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A.ドヴォルザークについて 1

初めてnoteに書いております。これからどうぞお付き合いください。

ドヴォルザークの弦楽セレナードという曲があります。これは弦楽アンサンブルというジャンルの中ではチャイコフスキーやエルガーの作品と並んで最もポピュラーな作品の一つです。そしてチェロ協奏曲。こちらはチェロ協奏曲の作品の中でも最もポピュラーと言われる曲です。そして交響曲。特に第9番「新世界」は交響曲史上で最もポピュラーな作品の一つです。今年はベートーヴェンイヤーですが、ドヴォルザークを取り上げる演奏会が多いので、これらの作品の魅力に迫る前に、少しドヴォルザークについてお話してみたいと思います。

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まず名前。

アントニン ドヴォルザークと言われることが多いのですが、綴りは

Antonín Dvořák

です。実際は アントニン ドゥヴォジャーク

というのが近いです。


彼は1841年9月8日、チェコの首都プラハから約30Kmの所にあるネラホゼヴェス村で生まれた。このころの彼を取り巻く世界はどのような情勢であったのか。

1848年革命、ウィーン体制の終焉と言ったこの時代、ベーメン民族運動により、16世紀から続くオーストリア支配に対しての独立運動が活発になる。4月のボヘミア議会では、ドイツ語とチェコ語の同権が確認された。しかし、6月の労働者蜂起はオーストリア軍に鎮圧された。これはもっとチェコがどういった歴史を辿っていたか知る必要がある。


あれ?曲についての話をしようとしてたのに・・・。


いや、でも、やっぱりそこから話さないと曲については語れない!


いいでしょ。こうやって指揮者の話は長くなるのです。


チェコの面積は北海道くらいの広さ。10世紀以来神聖ローマ帝国を構成するベーメン王国として存在していた。

15世紀はカトリック教会を批判したフスが現れ、フス派ができたが、異端とされて弾圧されたため、フス戦争勃発。

その後急進派は敗れたが穏健派は信仰の自由が認められ、存続。

1517年ドイツの宗教改革が始まると、フス穏健派はプロテスタントに合流。

1556年オーストリア=ハプスブルク家がベーメンを支配するが、寛容な宗教政策をとる。

1617年ベーメン王となったフェルディナントはプロテスタント弾圧とドイツ語化を図る。

そして、1620年から独立を失い、唯一信仰はカトリック、公用語はドイツ語を押し付けられ、暗黒時代突入。


こう見るとベーメンはヨーロッパ諸国に先駆けて宗教改革をするなど革新的な国民性が、かえって外国の干渉を招いたという側面もありますね。

この暗黒時代にチェコを支配したのはドイツ系貴族。彼らは自分たちの城の楽団で演奏させるために、町家村での学校での器楽教育を奨励。このことから、農村からも、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、スーク、マルティヌーなどをはじめとする大音楽家が出る伝統を生む一因となったのかもしれない。

その後、チェコ民族の勤勉性と文化の蓄積から産業革命、そして少しづつ民族復興の機運が芽生えていった。

1848年革命の嵐が全ヨーロッパに吹き込まれたことで、チェコ音楽史は芸術運動と政治運動の連動によって発展していった。そんな時代に彼は生まれたのであった。


さあ、ドヴォルザークはどのように成長し、この偉大な作曲家となっていくのか。


次回をお楽しみに!



結局、曲の解説についてはまだ先のお話・・・。




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