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『世の中が"教えたがり"になったとき』 教えることはAIに出来るが、アドバイスは人にしか出来ない

いまの世の中、オンラインサロンやYouTube、その他SNSのプラットフォームを通じて、「誰かが誰かに何かを教えている様子」を見ない日はありません。過去の世界では「誰かに何かを教える」というのは、ある種限られた人たちの特権だったわけですが、いまでは誰もが「教える」という行為を、不特定多数の人に実施することができるようになりました。いいことなのか、悪いことなのか。その周辺について考察してみたいと思います。


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教えられること

世の中には大きく分けて、教えられるのが嫌いな人と、好きな人がいると思っています。ゴルファーの松山英樹が「教えられたくない」とコーチをつけていない(今はどうなんでしょうわかりません)ことや、元陸上選手の為末大さんも同じような理由でコーチをつけていなかったということを聞いて、団体競技出身である僕は結構衝撃でした。サッカーで「コーチをつけたくない」なんてあり得ず、すでにそこにいますから、そんな発想すらなかったです。

僕は、人に教えられるのがすごく苦手なので、もし個人競技をやっていたら松山さんや為末さんのように、コーチをつけずに、自分で考えながら競技をしていたかもしれません。

そんなこともあるので、人々が教えたがりになった世の中には、少し生きづらさのようなものを持っていますが(男性が女性に上から説明したがることをマンスプレイニングといいますが、あれ地獄ですよね)、ここからは教えられるのが苦手な人間(そっちよりの人間)の意見だと思って、読んでくれれば幸いです。


「教えてもらうこと」と「アドバイスを受けること」

前提の話をします。「教えてもらうこと」と「アドバイスをもらうこと」は圧倒的に異なります。僕の中で2つの定義は以下です。

教えてもらう:与える側がプログラムしたものを受け取る(テーマは広くなる)
アドバイスをもらう:受け取る側が必要な情報だけを受け取る(テーマは狭くなる)

つまり「教わる」という行為は受動的になる可能性を秘めている一方、「アドバイスをもらう」という行為は能動的になる可能性を秘めている、と言えます。私はアドバイスはよく求めます。その行為が、人と議論をしたり、どこかに足を運んだり、本を読んだりする行為に当たります。

私は「読書をする行為」は「アドバイスをもらう」ことと同義だと考えているので、読みまくります。時間的空間的に会って話を聞くことができない人から、アドバイスをもらう行為です。自分が必要だと思った情報だけを受け取るわけですし、自分でお金を出して購入するわけですし、テーマは一冊の本で広くはなりません。

ただ、例えばAさんがBさんに対して「この本とこの本とこの本を読んでね」と言った瞬間に、それはAさん(与える側)がプログラムしたことになりますので、「教える」という行為になります。この違いをもっとハッキリ考えると、例えばamazonで本を購入するとオススメの本が出てきます。AIが作ったプログラムです。もし、オススメに出てくるものだけを読んでいる場合は「AIに教えてもらっている」ということになります。

教える:AIにも出来る
アドバイスする:人間にしか出来ない

「教える」のは、プログラムを組み、それに準じて受け取る側に情報を伝えていけば良いのですから機械にも出来ます。つまり「洗脳」も簡単に出来ます。ただ「アドバイスをする」というのは、(それが事前にプログラムされた“アドバイス”でない限り)人間にしか出来得ません。文脈や、感情や、その他あらゆるものを考慮して行われるのがアドバイスだからです。


なぜ人は教えたがるか

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