美代の耳に残る昭和の声 - 最後の章④
昭和38年、私は幼馴染の山田浩二と結婚しました。私たちの家族は戦後の混乱を乗り越え、飲食店を営んでいましたが、兄と弟が相次いで命を絶ったことで、世間から「傷のある家」と見られていました。それでも浩二の家族は、私との結婚を許してくれました。このことには本当に感謝しています。
結婚後、私たちは祖父が営む飲食店の二階で新生活を始めましたが、そこに住んでいたのはわずか1年ほどでした。お店での生活は特別でした。職人さんが作る料理を食べるという贅沢なものでしたが、同時に家庭の温かさを感じられない寂しさも伴っていました。家族全員が食卓を囲むことなく、それぞれが別々に食事をするという生活は、私にとって普通の家庭への憧れを募らせるものでした。
結婚前の昭和34年頃、私はある大学を卒業し、その後短期間ではありますが、ある出版系の会社で働いていました。厳しい教育を受けて育った私は、その経験を活かして社会に出ましたが、結局、会社勤めを辞めることになりました。結婚の話が進み始めたのは昭和38年頃のことです。
結婚後、私は家庭を築くことに専念しました。昭和40年には最初の子ども、長女が生まれました。母親としての新たな役割が始まりましたが、心の中には幼い頃から感じていた寂しさや、普通の家庭への憧れが根強く残っていました。それでも、私は家族の絆を大切にし、新しい生活に適応していきました。
その後、家庭は再び引っ越し、新しい場所での生活が始まりました。私の結婚生活は、戦後の昭和の変動の中で、小さな家族を支えるための戦いでした。それでも、私はそのすべてを乗り越え、家族と共に生き続ける道を選びました。
つづく
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