言語化とは『言い訳』である
子供の頃、僕は「(字を)書くこと」が好きでした。いろんな人の字を「見て」模倣するのも好きでした。高校生の時「読むこと」が好きになりました。仕事をするようになってからは「話すこと」を避けられなくなりました。
大人になってからは、文章を本格的に公に向けて書くようになり、20歳から続けている手書きの日記は8年の月日を経過し、もちろん仕事関係で、1対1でも1対大勢でも、たくさん話をしています。読書量は、高校生の頃とは比べ物になりません。日本語や英語のフォントを「見る」ことも大好きです。
思えば小さな頃から(意外にも)「言語」というものとは向き合ってきたのかもしれません。書く、読む、話す、見る。気が付いたら、それが日本語だけではなく、英語やスペイン語でもある程度できるようになっていました。ちなみに僕は「書く」「読む」なら日本語が圧倒的に美しくて大好きですが、「話す」や「見る」に関しては英語やスペイン語がネイティブだったらな〜と、よく思います。
これまで「言語」と人よりも多少濃いめに向き合ってきた僕は、「言語化」という言葉で人に褒めて頂くことが増えました。「言語化」という言葉が流行りだからなのかもしれません。ただ確かにサッカー監督という「他者を介して表現をする者」にとって、言葉を筆頭に、何かしら認識可能な形にしていく作業は、とても大切になります。というより、唯一大切なものだとも言えるかもしれません。
今回は『言語化とは「言い訳」である』という題目で、見解を書いていきたいと思います。
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例えば遅刻をしたとします。ただ、信頼を失いたくありません。ここは「理由を正直に言うことで信頼を失わないようにしよう…」という道徳心溢れる選択肢すら取りたくないほど、あなたは信頼をどうしても失いたくありません。となると「完璧な言い訳」が必要になります。絶対に疑われることのない、聞いた人が「それなら仕方ないか。納得。」と思う言い訳を作り出さなければなりません。
聞こえが悪いかもしれませんが、僕はこれをあらゆる場面でやっています。
注:遅刻はしませんし、時間に関してだけは私生活でもキレます笑
完璧な言い訳を作り出すのは、どのような場面においても難しいことですが、それを「自然に」かつ「説得力をもって」こなすことができる人こそ、言語化に長けている、と僕は思っています。
遅刻という結果が起きたとき、そのプロセスを他者に「納得」させるためには、どうすれば良いか。この場合の「目的」とは「信頼を失わない」ことです。目的を達成するために必要なのは「真実」ではなく「納得」です。人間は、意外にも、真実や事実では動きません。
完璧な言い訳をするためには、与えられた時間の中で(遅刻という結果が出てから言い訳するまでの時間で)、頭をフル回転させなければなりません。情報や知識、過去の出来事や、関連性のある事柄などを、適切に取り出して言語化しなければなりません。
ここからが、大切です。
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整理します。
「遅刻」という「結果」が出た際、「信頼を失わない」という「目的」を達成するために、「物事の道筋」や「そうならざる(せざる)を得なかった理由」を説明し、他者に「納得」してもらう行為を「言い訳」とします。
結果=遅刻
目的=信頼を失わない
必要=納得
行為=言い訳
つまり目的を達成するためには、言い訳が「作り話」であろうが「真実」であろうが、ここでは一切関係ありません。
これが「言語化」と人々が言うことの正体だと、僕は思うのです。
世の中のほとんどのことは、このように「嘘か誠か」がわからない、もしくは極論存在しない(疑う余地が残っている)事柄に対して「言語化」を必要とします。だから、言い訳なのです。
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ここで僕は過去に、あることに気がつきます。言語とは(言語化とは)、それ自体には全く意味がない、ということです。
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