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A.ドヴォルザークについて 4

それでは前回の3回の復習です。

音楽学校卒業後、1859年18歳でカレルコムザーク楽団でヴィオラを弾きながら、作曲も続け、その後首席指揮者でやって来たスメタナの薫陶を受け、1871年30歳で初めて公の場所で作品が演奏され、1873年32歳の時に賛歌「白山の後継者たち」(Op.30)初演で、作曲家として最初の成功を収める。

という話でしたが、青年期の話は面白くないのでしょうか、この3回は閲覧件数が著しく悪い・・・。もっとちゃんと書きますね・・・。

もう一つだけ覚えていて欲しいのは、この1873年の作曲家としての成功の後にですね、11月17日にアンナ・チェルマーコヴァーと結婚。

ここはぜひとも覚えておいてください!のちのチェロ協奏曲の解説の時にまた詳しくお話し致します。


さて、本日はこの若いドヴォルザークは作曲家として成功しつつありましたが、まだまだ貧しい生活を送っておりました。そんな時、彼が幸運だったのは、当時、オーストリア文化教育省が提唱した国家奨学金があったこと。これなんとはチェコ人も対象でありました。

この基金は、当時オーストリア二重帝国における、若くて貧しく、何よりも才能に恵まれた画家や彫刻家、そして音楽家のために発足した奨学金であったこと。
そして、当時ボヘミア地方はハプスブルク家の属国下であったのでチェコ人にとっても適用されたのです。

ドヴォルザークは1874年に、交響曲第3番、4番、ほか数曲を提出。審査員の評判も良く、5年連続で奨学金を獲得です。ちなみに400グルデン。それまでの年収が186グルデン でしたので、だいぶ嬉しい。


はい、ここで第1回の復習ですが、ウィーン体制の終焉、1848年革命期、ウィーンでは3月革命により、オーストリア皇帝フェルディナンド1世が退位し、フランツヨーゼフ1世が18歳で即位する。1867年にはオーストリア=ハンガリー二重帝国という国家連合に近い状態になっていた。
実はこのヨーゼフ1世は68年在位した最後の皇帝なのですが、彼の政策のうちに音楽と関わるものがたくさんあります。例えば、大規模な都市改造計画により、市の囲んである壁を壊し、堀を埋めてつくられた内環状道路が「リンク通り」。その道沿いには国立歌劇場楽友協会ホールが建ち、国立歌劇場は1869年5月にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でオープン。学友協会ホールは1870年1月にベートーヴェンの「エグモント序曲」と「交響曲第5番」でオープン。さらに第2のコンサートホール、コンツェルトハウス、第2の歌劇場フォルクスオーパーも建てられた。

そして、国家奨学金の政策も含めて、ハプスブルク家が芸術に投資して来たものの存在は音楽において計り知れないものがあった。


さて、国家奨学金の2年目から審査員に加わったのが、ヨハネス・ブラームス

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ドヴォルザークの作品「モラヴィア二重唱曲集」Op.32を自分の楽譜出版社であるジムロックに紹介し、ドヴォルザークを熱烈に売り込んだ。これをきっかけにジムロック社は、「スラヴ部曲集第1集」の作曲依頼をし、これが大ヒットとなり、国際的な名声を手にするのであった。

ドヴォルザークとブラームスの関係はこの後も続きます。

北ドイツのプロテスタントで、堅固で孤独な独身者、おもちゃの兵隊を切に可愛がるブラームス。
ボヘミアのカトリックで幸せな結婚生活を送り、汽車を愛したドヴォルザーク。

一見タイプの違う二人だが、ブラームスがドヴォルザークに及ぼした影響は計り知れない。

ブラームスがジムロックに紹介してくれた年は1877年、36歳の時ですが、モラヴィア二重唱曲集が作曲されたのは1875年34歳の時。1874年33歳で奨学金をもらったので、作曲に専念する時間が増えたこともあり、数々の名曲が生まれております。1875年は、そう、弦楽セレナードホ長調Op.22が生まれた年でもあります!

お待たせしました。弦楽セレナードホ長調Op.22の登場です!次回は少し曲について触れさせてください。

ドヴォルザークは「スラヴ舞曲集」で国際的名声を手に入れ、さらなる高みに進んでいきます。そのお話は次次回へ持ち越し。

また次回お会いしましょう!


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