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環境に向き合うか、気にせずに生きるか

サッカーのような分野に身を置こうものなら、そりゃそうなのだけれども、世界を意識せざるを得なくなる。世界中で行われているものだし、その中心は残念ながら自分がいる場所にはない。このことに向き合うか、それとも気にせずに生きるのか、そういう選択に迫られる。

30歳手前になって、これからの人生を考えるとき、自分にとっては人生を考えること=サッカーを考えることであるし、自分の職業を考えることもであるのだけれど、例えば次の20年間、自分はサッカーというゲームにどうやって向き合っていくべきなのかを、考える。20代は「自分でサッカーを考えたい」という明らかな欲があった。だから人の言うことやヨーロッパで言われていることを疑い続けた。これから、長いサッカー人生、自分はどうするべきなのだろうか。一体何が知りたくて、何を表現したくて、何に憧れるのか。


環境

トゥヘルのコーチングキャリアについて書かれた本を読んだ。改めて思ったことは、住んでいる世界が違う、というなんの変哲もないこと。近年は特に目立っているドイツ人の監督たちだけど、トゥヘル然り、ナーゲルスマン然り、あるいはマティアス・ヤイスレ(Red Bull Salzburg)然り、みんな怪我で選手キャリアを終えたあと、周りの優秀なコーチたちからコーチとしての才能を見込まれ、コーチングキャリアをスタートさせている。つまり「そういう環境」にいる。当たり前だけど、自分たちと比較するとそこには雲泥の差がある。彼らはプロ選手としてのキャリアこそないけれど、選手時代には間違いなくアカデミックにサッカーを学んで(プレーし)、"プロフェッショナル"が身近な環境でサッカーを突き詰めていたはずだ。つまり彼らの「知識の蓄積」は、選手時代から当然のように始まっている。日本は、いまだにそれとは程遠い。だからなんだと思うかもしれないけど、その環境の違いは、絶望的な差を生む。

アルゼンチンに行った3年間は、安っぽい言葉になってしまうけど、置かれている環境の違いを痛感したことは言うまでもない。欧州でサッカーと触れるのとはまた違う刺激だと思う。南米は、選手やコーチや、その他サッカーに従事する人々の目に見えない部分が、自分が生まれ育った場所とは、まるで違う。違い過ぎた。

人間は、環境がつくる。自分が「サッカーの世界」において「蚊帳の外」にいることを認めるのは、結構辛い作業でもある。一方で、それは無限にある可能性を示唆するようにも見えて、自分にとっては生きる希望だったりする。

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