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【時間取られるだけの独り言なので閲覧注意】


※一気に書き上げたので改行等もほぼ無く読みづらいがお許しを。

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久々にどうでもいい投稿と言うか、思ったことをただつらつらと書いているのですが、昔自分が住んでいた頃によく作品を作る前に来ていた、銀座で43年続けてる珈琲屋さんでふと今更になってお店の写真を初撮影。ここの珈琲と空間は時代のソレを忘れさせ、スマホを片手に仕事をしながらでもスマホなど存在しない感覚。僕は昔から、本当にうまいものならまず飛び付いて口に運び、ある程度減ったところで写真を撮り忘れていた事に気づき、うますぎて忘れていたと、食べさしの写真を載せる事は全然いいと思ってる。ここはソレに入る感覚、故に初写である。が、断っておくとその余裕ができるほど味が落ちたわけでも雰囲気に飽きたわけでもない。
書道の話になると、必ず聞かれる質問がある、
「書道を書く前に何かする事はありますか?」。
ない。呼吸をし、物を食い、水を飲み、ただ生物である事で十分である。墨の気持ちや、紙の味など知らん。しかし、こう言った空間に来る事は良くある。その行為がインスピレーションに繋がっているか、何か降りてくるか、それは自分でもわからない。ただ確実に言えることは、自分が今充実していると言う実感は、こう言った具体的な時間を作る事により自己洗脳で植え付けれると言う事である。生き物である以上、身体はそう簡単に癒されない。楽しい時間、マッサージ、音楽、色々あるが、そんな簡単に物理的な疲れは取れる物ではない。
一つできることは、最大限、これ以上疲れない時間の使い方をする事だ。その疲れに慣れている以上、現段階での疲労は、ある程度疲労とみなさない。それ故に、疲れると感じるのはそこからの追加の疲労である。
癒すためでは無く、その状態に身体を持っていくためにここに来る。
珈琲一杯を芸術という人もいるが、ここはどちらかというとそれが作り出すインスタレーションに重きを感じる。非平衡的な思考により右脳を乖離させ、左脳で文字としての構図を考えながら、右脳でそれをスーパーバイズする感覚。そのオペレーションを使う事で、書くときに僕が生徒に良く言う、「無意識に意識する」と言う状況を作っている。そしてこの店での一瞬、他者には多分価値のないこう言った脳の語源化行為を定期的に繰り返す事で、自らのアウトプットを未来のインプット材料として保存し、それを解体新書とすると同時に、不規則なCPUに数列的意味つけていくのである。と言うことでこの文章も今の段階では自他ともに意味を成さない気がするが。

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