母になると、みんな生まれ変わる。
私は、教員を退職する前後あたりから、
社会活動に関わる機会が多くなった。
環境問題に取り組む団体さんが最初。
そこに属していた友人に声をかけてもらい、
事務のお仕事を少しだけさせてもらった。
その中の、環境と食の繋がりを伝えるグループに入り、
イベントを立ち上げたり開催したりしていた。
それらは東京を拠点に活動していたのだけど、
群馬に移住してからも
環境と食のつながりで出会いがたくさんあり、
自宅でワークショップを開くに至った。
そこから、
ずっと抱えていた母としての揺らぎに目が向き、
心の学びをしたり、伝えたりし始めた。
そこに、
子どもの登校しぶりや
教員時代の揺らぎ経験も加わり、
教育で繋がる会も始めた。
実は、昨日も、教育のお話会に読んでいただき、
元教員として、教育活動家としてお話してきたのですが、
私の価値観が変わった(優先順位が入れ替わった)タイミングというのが
子どもが生まれたことがきっかけ
だったんだなぁと話してみて改めて思ったんですね。
出産前は、
仕事への責任、教え子たちへの責任はもちろんあったけれど、
それでも自分の幸せが一番だった。
週末は何して過ごそうかな、
何を食べるか、どこに行くか考えたり、
結婚を考えたり。
仕事は自分の幸せの次でした。
だけど、正直、教員は、
「自分の幸せが一番」を前面に出せない仕事。
だから、休日は絶対的に自分の幸せを死守したいし、
仕事以外で利他的に動けないっていう面もあったような。。
↑
これはまた別のときに書くとして・・・
ところが、
我が子が自分の元に来た途端、
私の中で、大事にすべきものがひっくり返ったんだと思います。
この子たちが幸せになるためには、
食の安全を守らなければならないし、
美しい自然が残っていてほしいし、
気候変動も食い止めたい。
知らなかったことも情報としていろいろ入ってきて、
取り組まなきゃいけないことがたくさんあることに気づいた。
さらに、子どもたちを守るためには、
自分にゆとりがないといけない、ということもわかったし、
生きる力を育む教育に、課題がたくさんあることもわかった。
子どもたちの未来が保障されないと、
母として幸せになれない。
・・・これだと、母と子の境界線が曖昧で
ちょっと違和感がある。
子どもたちは子どもたち自身で
未来をクリエイトできる存在だと信じて任せるとして、
母として、子どもたちの未来のために、最善を尽くせているか
こっちですね。
これが私の幸せの尺度になりました。
最善の尽くし方は、人それぞれ。
その人の性質、想い、強み、
それに時代によっても何をするかが違うと思うのですが、
私の場合は、
社会をより良くするために何らか動いていること
そういう人たちと繋がっていくこと
その人たちと共により大きく一歩踏み出すこと
それが最善を尽くすことに直結しているみたい。
「やりがい」「いきがい」ってやつですね。
もちろん、
美味しいものを食べて、行きたい場所に行って、
というのもないと息切れしちゃうんですが、
「子どもたちや未来のため」
その目的から大きく外れてしまうと
濁ったものを発する自分を感じてしまうんです。
特に「自分のため」にやってしまうと。
少なからず、承認欲求はあります。
人間だもの。
でもやっぱり、
純粋なクリアな気持ちで、清々しくやっていきたい。
そのためにも、
「何のために」という自分のビジョンを
しっかりと握っていたいと思う今日この頃。
母になると生まれ変わる。
仕事、夫婦関係、人間関係、
いろんなところで価値観が揺らぐ。
自分に向き合うべき時なんですね。
どちらに向かうのが自分らしいのか。
しっかりと見極めるチャンスでもある。
最近は、同じように動いているママたちと
繋がることが増えました。
子どもの存在がママたちを動かしていると思うと、
なんてすごいパワーなんだろうと思います。
いや、これが自然な状態なのかもしれない。
母は強し。
私たちが動いていくことには意味があります。
親が何をしているか、何を考えているか、
どんな視野、視点を持っているか、
どんな人とどんな話をしているのか、
どんなインプット、アウトプットをしているのか、
その姿を見た子どもたちが、未来で、
何をどうするかに繋がっているはずだから。
もちろん教育でも、
クリエイティブな本来の力を発揮できる素地を
育んでいってほしいと思う。
だから、教育の分野を大事にしている。
教育でも、環境でも、食でも、政治でも、
非力なままでなく、
子どもたちや未来への想いや願いに対して
みんなが力を発揮できる社会であってほしい。
私も私ができることをがんばっていきたいと思います!
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