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東洋医学における日本の進化過程から考えるフットボールの未来

自分が専門的に学んだ学問であること、また西洋思想と東洋思想がわかりやすく異なる形で体系化されていること、を主な理由に僕はこれまで西洋医学と東洋医学をサッカーのフレームに当てはめて考えてきました。

そんなこともあり、これまで記事でその考え方に少し触れてみたり

もしくは軽くTweetしたり(下のは2018年9月(!)に呟いたもので、このあとすぐ知人に紹介してもらったサッカーと東洋医学がわかる非常に優秀な方と出会うことができ、今でも良い関係でいさせてもらっています)

僕のサッカーを考える上で医学は欠かせないもののひとつです。そん中、東洋医学の基礎を学び直しているときに、それまでは知らなかったある事実を知り、それが(日本の)フットボールの未来を考える上で重要なヒントになるのではないかと思ったので、今回はそれについて書いていきたいと思います。おそらくこのヒントは、サッカーやスポーツのみならず、あらゆる分野において価値のあるものだと思います。


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以前紹介した本の中にある『東洋医学のきほん』という本の中に、興味深い記載がありました。少々長くなりますが、引用します。

『この理論(現代に残る中国の医学理論)構築作業は、純粋に医学的な目的だけではなく、当時の共産主義に主導による政治的な圧力を受けながら編集作業が行われている点に留意する必要がありそうです。
共産主義の基本的な考え方のひとつに「唯物論」がありますが、これは事物の本質または原理や法則はすべてが物質や物理現象であると考え、宗教上の神や仏のように観念的・直観的にとらえられる存在や現象は、副次的なものとして排除するか、もしくは最重要視しないといった考え方がベースとなっています。
このため直観的なイメージをベースに哲学的な理論構築がされていた伝統的な医学理論には、多くの箇所で削除修正が加えられていることになります。たとえば、五臓六腑の五臓にはそれぞれの「神」が宿るという古代からの伝統的な考え方は、共産主義の論理にそぐわないものとして削除修正の対象になっています。
このような共産主義思想のフィルターを通過して誕生したのが、現代中医学なのです。』
『これに対して、同じように明治政府の弾圧により消滅の危機に瀕していた日本の東洋医学ですが、明治43(1910)年に発表された漢方医学者の和田啓十郎の『医学之鉄椎』を契機に、再び復興の道を歩み始め、今日の復旧に至る復活を遂げています。
衰退から今日までのプロセスを眺めると、日本の場合には「政治思想のフィルター」を通過していない点で大きく異なります。
戦時的に強力なリーダーシップのもとで理論の再構築が行われた時間枠の中で全国から集められたさまざまな見解や意見をまとめるためには、「最大公約化」して全体の「整合性」を保つことが優先され、実際の臨床の理論と矛盾する部分は切り捨てられたことが推測されます。』
『(中略)また、日本の場合には、中国共産党のような思想的・政治的に強力なリーダーシップのバックアップが存在しなかったため、その後、臨床現場での「治療」を中心としたテクニカル面での理論の蓄積が、個人レベル、または研究グループレベルといった小さな研究組織で進められていきました。
鍼灸の世界を例にとると、現代中医学派、現代派、古典派、また古典派も複数の流派に分かれ、異なる理論やテクニックが使われているといった具合に、中国のように総論から各論に至る全体理論が整備されることなく、「患者を治す」ことに焦点を合わせて、さまざまな流派やグループ分かれて発展してきている状況と言えます。
ですから、東洋医学をはじめて勉強する人にとっては、その全体像を把握するまでがひと苦労なのです。』

ここで、上に引用した文章の中から大事な論点を抜き出します。

①そもそも"中国の東洋医学"と"日本の東洋医学"は異なるものである(生まれたのは中国だが進化の過程で違いが生まれた)
②その要因として、中国の政治的背景(共産党の唯物論的思想)や、日本の鎖国(日本人自らで発展させていかなければならない時期があった)ことがあげられる
③"日本の東洋医学"は、中国のそれとは違い「政治思想のフィルター」がかかっていない
④日本の進化過程には、中国のように強力なひとつのリーダーシップのもとに「ひとつの」体系化を目指した歴史はないため、「患者を治す」という焦点は同じでも、さまざまな流派やグループに分かれて進化している

さて、この4つの論点を元に、サッカーというフレームに当てはめ、これからの日本サッカーや中国のサッカー、また世界のサッカーの未来を考えていきます。


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日本サッカーを考えるにあたって、よく問題定義をされることがあります。

「日本サッカーには国全体で共有されている再現性(根拠)のある理論体系がない。それがヨーロッパや南米との違いだ」

サッカーに関わっている人なら、一度は聞いたことがある台詞ではないでしょうか。これに関しては、そもそも本当に国全体で共有されている理論体系は必要なのか? と考える余地が残っています。ヨーロッパや南米は、確かに存在しているのかもしれません。ただし「だからといって(ヨーロッパや南米がそうだからといって)必ずしもそうではない可能性はある」という批判的思考を持たなければ、私たち日本人が彼らを超えることは一向に考えられないことは、ここでまず留意しておかなければなりません。自分たちで考えて、それでも「国全体で共有されている理論体系」が必要であると答えが出ているのであれば問題ないですが、ヨーロッパがやってるから、という理由で「必要だ」といっているのであれば、それは「西洋思想が全て」となってしまったように見える現代の日本人と重なります。

確かに今の日本サッカーには、強力なリーダーシップは存在しないし、共通の理論体系を共有するはずの場所である「ライセンス制度」はあまり機能していません。仮に「理論の広い普及」が目的なのであれば、今のライセンス制度には矛盾が多いです。なぜなら「構造的な難しさ」があるからです。制度はシンプルではなく、年齢や状況に左右され、誰もがライセンスを受講したいと思うようなデザインと信頼度はないので、「指導者間の共有度」が下がることは必然です。かといって、ではそのライセンス制度の最上位のライセンスを持っている指導者に圧倒的な能力と信頼度があるか、と言えばそうではないので、取得するのが難しいのにも関わらず、取得者の能力が保証されるものではない、という摩訶不思議な状態が発生しています。例えばアルゼンチンはその逆の状態なので、指導者の誰もがライセンスをもち、誰もが同じ基盤のもとサッカーに向き合っています。

ライセンス制度はこの矛盾点をなくすために、以下の2つどちらかに振り切って行われなければなりません。

パターン1:ライセンス制度を(最上位ライセンスも含めて)比較的誰もが受講・取得できるような環境・構造を作り、その上で「ライセンスはあくまでもライセンスであり、現場の経験や結果が全てである」と、国全体で共通認識をもつ
パターン2:ライセンス制度における受講・取得を極めて難しく(構造的にではなく能力的に)し、「ライセンスを持っているものは、すなわち能力の高い(信頼性のある)指導者である」という状態をつくり、国全体で共通認識をもつ

日本はこのどちらでもないので、矛盾していると言えます。僕がいるアルゼンチンは「パターン1」のライセンス環境です。


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話を元に戻します。私はここで、あえてこのような立場に立ってみようと思います。

日本人は東洋医学の進化過程を見てもわかるように、国全体で理論を一致させるような方法よりも、グループや思想、流派によって、それぞれが独自に発展をさせていくようなやり方のほうが、本来性に合っているのではないか?だとしたら必要なのは「患者を治す」というたった一つの焦点があった医学のように、分野を発展させるためには、方法論よりもむしろ「明確な目的を共有すること」の方が重要なのではないか?

つまり、例えば日本サッカーの育成が「まだまだ」なのは、再現性のある方法論や理論が整備されていないからではなく「目的が共有されていないから」ではないか?という視点です。結局日本人はサッカーを考えるときに、表面的に西洋思想に流されているだけではないだろか?と批判する際に、この件はエビデンスの一つとして機能するかもしれません。

もう一つ例を出します。

東洋的思想で成り立つ仏教と、西洋的思想で成り立つキリスト教(一神教)を比べてみましょう。以前仏教の講義を聞きにいったときに、駒澤大学仏教学部教授の石井清純さんが、興味深いことを言っておられました。

『西洋人が仏教のことを学ぶ際に最も理解しがたい点は、仏教はキリスト教などの宗教に比べて「宗派が圧倒的に多い」ことです。仏教は「山の頂に登る」(比喩)という目的は同じであれば「それぞれ方法は違っていい」と考えていることが、その要因です。キリスト教なども宗派(プロテスタントやカトリック)があることはありますが、仏教とは根本的な考え方が違うので、仏教ほど宗派が多くなることはありません。そう考えると、仏教というのは「宗教」というより、「生き方の指標」のようなものなのかもしれません』

※一語一句同じ発言内容ではありません

つまり何が言いたいのかと言えば、私たち東洋人の基本的な思想として、何か「絶対解」のようなものを持つよりも、それぞれが独立して「目的に向かって」考えるようなやり方が、根本として身についているのではないか?ということです。確かに私は日本人ですが、仮に「日本サッカーはサッカーをこのような理論で考えてください」という決まりがあったとしても、そのように考えません(自分の性格によるものなのかもしれませんが…)。

仏教は進化の過程で、ひとつの目的に向かって、最初は「悟りを開くためにはこの期間にこれだけのことを修行しなければならない」という決まりが厳格にありましたが、それが「坐禅を組めば良い」と言い出す人が現れ、その後「日常生活の全てが修行なのだ」と言い出す人が現れたりします。そのようにして宗派が別れて行きました。

ここで注意したいのは「ひとつの目的」が医学にも仏教にもあった、という点です。だからこそ発展した、と言えます。日本のサッカー界はどうでしょうか?私はプロの監督としてサッカーをつくっていく人間ですので、目的は「勝利」ではっきりしています。ただ日本では厄介なことに、例えプロでも「勝利」を目的にせず、ある種逃げ道を残す個・集団があります(これに関しての論考はこの記事で少し触れています)。これが日本人において、理論体系がないということよりも発展を妨げる理由になってしまいます。育成の世界でも、同じです。目的が国全体で共有出来ていない(部活動などのスポーツ文化があることも関係していると思います)。

一方で、中国のサッカーをみると(詳しくはわかりませんが)「国が主体となって」エリート集団を作り、スペインなどの指導者を招聘し、発展を図っているように見えます。「国が主体となって」という部分は上記した東洋医学の発展過程と重なります。また中国が持つ悪く言えばコピー文化は、サッカーにも現れているはずです。もしこのような状態が本当であれば、中国のサッカーが一向に発展しない理由になり得ると思います。

中国のサッカーは今後注意深く見守っていくとして、日本の話に戻します。仮に、日本サッカーが舵を切り、目的を統一させた上で、前述したようにある種日本の東洋医学のような発展過程を目指し、“ほとんど”0ベースからそれぞれの流派で体系論をつくっていくような方向に舵を切ったときに、いわば「西洋医学の医師(皆さんが普段病院に行くと居るのはこちらです)」とは異なる「東洋医学の医師」がサッカー界に出てくるようになります。

サッカーにおける「西洋医学の医師」と「東洋医学の医師」にはどのような違いが出てくるのか、そこに発生する「利点」と「欠点」は何があるか?という点を、後編に書いていきたいと思います。日本における東洋医学の歴史や、西洋医学との比較を整理すれば見えてきます。

後編に続く

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