働かない時代の馬の生きる道

最近考えていること。
主題にあるように、「働かない時代の馬の生きる道」
要は、馬が働くことに対する効率的な価値を見出せない時代に、いかに役割を見出し、生きていくための糧を得るのか。

かつて、馬は動力として馬車を引き、畑を耕し、人を乗せて走った。
時代は流れ、重機で畑を耕し、3c(カラーテレビ、クーラー、カー)の時代になった。馬は、時代の流れとともに、役割を失い、早く走るという美学の元に競馬という生きる道を得た。早く走る生き物という価値が残った。
さらに時代は流れ、重機は勝手に動き、ドローンが畑の上を舞う現代。テレビは、手の中に、車はシェアの時代、暑い時には涼しいところにいき、寒い時には暖かいところに行くノマドの時代。馬は、どこに行くのか。早く走ること、経済、娯楽のために馬が生み出され、消費されていく時代は変化を迎えている。

しかし、過度な命の消費には変化が必要であるが、種の保存・多様性のためにはそれなりに多くの命が生み出され、多くの群れが維持されて行くことが重要である。
未来に生み出される馬にはどんな役割が与えられるのか?
その一つに僕は「働かない馬の生きる道」を生み出したい。
いやいや、「働かざるもの食うべからずじゃないの?」と言いたいこともよくわかる。よっぽどそこらへんの人よりも、馬がいかに自分で自分の食いぶちを稼いでくれるのかと考えている。

しかし、「働く馬」のライバルがAIやドローンなのだとしたら、どんな品種改良をしても人間様のため、地球のために毎日田を耕し、物を運ぶ馬は現れないだろう。というか、現れてほしくない。

馬は馬である。

でも、そんな「働かない馬(作業効率の悪い)」の生きる道は、あえて手間がかかる、みんなでやらないとできない。ここに見出されるみんなでやるは、強制的、無意味的なみんなでやるではなく、みんながやりたくなってしまう方。

まだ、言語化されてないけど、おそらく身体性と精神性の交換にかなり大きな意味がある。
シンプルな構造に立ち返らせてくれる変換装置の役割を果たす。
たぶん、園芸セラピーや作業療法などなどにはそんな意味があるのだと思うが、現代はあまりにも、作業や身体性に重きが置かれているような気がする。

人類は、長らく戦争やお金稼ぎをする、豊かになるという共通の目標を掲げて、成長を続けてきた。
現代の目標は、「脱成長」?「SDGs」?「自分のやりたいことをやって自由に生きること」?
正しくは、なんなのかわからないし、こんなものは後々歴史の教科書にこうだったらしいと書かれていればいいものだ。
今、僕らができることは、何を感じて、何をするか、次代の人が後々、現代の価値感を想像する種を残すかである。(もちろん、そのために時間を過ごすわけではない。)
そこに、馬や里山、蓄養動物たちは、「里山時間」「里山経済」「里山コミュニケーション」「・・・」を付与してくれる。
馬軸で考えると初めて「馬が働くこと」ではなく「馬と共に働くこと」「馬のために働くこと」に価値が見出される時代なのである。

僕らは、これらをいかに表出できるかを日々実験している。
「働かない馬」と「働かない人間」の共存を目指して。



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