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A.ドヴォルザークについて 2

さて、前回は、ドヴォルザークの弦楽セレナード、チェロ協奏曲についてお話をしようと思ったのですが、ドヴォルザークの生まれた状況についてお話ししました。これはなかなか曲の話までは行けそうにないですねw

それでは前回のお話の重要なポイントの復習です。

15世紀にカトリック教会を批判したフス。フス派ができフス戦争勃発するが急進派は敗れ、穏健派は信仰の自由が認められ、何とか存続。1517年ドイツの宗教改革の時、フス穏健派はプロテスタントに合流。ところが1617年、ベーメン王となったフェルディナントはプロテスタント弾圧とドイツ語化を図る。1620年には独立を失い、唯一信仰はカトリック、公用語はドイツ語を押し付けられ、チェコは暗黒時代突入。この暗黒時代にチェコを支配したのはドイツ系貴族。

彼らは自分たちの城の楽団で演奏させるために、町家村での学校での器楽教育を奨励。このことから、農村からも、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、スーク、マルティヌーなどをはじめとする大音楽家が出る伝統を生む一因となったのかもしれない。

つまり音楽教育が貴族階級だけのものではなく、むしろそこで演奏するためにも、農村でも積極的に音楽教育がなされていたということですね。ドヴォルザークの最初の先生とも言えるシュピッツ先生もネラホゼヴェス村の小学校の校長先生で、村の教会の音楽家も兼ねていたそうです。このように農村で学校の先生と音楽家を兼ねていた人たちをカントルと言います。カントルは隠れた人材が多く、優秀な弟子たちを育ててはプラハなどの大都市に送り出していたのです。


さて、今回は、ドヴォルザークの周辺構成について見てみよう。

ドヴォルザークの生まれたネラホゼヴェス村。ここはロプコヴィッツ侯の領地で、このロプコヴィッツ侯はベートーヴェンのパトロンとしても有名で音楽が盛んな土地柄であった。ドヴォルザークの実家は肉屋兼旅館で、父フランチェシェクはチターの名手。伯父のヨゼフも肉屋兼旅館を経営し、トランペットの名手だった。ドヴォルザーク自身は6歳からヴァイオリンを習い、教会では合唱隊にも加わっていたとういう。

13歳の時に、肉屋の職人を継ぐために、ズロニツェという町に学びに行く。技術習得証書を得るためにドイツ語が必要なのだが、それを教えてくれたリーマン先生はヴァイオリンとヴィオラ鍵盤の演奏法、そして、和声法も教えてくれた。

その後進路を変え、受験勉強の末、1857年10月1日、プラハオルガン学校に入学。ここではオルガンの演奏だけでなく音楽理論と作曲を教える学校であった。在学中から貧しい生活を送り、卒業後はカレル・コムザーク楽団にヴィオラ奏者として入団。この楽団は主にホテルやレストランで演奏する楽団であった。

チェコにおいて、1848年革命失敗後、10年ほど一時挫折していたが、1860年代より活発になり、大衆の寄付により、チェコ人のためのオペラと演劇を上演する国民劇場建設計画が具現化し、1862年には完成までの仮劇場もできる。そしてこの劇場の核となったのが、カレル・コムザーク楽団だったのだ。ドヴォルザークは1871年まで、オペラの演奏と、これまで通りホテルやレストランの演奏も続けた。

1866年にこの劇場に指揮者として迎えられたのがスメタナである。もちろんドヴォルザークも彼の薫陶を受けたわけである。

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さて、いよいよドヴォルザークは本格的に作曲に専念すべく、この楽団を辞めるのであるが、ドヴォルザークはどのように名声を手にしていったのであろうか。

それではまた!

また楽曲の話はできませんでした!!!!


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