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A.ドヴォルザークについて 3

さて、3回目です。1回、2回と、ドヴォルザークの生まれた時代背景と、生まれてから作曲家として独り立ちするまでお話してきました。今日は、作曲家として独立をしたドヴォルザークが、どうやってその名声を得るまでになったかをお話ししていきたいと思います。

ちょっとだけ話を戻しますが、ドヴォルザークが卒業後、所属していた楽団といえば、カレル・コムザーク楽団でしたが、この楽団に1871年に指揮者として迎えられたのがスメタナ。彼のもとで演奏し、1871年に退団するまで、彼からたくさんの薫陶を受けたのでした。

実はこの時、ドヴォルザークは作曲家として歩むべき二つの道があったとされています。

一つは
オペラ、楽劇のジャンルで、民俗的な懐かしい調べ、心に深くしみ込むような調べを色彩豊かに、そして野心的なスケールのオペラを追い求める「国民オペラ」

もう一つは
極めて保守的な、古典形式としての交響曲や室内楽といった絶対音楽


ドヴォルザークが最初に選択したのはこの絶対音楽の方であった。しかしながら、劇場でオペラを演奏することと、ドイツ劇場にワーグナーの作品を聴きに行くことで、次第に作風も「国民オペラ」よりに、そして、「ワグネリアン」化して行くのであった。ここまでのことを少しまとめて見よう。


1859年 18歳 プラハオルガン学校卒業。カレルコムザーク入団。

1861年 20歳 弦楽五重奏第1番イ短調(Op.1)作曲

1865年 24歳 交響曲第1番ズロニツェの鐘、交響曲第2番、歌曲集糸杉、
        チェロ協奏曲イ長調を作曲。

やはりここまでは古典的な作品が多く見られる。

1866年 25歳 スメタナ国民仮劇場首席指揮者に就任。
        売られた花嫁初演時ドヴォルザークはヴィオラを弾いていた。

1867年 26歳 スメタナの影響を受け、7つのインテルメッゾを作曲

1870年 29歳 最初の悲劇的オペラ「アルフレート」創作

1871年 30歳 オーケストラ辞職。オペラ「王様と炭焼き」第1作、作曲


そして、この1871年の12月には、作曲家として初めて作品が公開演奏された。
舞踏会で歌曲集第5番「思い出」が演奏された。


1872年 31歳 賛歌「白山の後継者たち」(Op.30)作曲。スメタナがオペラ「王様と炭焼き」第1作の序曲を演奏。

1873年 32歳 3月9日 賛歌「白山の後継者たち」(Op.30)初演。
            作曲家として最初の成功を収める。
       11月17日 アンナ・チェルマーコヴァーと結婚

そしてこの年には「ドヴール・クラーロヴェの写本からの歌曲集」が自身の作品で初めて出版された。

1874年 33歳 交響曲第3番初演(スメタナ指揮)
        交響曲第4番初演(ドヴォルザーク指揮)
        オペラ「王様と炭焼き」第2作初演。 大成功。


ここまでがプラハにおけるドヴォルザーク第1期のお話。オーケストラでヴィオラを弾きながら、作曲を続け、貧しいながらも創作に取り組み、苦労しながらも初演で成功を収め、ドヴォルザークは偉大な作曲家として成長続けていきました。


さて次回は、国際的な展開を見せて行くことになりますが、あの作曲家がドヴォルザークに注目したのがきっかけでした!

次回もお楽しみに!






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