野田市を歩く①~水上交通の要衝・関宿城
東武スカイツリーライン東武動物公園からバスで約30分
千葉県野田市・関宿城へ行ってきました。
県内最北端に位置するこの場所は
利根川から江戸川に分かれる分岐点でもあります。
小田原北条家参謀・北条幻庵をして
『一国と得ると同じ』と言わしめた要衝でもあり
古河御所を守る重要地でもありました。
関宿城
関宿城の歴史
関宿城の起源は明確ではありませんが、長禄元年(1457)には梁田(やなだ)氏によってこの地に城が築かれていました。関東平野の中心に位置し、水上交通の要衝であることや乱流する大河を天然の要害とする強固な守りを持つことから、「この城を手に入れるのは一国を得ると同じ」と称され、戦国時代にはたびたび争奪戦が繰り広げられました。
梁田氏による支配は100年ほどにわたりましたが、天正二年(1574)に後北条(ごほうじょう)氏の支配下となります。小田原征伐の際には、豊臣・徳川連合軍の手に落ち、天正十八年(1590)、徳川家康の関東移封に際して、家康の実弟である松平康元(まつだいらやすもと)が二万石の領地を与えられ関宿藩主として入封します。以後は、板倉(いたくら)氏、牧野(まきの)氏など江戸幕府でも要職に就く大名が配され、宝永(ほうえい)二年(1705)に久世重之(くぜしげゆき)が入城してからは、明治維新まで久世氏が藩主を務めました。
江戸時代の関宿城は本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪のほか侍屋敷が置かれ、三層の店主を中心に、多くの建物が築造されていました。明治二年(1869)の藩籍奉還(はんせきほうかん)後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部が民間へ払い下げられました。
市内には、埋門(うずめもん)や本丸御殿などが現存しています。また、本丸の三分の二が関宿城跡)として残されています。
野田市教育委員会
関宿城の城郭MAP
城跡の写真
復元天守(関宿城博物館)
空堀
日本庭園
展望台からの景色
関宿城址碑(本丸跡?)
土塁になってますね。
『関宿城の曲輪』(三の丸跡?)
『武家屋敷の区割りと教倫館』
『関宿城大手門と城を囲む土塁・堀』
『関宿関所と棒出し』
アクセス(関宿城博物館)
東武スカイツリーライン 東武動物公園駅からバスで約30分
『新町』バス停下車 徒歩15分程度
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