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中動態という概念 〜意思と言語とフットボール〜

先日の井筒先生との会話の中で『責任の生成』という本を紹介してもらい早速読んだところ、その本の中で「中動態」という概念を知り、これはどうやらだいぶ興味深いぞということで、中動態に関する著書を片っぱしから読み漁っているところです。

なぜ自分がこの「中動態」という概念に非常に興味を持ったのかといえば、御多分に洩れずサッカーが関連しているわけですが、この中動態を巡った様々な哲学的考察を読み漁っていると、これまで自分がなかなかしっくりきていなかった領域に進入できている気がして、あるいはそれを考えること自体からあらゆるインスピレーションが湧き、井筒先生大感謝という感じなのですが、この記事内でその「中動態」を説明することを目的とするわけではなく、というより私も漁っている途中ですので簡潔に(サッカーに紐付けて)まとめることは難しく、その「中動態」に関連する“部分”から、自分の経験を踏まえて展開していきたいと思います。


能動態と受動態

とはいえ、いきなり「中動態」と言われて何が何だかわからない状態で読み進めても意味がないので、触りだけ説明してみます。もちろん「中動態」という一言を哲学するくらいですから、それを「定義」することは非常に難しい(みたい)ですが、つまりこういうことです。

私たちが英語を学校で勉強する時に必ず通る「動詞には能動態(〜する)と受動態(〜される)の2種類がある」という“信じきっている事実”に対して、いやいや、能動態にも受動態にも当てはまらないものが世の中にはあるだろう、例えば、確かに自らがした(受動ではない)ことでも、それはあらゆる数の要素に影響を受けて”自らの身体”が行なったことであるから、決して「能動」とは言い切れない、という類のものです。

そういったややこしいものを切り捨てるために形式的に「能動」と「受動」の2種類に分類しているのですが(これは比較的新しい分け方で、ある地点までは違った)、その「受動」にも「能動」にも当てはまらないものが「中動」だということです。

だからなんだ、という方はここで読むのをやめていただいて、なにも英語の文法を理解したいわけではなく、この「中動態」という考え方を掘っていくことによって、「責任」や「意志(意思)」または「言語」などの領域と関連性が出てくるため、非常に興味深いのです。

つまり、受動でも能動でもないということは、誰が責任をとるのか?とか、受動でも能動でもないということは、私たちの行為に伴う「意志」は、どう解釈すれば良いのか、あるいは、言語は私たちの思考とどう連動するのか、などです。

これが、私のサッカーについて考えたいことと非常に強くリンクしていて、私にとっては大切な研究テーマであり哲学対象となります。


言語と思考(他言語で生活したことによって分かったこと)

上記に貼った『中動態の世界』という著書を読んでいる途中ですが、中動態の説明はこの程度にして、同書の中で印象に残っている「言語」に関する記述について、引用しながら考えていきたいと思います。

アルゼンチンに住むことで私は初めてスペイン語で生活をしました。当たり前ですが到着した段階ではほぼ0だったわけなので、話すことができません。つまり伝えることができません。その時に「ああそうか、これまで日本語でしか話していなかったからわからなかったけど、知性とは言葉なのだな」と思ったものでした。簡単にいうと、自分の思考をアウトプットできないために、「今俺すごいバカだと思われているんだろうな」と思った、ということです。つまり、伝える手段としての言葉が浅いので、すなわち思考が浅いと同義になってしまう、ということです。それはきっと、無意識に日本語でも(私にとってのスペイン語とは違う段階で)同じ現象は起きているのだと。

ただ一方で、本当にそうなのか?とも思ったりしていました。自分の思考=出てくる言葉なのか、であれば言葉がなければ思考はないのか、では言葉以上に思考を深めることはできないのか、などなどです。

サッカーというゲームにおける言語化とか言語とか、つまりプレーを言葉でアウトプットすることの「超興味深いテーマ(多分本気で一生研究したら本何冊も書けるテーマ)」と強く関連します。そんなことをしてもゲームの勝敗には関係ないので、誰もやらないわけですが、とにかくサッカーとは関連性が強いテーマです。

同著の中で、それを考えるヒントとなる箇所があったので、理解しきったとは言い難いですが、引用していきます。

言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するのならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。
言語の思考に対する作用は、強い拘束力をもつ場合もあれば、単なる影響の場合もあろうし、もちろん、思考によってその作用がはねつけられる場合もあろう。言語が思考を直接に規定するのではなく、思考の可能性を規定すると言った途端、そうした諸作用の織りなされる場が論理的に要請されることになる。
では、その場とは何か?それは言語が語られ、思考が紡ぎ出されている現実そのもの、すなわち、社会であり歴史に他ならない。「人間の能力」「文化の一般的条件」「社会の組織体制」と結びついたその場をフィールドとして、言語は思考の可能性に作用する。
言語が思考の可能性を規定するという定式は、もともとあった単純な言語決定論(※)に「可能性」という語を組み込んだだけではない。この定式は、言語と思考の関係を考えるうえでの構えそのものの変更を迫る。

くそおもしろいです。※「言語決定論」というのは、「個々人の思考様式は母語によってきわめて強く規定されるという主張」のことで、これを思っている人は多いかと思います。なので、この上記した文章はそれをある種否定するものだということです。

んん、実感としては、母語に思考が規定されるというのはめっちゃわかる一方で、論理的には、否、とも思える。これは、サッカーを言葉で説明するときに、日本語と西洋人が使っている言葉の違いによる、プレーや認知の相違、などのテーマで研究できます。

フットボールスタイリストの鬼木さんがやっていらっしゃることは、ここに通ずると思います(なので鬼木さんが中動態の沼にハマったら抜け出せないと思います笑)。

社会や歴史という場を必要としない言語決定論、すなわち言語が直接に思考を決定づけるという考えは、ソシュール言語学を極度に単純化する形で述べ立てられ、一時期大流行した。それは一言でいえば、言葉があるから現実が認識できるという考えである。

この先が、めっちゃサッカーです。

たとえば、オオカミはイヌと区別されている。しかしオオカミはイヌ科の哺乳類である。われわれがオオカミをイヌと区別できるのは、「オオカミ」という記号があるからであり、もしこの記号がなくなってしまえば両者は区別できないというわけだ。ここから、言語によってこそ世界は分節化されて現れ出るのであり、言語以前の世界は無定形なカオスに過ぎないという大袈裟な結論が導き出された(ここがめちゃサッカーっぽい)。しかしこの手の考え方は、実に簡単な思い違いをしている。
ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを特別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない。認識の必要だけではなく、さまざまな事例ごとにさまざまな事情があるだろう。それは個別に検討してみなければ分からないことである。


サッカーにおける『「必要性」の「必要性」』


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