見出し画像

SSS『母を殺すしかない』

はじめに


この物語で学べる3つのこと。

  • 実際に起こった「滋賀医科大学生母親殺害事件」の概略

  • 高圧的な教育を施された子どもは、大人になった時に親に復讐することがある

  • それを教育虐待と言い、そして、最悪の場合殺してしまうことがある

以上を念頭に置き、ぜひ物語をお楽しみください。

『母を殺すしかない』


 ザッ、ザッ、ザッ。

 靴の裏で砂利と草が力なく踏まれていく。

 軽快でいて、けれどもどこか虚無感に満ちた音が河川敷に響き渡る。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 私はなす術がなくただただ踏み付けにされているそれらを見て思った。

「私みたい」

 ザッ、ザッ、ザッ。

 私は母を殺した。母を殺すしか私が助かる方法はなかった。

 母を殺さなければ、いずれ私が死んでいた。

 だから、殺すしかなかった。母を殺すしかなかった。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 私は小学生の頃から、母に「お医者さんになりなさい」と言われ続けてきた。それが、幸せなのだと。

 小学生の頃の私は「幸せ」がどういうものなのかよくわからなかったが、私は母と一緒に笑って過ごせればそれで楽しかった。けれど母は、お医者さんになることが「私の幸せ」なのだと強く言った。

 私は母が好きだった。だから、私は母の言うとおりにした。

 そして、母にそう言い続けられているうちに、だんだん自分もそう思うようになっていき、気が付けば私自身医者になろうと思っていた。だから、勉強を頑張った。たくさん頑張っていた。

 すると、最初のうちはどんどん成績が良くなっていった。国語も算数も理科も社会も全部のテストの点数で高得点をもらうことができた。母はその結果にとても喜んでくれていた。嬉しかった。

 けれど、成績は次第に伸びなくなっていき、特に算数は小学校高学年になると、途端にテストで点数が取れなくなってしまった。医者になるには算数はとっても大事な教科だったが、そんな私の想いとは裏腹にどんどんテストの点数は下がっていってしまった。もちろん、成績も下がった。

 そうして、母は怒りはじめた。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 もともと母は怒りやすい性格の持ち主だった。

 自分の気に食わないことがあるとすぐに癇癪を起こし、暴言を吐き、暴力を振るう人だった。

 家族で最初にその矛先が向いたのは、父だった。

 だから、父はそんな母に嫌気が差して、私が小学生の頃には家を出ていってしまった。

 私は家で母と二人きりだった。誰も母の行動を止める人はいなかった。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 私の成績が下がったことで怒った母は、私に躾けと称して暴言や暴力を浴びせ続けた。小学生の時には前腕を包丁で切られ、中学生の時には熱湯を浴びせられた。

 私はただただ痛くて怖かった。残ったのは傷と恐怖だけだった。

 小学生の頃には気づかなかったが、中学生、高校生ともなると、そのような母の行動は異常なのだと知り、私が受けているのは虐待なのだと知った。もちろん、誰かに相談しようと思ったこともある。

 けれど、できなかった。

 もし誰かに相談したことが母にバレたらどうなるのか。それを想像しただけで、私はなにもできなかった。

 母から植え付けられた苦痛や恐怖は、私を家の中に縛り付けていた。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 結局、私は現役で医学部に合格することはできなかった。苦手だった数学も人一倍頑張って勉強したが、それでも私には「合格」の二文字は掴めなかった。

 それでも、母は諦めなかった。

 私はもう限界を感じていた。だって私の学力だ。自分の学力の限界は自分が一番わかっている。私は母じゃないし、母は私じゃない。

 それでも、母は諦めなかった。私を浪人させてまで医学部に合格させることに固執していた。

 私の人生は私が決めるものではなかった。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 私はその浪人期間中、何度も母から逃れようとした。母に気付かれずに家を出て、母の知らないところで暮らそうとした。

 しかし、母は諦めなかった。探偵を雇って、私を探し出した。

 絶望はこんな形でやってくるのだと理解した瞬間だった。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 そして、私は浪人9年目にして、ようやく医科大学に合格することができた。合格したのは看護学科だった。それでも私は満足だった。

 けれど、母は喜ばなかった。母の希望は助産師だった。

 自分の希望に沿わなかった私を、母はやはり罵った。母の声は私を恐怖で縛りつけた。怖くて怖くて仕方がなかった。

 いつまで続くのだろうか。私はそう思った。これはいつまで続くのだろうか。私はもう限界だった。本当に限界だった。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 そしてある時気が付いた。この悪夢は私か母かどちかが死ぬまで続くのだと。

 それなら、母を殺すしかない。

 そうすれば、私は苦しまなくて済む。痛いを思いをしなくて済む。私は私であって母ではない。簡単なことだった。今まで難しく考え過ぎていた。母はもう58だ。私の方が力もある。何を恐れていたんだ。簡単なことじゃないか。

 母を殺すしかない。私が助かる方法はこれしかない。

 2018年3月、滋賀県守山市を流れる野洲川の河川敷で髙崎妙子(仮名・当時58歳)の遺体の一部が発見された。遺体は両手、両足、頭部が切断されており体幹部のみだった。後に髙崎あかり(当時31歳)は、他の部分は燃えるゴミに出したことを供述している。

東洋経済オンライン「医学部9浪、母の殺害に至った壮絶な教育虐待」から引用

あとがき


 こんにちは、Kazukiです。最後までご覧いただき誠にありがとうございます。
 今回のショートショートは、犯罪心理学者の出口保行先生の著書『犯罪心理学者は見た危ない子育て』の中から、第2章「自分で考えて動けない子-高圧型の身近な危険」の内容、また、東洋経済オンラインの「医学部9浪、母の殺害に至った壮絶な教育虐待」記事を参照して執筆しました。
 この出口先生の著書は、子どもが将来非行に走ってしまう危ない子育てを4つのタイプに分け解説されている教育本で、現在お子さんがいらっしゃる方はもちろん、将来子どもを授かりたいと考えている方は必見の教育本かと思います。
 そして、本書を読んでいて特に衝撃を受けたのが、今回のショートショートの元ネタである「滋賀医科大学生母親殺害事件」の内容でした。本書の中でこの事件は、高圧的な教育を受けた子どもが起こした事件の一例として紹介されており、最初読んだ時にはその内容の壮絶さにしばし呆然としてしまいました。
 もちろん、この事件は高圧的な教育の危険性を提示した例の中でも特に極端な例ではありますが、それでも高圧的な教育を幼少から施された子どもは将来親を殺害することもあるという因果関係を理解する一例であることは間違いないでしょう。
 ちなみに、この事件は記者である齋藤彩先生という方が著書『母という呪縛 娘という牢獄』でその詳細を記しておりますので、もしこの事件について詳しく知りたいという方はそちらもご覧ください。
 なお、この物語内における主人公の女性の一人称視点につきまして、参照した書籍や記事をもとにしたフィクションになりますので、その点はご承知おきください。

参考文献


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?