酔い子の遊び
あぶら蝉が暑さをかきたてるように鳴く真夏日。
定時。仕事をいそいそと切り上げると、小走りで酒場へ向かう。体が欲するのは、キンキンに冷えた、黄金色に輝く命の水。
本日のお目当ては、荻窪「煮込みや まる」。
お店に到着し、さっそく「とりあえず、生!」と威勢よく注文しようとした瞬間、目の端に何かを捉えた。
はて、何だろうこれは?
お品書きに書かれているのは、日本酒の銘柄と女優の名前。
「辨天娘(松田聖子) 600円」「竹鶴(樹木希林)600円」……ワケガワカラナイ。
この「辨天娘(松田聖子)」を注文したら、日本酒とセットで聖子ちゃんが付いてくるとでもいうのだろうか?
店の壁が天の岩戸のようにズズズと開き、「ああ〜私の恋は〜南の風に乗って走るわ〜」とまさかのご本人登場?……うん、それも悪くない。
あれだけ乾いていた喉も、すっかり好奇心のやつにやられてしまったらしい。もはや日本酒のお品書きに釘付け。
よし、と覚悟を決め「辨天娘(松田聖子)」を注文。すると、お店の方から「燗酒ですが、よろしいですか?」とまさかの返答。
「真夏に熱燗か…」とは思ったものの、一度火がついた好奇心は止められない。はい、と首を縦にふり、待つこと10分。
お猪口につがれたお酒には、なんら変わった様子はない。それとは裏腹に、さきほどから鼓動が徐々に早まるのがわかる。初デートのような初々しい緊張感を持ちながら、お猪口をやさしく持ち上げる。
ヒタっ。くちびるとお猪口のフチが触れあう。
人肌に温められたお酒を口のなかでゆっくりと揺らしていく。
なるほど。長年解けなかった問題の答えがわかったような嬉しさがこみあげる。
「ああ、間違いない。これは松田聖子だ…」
ほのかな甘味がかわいらしく、それでいて味わいはしっかり。燗にすることで香りが膨らんだせいか、女性的な丸みを感じさせる。
超満員のステージで、愛嬌たっぷりに堂々と歌う松田聖子の姿が目の前にありありと浮かぶ。
頼んでおいた「もつ煮込み」と辨天娘の相性もバツグン。野菜の甘味がとけだした塩味のスープに、じんわり心も身体もほぐされる。
かわいらしい味わいの辨天娘とこってりとしたもつ煮込みが合うのは、彼女の本質がしっかり者だからなのだろう。肉料理にも決して負けない辨天娘。芸能界で長年生き抜いてきたたくましさがある。
この出会いで味をしめた僕は、次から次へと往年の大女優を注文していく。
竹鶴(樹木希林)を飲んでは「これは大御所だ。味わいがどっしりしてやがる」、炭屋弥兵衛(吉永小百合)を飲んでは「爽やかでしっとりしてる…」、生酛のどぶ(泉ピン子)を飲んでは「にごって…いや、味があるねぇ〜」などと、一晩中楽しんだ。
これはイケナイ遊びを知ってしまった。
燗酒を、人で例える楽しさや。これは呑兵衛のためにある、酔い子の遊びだ。
・煮込みや まる
https://retty.me/area/PRE13/ARE12/SUB1205/100000829256/
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