人は実はタイムリープを繰り返していて、語り手の主人公こそが事件の真犯人かもしれない。

電車が自分の降車駅に着くと、その人も勢いよく席を立った。
リュックを背負った丸い背中は、駅のホームで立ち止まった。追い抜かし、階段に向かって降り返すと同時にその人を見やると、立ったまま本を読んでいた。何となく最後までその姿を眺めたい気持ちがあったが、行き先へ向かった。今も、そのページと全身が渾然一体となったようなその姿が目に焼きついている。夢中で本を読むという行為そのものというか、その身体性のようなものが美しかった。帰って本が読みたくなった。

そういえば昔、翻訳家の柴田元幸さんの朗読会を聴きに行ったとき、会場のカフェで柴田さんが、おそらく翻訳作業をされているのを目にしたことがある。コピーされホチキスで留められた英文のテキストと、原稿用紙かノートだったかを並べていたはずだ。「こういう時間でも翻訳するんだ」と思ったことを覚えている。
その佇まいというか、フォームがかっこよかった。柴田元幸という人はああして読み、テキストを身体に入れていくのだなというようなことを思った。思い出すに、くっきりとした輪郭のある佇まいだった。

本と向き合う姿勢なんてどうだって良いし、そんなこと意識するのも変な話ではあるのだが、時々上手く本が読めないとき、あのフォームを真似しようとしてみることがある。駅のホームで立ち止まっていたあの読み手のフォームも、いずれ真似してみようと思う。形から入ろうとする自分に辟易としないでもないが、本がよりよく読めるようなことがあれば、それは儲け物である。

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