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その記憶と引き換えにして

実家の近所に住む幼馴染のお母さんが亡くなった。大腸がん末期と診断されてたったの1か月。明るく朗らかで、誰に対してもあっけらかんと接していた気のいいおばちゃん。小さな頃はよく叱られたもんだ。

母が長年勤めていた近所の中華料理屋が40年以上の歴史に幕を降ろした。実家から歩いて10秒の距離。良く通ったもんだ。愛想の良いご夫婦で営んでいたが、時代の流れの中で商売に取り残された。

毎週日曜日には歩行者天国だった自宅前の道路。軒を連ねていた数々の店はもう全てなくなった。その中華料理屋が最後のお店だった。

実家の目前にある川を挟んで佇んでいた、大正ロマン造りの旅館。取り壊されてもう何年だろう。小学生の時に自宅のベランダから描いた水彩画。県のコンクールで金賞をとった。その絵はどこかへいってしまった。

通っていた小学校が取り壊され、マンションが建った。明治時代に造られた木造建築の校舎。手すりのひとつにも職人の技が見える、歴史的価値のある建物。父も兄弟姉妹も通った小学校だった。

市内で営業していた個人経営のスーパーマーケット。その店舗もほとんどなくなってしまった。代わりに大型ショッピングモールができた。

兄と一緒に行った唯一の映画館も、随分前に失くなった。



今はないモノにばかりに思考が傾いてしまうのは、年の瀬が近いからだろうか。なぜだか理由はわからない。単なる懐古主義という訳でもなく、淡々とこうして文章を書いている。

人間には2つしか「手」がない。大切なものは「2つ」までしか持てないということなのか。

何かを手放して、何かを手に入れる。

結局、最後に残る2つは何なのだろうか。

何を自分は残すのだろうか。


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手に入れる為に捨てたんだ
揺らした天秤が掲げた方を
そんなに勇敢な選択だ
いつまでも迷う事は無い
その記憶と引き換えにして 僕らは

振り返らないで 悔やまないで
怖がらないで どうか元気で
僕は唄うよ歩きながら
いつまで君に届くかな

その涙と引き換えに
その記憶と引き換えに
この歌と引き換えにして
僕らは行ける

引用:同じドアをくぐれたら


失くして、手放して、見つけて、手に入れて、また失くして、また手放して。人間は多くを記憶に残しておくことが出来ないのかも知れない。「忘れる」という機能があるのもその為だろう。

それでも忘れたくないモノがある。風景だったり、匂いだったり、面影だったり、思い出だったり。挙げ出せばキリはないのだが、こうしてたまには振り返ることも悪くないのかも知れない。

これまで何を失くしたのだろうか。
これまで何を手放したのだろうか。

きっと、それらが思い出させてくれる「心象」があるはずだと思いながら。


おわり


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