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22年超しの夢物語

「継続が大事だ!夢は叶う!」

そんなが話が巷にあふれている。その信憑性の判断は人それぞれだと思うが、あなたはこの言葉を信じるだろうか、それとも信じないだろうか。

信じる者が救われるとの言葉もあるが、途中であきらめてしまう人間の方が多い印象を個人的には受けている。世間一般的には疑う余地も挟まず継続する事こそが善だとする風潮も強いが、本当にそうなのだろうか。

そもそも自身の望む結果に対して投下した時間やお金といった労力が、必ずしも適切なリターンとして戻ってくる保証はない。例えば、弁護士資格を取ろうとも、公認会計士の資格を取ろうとも、それが必ずしも後の生活に役立つとは限らない。巷で報道されている通りだ。

民間資格であればなおさらだろう。長い年月をかけて手に入れたモノが使い物にならないと思う絶望感を想像してみる。重ねた年月に比例して、込み上げてくる感情は怒りや遣り切れなさに満ちたものだろう。


それにも関わらず、

「継続が大事だ!夢は叶う!」

無条件で唱える人間に個人的には違和感を覚える。なぜなら、それらのほとんどは典型的な「成功者バイアス」にまみれているからだ。

あなたはどう思うだろうか?


・そんなのは条件次第だ…
・やった後悔よりやらない後悔の方が良い…
・結果の解釈は本人次第だ…


解釈は様々だろう。

それでもやはり諦めきれないモノがある。継続し続けたい。結果として後悔してもいい。それほど情熱をかけて取り組みたい事がある。そんな方々に届けたい物語がある。


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僕には3歳下の弟がいる。職業は医師だ。

この情報を与えられたあなたはどう思うだろう?

・将来安泰やん!
・高給なんでしょ?
・コンパとかモテるんちゃう?
・社会的信用抜群やん!

一般的に抱く医師のイメージはこんなところだろうか。医療に携わる人間であればもっと別の負の側面も抱くだろう。実際に医師としての弟を見る限り、その両方が当てはまる。負の側面を加味したとしても、医師として務める弟は「幸せ」そうに見える。絵に描いた円満な家庭も築いている。


だが、今現在に至るまでの壮絶なストーリーが裏にはある。何も知らない人間が「高給だし、社会的信用もあっていいよね~」などと軽々しく口にしようものなら、俺が許さない。


そんな弟の物語を少し紹介したい。

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この記事でも触れた通り、我が家は在日韓国人の家庭だ。貧乏人の子沢山とは正に我が家のためにあったような言葉。知的労働者を望みながら、時代的・経済的背景に翻弄された父は、肉体労働者にしかなれなかった。そんな父は、我々子ども達に冗談で、

「勉強したいなら医者か弁護士にでもなればいい(笑)。」

とよく言っていた。客観的にみるとなんとも無責任な言葉だが、大人になるにつれ、どういう背景から出てくる言葉なのか、その意味も分かるようになった。その言葉を聞き流す兄弟姉妹を傍に、その弟だけは父の言葉を信じた。本人なりの原体験があり、

「僕が医者になって、父さん母さんを長生きさせるんだ。」

物心のついた小学生の頃からそう言っていた。

結果としてそれは現実となった。だが、それまでに味わった屈辱と辛酸は並大抵のものではない。身内贔屓を差し引いたとしても。そして何より本人が、決して腐らず、あきらめず、自身の能力を冷静に捉え、緻密な戦略を練り成し遂げたものだ。


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僕には兄もいるが、兄は成績優秀だった。高校も普通科ではなく進学により特化した理数科へと進んだ。その兄の成績表を僕はいつも眺めながら、良い意味で勝手にライバル視していた。

そのお陰で、僕も学業成績は良いほうだった。僕が兄の背中を見てそれなりに学んできたように、弟も僕の背中を見て努力に励んでいた。兄弟姉妹間での良い競争の循環があった。両親が勉学に関して全くと言っていいほど干渉してこなかった影響も大いにあるのだろう、我々兄弟姉妹は皆当たり前のように、ゲーム感覚で勉学につとめていた。そして弟も理数科へと進学した。

だが、医学部医学科というハードルは、現役時代の弟の学力ではとても対抗できないレベルにあった。偏差値でいえば10弱ほど全体的に不足していた。しかも金銭的に私立は不可能。国公立大学しか選択肢はない。どの大学の医学科も必要とされる偏差値は70以上だった。


高校生の当時、弟は同じ部活の女の子と交際していた。何の因果か、その子は医師の娘だった。医学科への進学を希望する弟へ、つまりは我が家へ、その彼女の父は個別で奨学金の話を持ち掛けてくれた。なんともありがたい話だ。それだけ弟のビジョンが輝かしく、応援を得るにふさわしいものだったのだろうか。

だが現実はそう甘くない。合格ラインまで手が届かない。人の成長曲線でいう変化の見えない時期を弟は長い間過ごしていた。高校での数学の授業中、教諭に吐き捨てるようこう言われたそうだ。


「お前には数学の概念がない。」


相当悔しかったのだろう。その言葉が弟の机の横の壁に大々的に張り出されていた。兄として、少しだけ心が痛んだ。

月日は流れ、現役で受ける初めてのセンター試験。思うような結果は出せなかった。センター試験の自己採点で二次試験の受験資格すらない事がわかった。弟にとって、本当の意味での長い暗黒時代がスタートした。


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地方に住む我が家には、都会の予備校に行くだけの金銭的体力はない。当時その弟にとっての兄二人は大学生であり、下にも進学を希望し受験を控えている弟がいた。それ故、その弟は自宅浪人という道を選んだ。

通信教材や市販の書籍のみを頼りに、一人黙々と受験に備える弟。幸い自転車で5分の距離に図書館があり、その図書館にこもる日々が続いた。

ところで、地方出身の学生にとっての夏休みは帰省のシーズンだ。狭い町である故、帰省した友人たちと出会う事もあったそう。キラキラとした大学生活、青春を謳歌する彼等に引け目を感じた事もあるだろう。高校時代から交際していた彼女もその一人だった。

それでも、その彼女は献身的に弟を支えてくれた。





という話であればまだ救われたのだろうが、そんな美談はそれほど転がっているものではない。一回生の夏休みを前にして、彼女には振られたそうだ。多感な学生時代、多くの出会いと別れがある。誰も彼女を責めることはできない。その事を弟自身が一番身に染みて分かっていた。だが、自分が辛い時に心の支えとしてあった存在がなくなることは筆舌に尽くしがたい。

どれだけ枕をぬらしたことだろうか。

何が辛いかというと、彼女との交際は終了したものの、医師である彼女の父から申し出頂いた奨学金援助は継続していた事だ。完全に縁を切ることはできない状態だった。彼女とは関係ない部分で、家同士の付き合いとしての縁は続いていた。

定期的に模試を受けるたびに彼女の自宅まで訪問し、医師である彼女の父に芳しくない結果を報告する。そんな日々が続いていたある日、


「成果のない結果をわざわざ報告しに来ることに、一体何の意味があるのかね?」


そう言われた事があるそうだ。律儀な弟の性格が裏目にでた結果だった。彼女の父の言う事は最もだ。だが、まだ20歳にも満たない、社会にも出た事のない人間にその言葉はあまりに厳しい。成果の出せない自分自身を、歯がゆく、やるせなく思ったことだろう。とことん自分自身を否定したことだろう。

そんな弟を労うべく、僕が帰省の際には2人でよく海を眺めにいった。日本海の海沿いをドライブし、お決まりの道の駅に停車する。日本海の荒い波と、水平線に沈む夕日を眺めながら、2人でコーヒーを飲んだ。それ以外特に何もしてやれることはなかったし、むやみに口を挟む事もしたくはなかった。

結局、高校卒業後初めてのリベンジも、センター試験の結果が思わしくなく、2次試験への切符をつかむ事が出来なかった。

まだまだ、弟の夜は明けなかった。

結果をただただ受け止める弟を、見守ることしか俺には出来なかった。


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リベンジに燃える2年目、弟の目はまだ死んではいなかった。徐々にではあるが偏差値も向上し、今年は2次試験の切符をつかむ事も、そしてその2次試験を通過する事も狙える可能性の域まで到達していた。

そんな弟に思いもよらない知らせが届く。

神戸に住む親戚の叔父から、生活の面倒を見てやるから、本気で医学科を目指すのなら神戸に来ないかとのオファーがあった。神戸には大手予備校がある。受験のプロの指導のもとであれば夢を叶える可能性も格段に上がる。

なけなしの懐から予備校の授業料をかき集め、両親は弟を神戸の叔父のもとへと送り届けた。弟の目もいっそう輝いた。希望に満ちた目をしていた。今年こそ、何が何でも結果を出して見せる。そう意気込んでいた。

未婚の叔父と弟の、2人の共同生活がスタートした。追い風を受け、順風満帆の生活がスタートした、はずだった…。




2人の生活がスタートして1カ月ほど経ったある日の朝、神戸の叔父から僕に電話があった。

「○○(弟)、お前のところに行ってないか?」

僕は驚愕のあまり、言葉を失った。

当時学生として同じく関西にいた僕のところに弟はいない。冷静に状況を尋ねた。どうやら、叔父が目を覚ました段階で弟の姿がなかったようだ。何も告げずに、弟は叔父の家を飛び出していた。

弟の携帯に電話をかけるも留守電になる。しばらく間をおいてかけ直すもまた留守電。正直不安になった。ニュースの類もチェックした。弟は何事もなく家出をするような人間ではない。叔父に何も告げないという礼儀を欠いた行動をする人間でもない。悪い予感が頭をよぎる。

・弟はどこにいるんだろうか?
・なぜ叔父の家を飛び出したのか?
・両親にどう報告すればよいか?

複雑な感情を抱えたまま、警察に電話をしようとしたその時、弟から僕の携帯に電話が入った。

俺:「今どこにおるんや?何があった?」
弟:「同郷で関西の大学に通う友人の家に…」
俺:「なんで?ホンマに何があった?」
弟:「叔父さんとの生活はもう無理かもしれん…」
俺:「とりあえず、梅田に今から来い。俺も向かうから。」
弟:「うん…ごめん。」


弟を責めるつもりは毛頭なかった。律儀な性格の弟の事を叔父さんよりももちろん理解しているし、何よりその背景が知りたかった。弟に何があったのかを。今の心境はどういうものかを。叔父さんとの間で何があったのかを。とにかくそれが知りたかった。

弟と待ち合わせる前、早く梅田についた僕は、今はない2階改札を出たすぐ右手にある成城石井でおにぎりを買った。単純に朝飯も食ってないだろうなと思ったからで、深い意味はなかった。

午前10時、阪急梅田駅の2階改札で待ち合わせをした。姿を現した弟の顔は憔悴していた。申し訳なさと、自身の複雑な想いと、なんとも形容しがたい表情をしていた。とりあえず、買っていたおにぎりをベンチに座り食べさせた。その途端、弟は急に涙を流し始めた。

「美味しい…」

そう言って、涙を流しながらおにぎりを食べる弟の姿を見ながら、何も気づいてやれなかった自分に憤りを覚えた。弟の涙で大抵の察しがついた。

その後近くの喫茶店に入り、詳細を聴いた。端的に言えば叔父とそりが合わず、弟の言動一つ一つに激怒が飛ぶような生活が続いていたそうだ。今でいうモラハラに近い状態だ。叔父の性格と弟の性格はとことんマッチしなかった。どちらが悪い訳でもなく、叔父の性格を掴みストレスを溜めずに「相手に合わせる」と言う術を当時の弟は持ち合わせていなかった。考えてみれば当然のことだ。むしろお互いの性格を知りながら、その状況に考えが及ばなかった自分を猛省した。弟の心は明らかに傷ついていた。

弟に今後の意向を尋ねた。しばらく黙り込んだ弟は、

「叔父さんに頭を下げて、もう一度生活を共にしながら、受験に備えたい」

と言った。

「わかった」

と僕は返事をした。その場で叔父さんに電話をかけ事情を説明し、そのまま弟と一緒に叔父さんの自宅まで向かった。

開口一番で2人で頭を下げた。これからは僕自身も弟のフォローをする事を叔父さんに伝え、叔父さんも了承してくれた。しばらくは様子見が必要だなとは思いつつも、一旦は落ち着いた事に僕は安堵した。弟の表情もいくぶん柔らかいものになっていた。







だが結局、2人の生活はその後2週間ももたなかった。


両親が弟を迎えに来た。弟は両親と一緒に実家へと帰っていった。弟が希望を抱いた神戸での生活はあっけなく幕を閉じた。「歪み」だけが残った。

両親と弟を見送った後、僕は弟の通学路を弟が通っていた予備校まで歩いた。

「ああ、ここの駿台に通ってたんだな」
「ああ、この定食屋で昼飯食べてたんかな」
「ああ、このファミマで立ち読みでもしてたんかな」

「何を思いながら弟は生活してたんやろうな」
「辛かったんやろうな。心が痛かったやろな」

そんなことを思いながら、僕は神戸三宮の街を徘徊した。通りすがる人の目とは対照的に、僕の目は真っ赤に充血していた。


実家に戻った弟はしばらく抜け殻のような状態だった。勉強に身が入るはずもなく、形としての勉強は続けるものの今一つ心がこもらない。当然の事だ。それほど心に深い傷を負っていた。

当然のごとく、2度目のリベンジにも本人の望む結果を得ることは出来なかった。同級生達は20歳。成人式の年だったが、引け目を感じていた部分もあるのだろう。人生の大きなイベントである成人式に、弟は参加しなかった。

滑り止めとして受験した他の学科には合格していたが、本人はそこに進学するつもりもなかった。周囲と異なる道を歩む自分に不安を覚えた事もあるだろう。今後について、将来の展望について、相当悩んだはずだろう。

結論として、3度目のリベンジに向け準備をすることを弟は決めた。決して惰性ではなく、今回を最後のチャレンジとする事を家族に宣言した。


ーーーーーーー

高校卒業から2年が経ち、3年の春、再び自宅浪人と言う形で弟は医学科への受験に向け勉学に励む日々が続いていた。心に傷を負った昨年の出来事も、時間がすこしづつ癒してくれた。可もなく不可もなく、そんな生活が続いていた。幸い成績は上昇傾向をたどり、医学科への合格も現実味を帯びてきた。

このまま順調にいけば、念願のモノを手にすることができる。弟も希望を持ち始めていた矢先、思いもよらぬ出来事が起こった…。

元々腰の状態に不安を抱えていた母が、手術をすることになった。腰骨が神経を圧迫し、下半身不随に近い状態にまでなってしまった。県内でその手術ができる環境はなく、母は伯母の住む兵庫県西宮市の医療施設に入院することになった。実家の環境が大きく変わり、弟は受験にだけ専念する事が出来ない状態になってしまった。

10時間に及んだ母の手術、その後のリハビリ生活を含め半年以上、母は実家を留守にした。その間、勤めにでる父親と弟の2人だけの生活がスタートした。

母がパートとして勤めていた近所の飲食店へ、弟が代わりとして勤める事にもなった。地方の田舎故、パートと言えどそう簡単に人が見つかるはずもない。母の抜けた穴を弟が埋める事になった。

その頃の弟の生活は、10:00~14:00までのアルバイトの時間が拘束され、また、フルタイムで働く父との2人暮らし故、家事も負担しなければならない状態だった。朝の支度をすませ父を見送り、アルバイトが始まるまでの隙間時間、アルバイト後の父が帰宅するまでの時間、夕食後から就寝までの時間と、睡眠時間を削りながら受験に備える日々が続いた。

母が実家に戻ってきたのは年末。センター試験も間近に控えた時期だった。弟の肩の荷がおりた。弟の努力もあり、幸い成績に大きな影響を出すことはなかった。3度目のリベンジを果たすべく、センター試験まで追い込みを続けた。結果として、センター試験をクリアする事が出来た。2次試験へチャレンジする権利を手に入れた。

満を持して2次試験に備える日々が続いた。

そして臨んだ2次試験、2日間に渡る筆記と面接を終えた弟と電話をした。「今年が最後のチャレンジとして腹を括り臨んだ試験、人事を尽くして天命を待つのみ。」そう弟は電話越しで言った。電話越しに聞いた弟の声は清々しいものだった。

合格発表までの間、僕は祈った。

神社仏閣にも基本的には手を合わせない僕は、この時ばかりはと祈りを捧げて回った。どうか、弟の苦労が、これまでの行いが報われますように。そう願い続けた。

合格発表当日、弟からの連絡を待った。合格者の受験番号が大学のHPで掲載される10時から15分ほど過ぎ、弟から電話がかかってきた。ゆっくりと携帯の通話ボタンを押し、弟から結果を聞いた。







「ダメだった、受験番号無かったわ」


「そうか」とだけしか僕は言えなかった。意外にも弟の声は冷静だった。今年が最後のチャレンジと決めていたからだろう。曇り空が晴れたような声のトーンだった。

一方の僕は、どこかで悶々とした気持ちが残っていた。ずっと弟の事を見守ってきた故なのか、神様はどうして…。そんな事すら考えた。自分の過去を全て受け入れた弟とは対照的に、この日ばかりは遣り切れない思いを神様にぶつけた。不運に翻弄され続けた弟の事を思うと胸が張り裂けそうになる。だが、これが現実なのだ。


現実はあまりに、あまりに厳しいものだった。


経済的な事情からも、浪人を続けることは出来ない状態だという事を弟自身が一番感じていた。むしろ、ここまでチャレンジさせてもらった事に感謝を忘れない事を、我が弟ながら僕は尊敬した。

弟は夢をあきらめた。

そして、同じ医学部内の他学科へと進学した。


ーーーーーーー

自ら納得いくまでチャレンジできた、そう思えたのだろう。遅れながらにやってきた学生時代という青春を弟は謳歌した。「良く学び、良く遊べ」という長男の格言通り、貧しいながら、弟はとても充実した学生生活を送っていた。とはいっても経済的に困窮を極めていたのは事実だ。大学の寮に住み、生活費を捻出するためのアルバイトも当然の様にしていた。

一度、弟が住む大学の寮へ行った事がある。京都大学の有名な吉田寮ではないが、外観、内観を含め、弟の部屋を見た僕は絶句した。言葉は悪いが、「こんなところに住めるのか…」そう思った。老朽化はもちろん、無機質的な建物である故なのか、醸し出される独特の雰囲気は「一般の」大学生からは想像できないだろう。それくらい過酷な環境の中で弟は生活していた。


「ああ、それでもお前は逞しく生きてんだな」


弟の住む寮から最寄駅までの帰路の途中、報告がてら僕は母に電話をした。これまでの弟の事を想うと、何故か僕は涙を流していた。母に悟られないように、必死で我慢をした。きっとばれていただろうけれど。


ーーーーーーー

弟の学生生活も終盤に差し掛かり、国家試験に向けて励む中、ある日突然弟から家族全員に連絡が入った。


医学科への編入試験を受けたい


当然の如く、家族全員誰もが想像していなかった。医師ではないが国家資格を取得し、その資格に沿って就職するものだと誰もが思っていた。東京の月島にある、聖路加病院から内定をもらっていたからだ。

社会に出るまでの時間や費用はストレートで進学した人間以上にかかっている。貧しい家庭であるが故、仮に編入試験に合格したとしても、さらに借金が嵩むだけだ。3年次編入をしたとしても卒業までに4年間、研修医の期間を含めれば6年間、それだけの時間と費用がかかる。医師国家試験に合格するという保証もない。


だが、家族全員誰も反対する者はいなかった。


両親を含め、兄弟姉妹も口を揃えて、


「お前のやりたいようにやればいい」


そう言って弟の背中を押した。記念受験としてなのか、自分の中での本当に最後のけじめなのか、その真相は分からないが、誰もが弟を応援した。


この連絡を受けた時、弟が合格すると僕は直感した。なぜだかは分からない、過去に1度だけ感じた事のある直観と同じ類だった。


「きっと合格するよ」


僕は弟にそう言った。そして弟は、僕の言葉に半信半疑ながら試験を受けた。社会経験を積んだ人間が大半な受験者の中で、まだ社会にも出た事のない弟が肩を並べて試験を受ける。身の程から考えるとありえない状況だ。

大抵の人間が弟のチャレンジを鼻で笑うだろうし、建前上は前向きな発言をしたとしても、心の片隅では「どうせ無理だろう」と思われても仕方のない状況だと、客観的に考えても思う。

だが何故か、僕には合格する直観しかなかった。




そしてそれは現実となった。


合格発表の当日、僕はPCの前に張り付いていた。何度もページを更新し、合格者の受験番号が掲載されないかを待っていた。すると、画面内に

「 医学部医学科編入試験 合格者一覧」

という文字が現れた。クリックする右手が震えたのを今も覚えている。

518723

と言う番号を探して、左上から順番にゆっくりと視線を下げていく。

515283
515429
516532
517747

518723


あった。




ーーーーーーー

お前のことを想うとなぜかいつも涙が出る。

人一倍不器用で、人一倍愚直で。

色んな痛みを知っているからこそ、その分優しく、強くなれるんやろな。こんなに泣いたのはいつ以来だろう。泣きはらした目のまま、今日も1日が終わった。

決して哀しい訳でもなく、切ないわけでもなく、だからといって嬉しいだけでもなく。自分でも説明しきれない色んな感情が溢れ出てきて、とめどなかった。

今までの屈辱と辛酸、不安や希望。そんなんがごっちゃになっていたであろう。お前の気持ちを思うと、なぜだか涙がでる。

尋常じゃないくらいに。

 今日ですべてが終わるさ
 今日ですべてが変わる
 今日ですべてがむくわれる
 今日ですべてが始まるさ

過去の自分と正面から向き合って、誤魔化すことなくけじめをつけた。今日がその日なんだろう。まさに「漢」だと思う。

 今日ですべてが終わる
 今日ですべてが変わる
 今日ですべてがむくわれる
 今日ですべてが始まる
    引用:「春夏秋冬」

そんなお前にぴったりの言葉。感無量すぎる。心からおめでとう。そしてありがとう。俺も報われた。


当時mixiの日記に挙げた文章。この時ほど、我が事以上に嬉しかった事はない。誰かを思って涙を流したこともない。それくらい感無量だった事を、今でも鮮明に覚えている。

諦めきれない夢を前に、誰にも言わず温めていた編入試験に向けた計画。そしてそれを愚直に実行した。独学かつしかも、某国家試験の勉強と並行しながら。弟の執念を改めて感じた。

結果として、倍率数十倍という超難関の試験をお前は突破したんだ。



「僕が医者になって、父さん母さんを長生きさせるんだ。」



子どもの頃に述べた言葉通りにお前は今を生きている。初志貫徹を正に体現した。我が弟ながら、こんなにカッコいい奴はそういない。俺はそう思っている。そんなお前の生き様そのものが、多くの人間に勇気を与えるんだ。


お前の物語が日の目を浴びることはないのかもしれない。でも、少なくとも俺にとってはこの上なく輝かしい夢物語。どんな物語にも劣りはしない、立派な夢物語だ。

お前の物語が俺に生きる力を与えてくれる。もしかすると、同じように勇気付けられる人もいるかもしれない。



「あの時、梅田で食べたおにぎりの味、忘れんのんよね」

会う度にいつもそう言うお前。だが逆に俺は感謝しかない。お前が俺の弟である事を、俺は心から誇りに思っている。


おわり


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