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『フットボールへの絶望』|2020

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この写真は、2018年ロシアW杯で、アルゼンチン代表が大会から姿を消した瞬間に、僕がこの手で撮ったものだ。悲しみに暮れる国民たちの中に、立つことさえ難しそうな表情で、その場から動けずにいる彼を、僕は忘れることが出来なかった。

嘘でこんな顔をすることはできないだろうなと、そう思う。魂が抜けたような、過去を必死に遡るような、未来に折り合いをつけようとするような、そんな表情。

フットボールにおいて、人は時に、絶望する。僕らは一体、その時に、何を思えば良いのだろうか。


今日、5月16日、ドイツにフットボールが戻ってきた。ウィルスとの戦いと時を同じくして、一足先に前へ進むことを選択した彼らは、あらゆる不安や恐怖を閉じ込め、キックオフの笛を鳴らすことを決意した。

渇望。この言葉が相応しいと思う。サッカーのない人生を送ってから数ヶ月。僕はこの日を渇望していたと思う。渇望していたはずだった、と思う。フットボールという非日常がある日常を、多くのファンと同じように、僕は待っていたはずだった。

アルゼンチン時間、午前10:30。僕は渇望のあまり、1時間前からテレビの前に張り付き、“あの”、これまで感じていた「ゲームが始まる前の高揚」を、いつもより多めに味わった。だからこそ、ゲームが始まり、時間が進むに連れて、僕はフットボールへの絶望を無視できなかったのだ。

観客のいないフットボールには、興味がない。僕は常々そう言ってきた。観客こそが、フットボールだと。一方で、自分がフットボールを愛している理由を、すべて観客に依存させてしまうことに、なにかしらの恐怖のようなものを感じていたのも、また確かだった。

その恐怖の正体は、今日明らかになったように思う。僕は、渇望していたフットボールを観ても、心が動かなかったのだ。

玄人といえば良いだろうか。僕は人生の大半をかけてサッカーを学んでいて、専門性をもち、それを生業にしようとしている。だからこそ「渇望していたゲームで、心が動かない」という事実は、僕に深い絶望感を与えたのだと思う。やっぱり、観客がすべてじゃないか、と。

残念だけれど、僕は、あれがフットボールだとは、思えなかった。

過去にも「無観客試合」というものを観たことがあると思う。第一、これまで選手として、または指導者としてゲームをするときは、観客がいないこともしばしばあったし、僕はそのニオイを知っているはずだった。それなのに、今日僕がフットボールに絶望したのは、これから先、“フットボール”が戻ってくることがないかもしれない、少なくとも数年間は、僕が愛しているフットボールに触ることは出来ないのかもしれないという、終わりの見えない、深い悲しみによるものだったと思う。

家から出られない間、この日を、この日だけを待っていたはずなのに。


・・・


写真に映る彼を思い出した。フットボールへの絶望をおぼえると、人はああいう表情をする。でも今僕(ら)が感じている絶望は、アルゼンチン代表の敗退からくるそれよりも、もう少し複雑なような気がしている。

もちろん、やる。やるよ。今できることをやる。オンラインでもなんでも、無観客でもなんでも、やらなければいけないことくらい、わかっている。

ただ僕は、フットボールのニオイを嗅ぎつけて、人々が集い、感情を共有し、他では決して味わうことのできない瞬間を全身で浴びることにのみ、フットボールというゲームをみる。それもまた、わかっている。

今日味わった「絶望」は、僕がこれからフットボールと生きていくうえで、もっとも重要な「絶望」であったと思う。試合に負けたときよりも、自分の実力を悟ったときよりも、もっと複雑で、もっと深い「絶望」を、僕は忘れないようにしたい。

フットボールは、これじゃない。

そして僕には、どうすることもできないのだ。

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