見出し画像

この世界の中心で…

 ある朝、東京都内は晴れで、少々風が強かった。そんな天候だったから、インターン先の屋上にあるベットで横になって、空を見上げていた。空は写真で切り取れないくらい茫洋としていて、線路の沿線にある建物なのに、風の音と横で流している好きな音楽しか聞こえなかった。インターン最終日という事実も手伝って、強くも弱くも吹く風の心地よさと目の前に迫ってきそうな空の青さは、水のように体に染みわたっていくようだった。自分の好きな曲が流れ、それが風の音をはらみながら聞こえてくる。風というのは、音をかき消してしまうイメージを常日頃持っていたのだが、どうやらそれは違うらしい。その場所においては、そしてその時の僕にとっては、風は一つの楽器に違いなかった。

 草津にある西の河原露天風呂みたいだな、と思った。あそこもとても良い。男女合わせて500㎡もある大きいその露天風呂の真ん中には、仰向けに寝転がれる木の台があって、森林を目の端に入れながら空を見上げると、心が洗われるような気持になってくる。もしかすると、そういう成分があるのかもしれない。青磁をそのまま溶かして水にしたようなその温泉に、森林から出ているそのマイナスイオン的成分がこっそり入り込んでいるのかもしれない。

 雑多な東京を一人離れて、空へと浮かんでいく心地がする。思うに、ここが世界の中心なんだろう。地球はどうやら丸いらしく、それを長方形の地図にすると色々ずれるらしいけれども、小学校で習ったメルカトル図法で今世界地図を作ったならば、ここを中心として描かれるような気がした。大都市東京の、渋谷を中心とした世界地図。案外悪くない。作ったら、作ったで誰か使ってくれるんじゃないだろうか。

 そんなことを考えているうち、太陽が少しずつ高度を上げていく。目を閉じて、空気の流れを全身に受けていた僕は、再び空の果てしなさを楽しもうと目を開けてみた。すると、おかしい。空を注視することができないのだ。一瞬だけなら見ることができる。ただ、1秒以上見続けようとすると、瞼が閉じてしまう。再び、見ようと試みるがうまくいかない。いつもより瞬きの頻度が多くなってしまっているようだ。これでは、瞬きの合間に空を見ている感じだ。目の奥が痛くなってきた。これはあれだ。真っ暗な部屋で引きこもっていて、突然外に出たときに起こるやつだ。眩しさの痛みだ。

 子供の頃、太陽を見るのが好きだった。直接あまり見ない方がいいと言われていたが。自然光では出せない独特な温かみと、見るたびに変わる光の手足と、はるか上空にあるという少しの怖さがあった。空を見るのも好きだった。ころころ変わる空の模様を見ると胸が躍った。だのになぜ。これでは刻一刻と変化する空を、観察することもできやしない。さっきまで、空を見れていた気がするのに。あれは太陽が雲に隠れていたからだったのか。それでは、太陽の顔色を窺って、空を盗み見ているようなものだ。天気を伺うことと同じだ。

 自分の中から、原因と思しきものを探してみる。建物の屋上にいて、空との距離が近いから?夏で、なおかつ、いつもより南から空を見上げているから?明るさへの慣れか?確かに、最近空を見る回数が減っていた。子供の時よりも下を見る機会が増えた。雨上がりの虹を見るにつけても、くぎ付けになることは無くなった。それか、それのせいなのか。

 そうなのかもしれない。今も、自分の体は反射的に太陽から目を遠ざけようとしている。子供時代、そんなことをしていた記憶は無いのに。あの頃、できていたことができなくなっていたのか。なんだか、心の底からもの悲しい。

 いつかまたこの青さを、その広がりを、瞳で受け止められる日が来るのだろうか。いや、きっと来る。来させてやる。太陽よ、いつか、お前をまた目の中へ入れてやるぞ。僕は太陽の、温かさ、全てのものを煌煌と照らす神々しさが好きなんだ。だから、だから、その時は今回のように痛くなりませんように。

※今回のnoteには、一部比喩表現が入っています。肉眼で太陽を直接見ることは目の損傷に繋がる恐れがありますので、やめましょう。



おまけ

 今、僕は22歳だが、新山詩織の『17歳の夏』を紹介したい。この曲は17歳のときに、繰り返し聞いた曲である。「"気持ちだけで この夏は 終わらせたくない"」その年の夏は一回きり。やりたいこと、全部やっていこう!

※今回、公式の動画は見つけられませんでしたので、ぜひ検索して聞いてみてください!


 ---今回の感謝---

屋上にベッドを設置してくれた人

太陽

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?