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いがらしみきお「Sink」を再読してみた②

※本稿は「Sink」のネタバレを含みます。あらかじめご了承の上お読みください。

「Sink」は、台所の流しがクローズアップされたコマから始まります。
本作の主な登場人物は山下家です。大学で教鞭をとる理知的な父、専業主婦の母、ガタイがでかく正義感の強い高校生の長男・駿。この一家は、閑静な住宅街に居をかまえ、一見すると何不自由のない裕福な暮らしを送っています。

ある日の晩のことです。一家は食卓を囲んでいます。その日一日中流れていた、少年による凶悪事件のニュースを報じるテレビを見ながら、お母さんは顔をしかめていいます。

「(中略)最近はこんなニュースばっかりね。なんだかいやだわ」
(1巻14ページより)

この場面では、いかにも他人事のような表情のお母さんの横顔がアップで描かれ、この後の恐ろしい物語の展開を考えるなら、幾分悪意のある描き方がされています。
このお母さんが、やがて駿を文字通り怪物に変えるきっかけを作った駿のクラスメイトの少年に制裁を加えるため、ナイフを手にするというのが、本作の第2のクライマックスにあたるからです。

あらすじを簡略化しながら解説を試みます。
どこにでもいそうなごく普通の一家の1人息子が、同じ高校に通うガールフレンドをストーキングするシンナー中毒の少年・三浦を撃退するため、その三浦という若者を殴って倒したことから、逆恨みされて後日三浦に刺されてしまいます。命に別条はなかったものの、その際、駿はとても不思議な体験をします。
その体験を境に、駿は次第におかしくなっていきます。

自分が特に印象に残ったシーンの1つは、三浦に刺されたあと、病室の中でうつろな目をした駿が、点滴の管を片手に持ちながら窓の外を眺めてひとり佇む場面です。
このときの窓の景色が、見開き2ページを使って描かれているのですが、そこに見える景色は、雪がぽつぽつと一面に降り注ぐうす暗い曇り空です。
駿のそのときの心象風景を表しているのだと思いますが、何回読んでもよく分からない、言葉では説明しようのない描写です。
退院した駿は、学校に戻ることを提案した父に対し、唐突に一見不可思議な問いを口にします。このときの一言は、駿の全身をアップにしてまるまる1ページを割いて描かれています。

「教えてよ なんで俺が刺されたの?」
(1巻83ページ)

それを聞いた父の「あん?」という表情は、まだ物事の深刻さに気づいていない真が抜けた顔です。シリアスなホラーでありながら、本作はところどころに、ギャグマンガを本職とするいがらし先生ならではのおかしみが滲み出たところが散見されます。ですから、ラストの笑いを一切排したオチが悪い意味でアンバランスに映ってしまうのかもしれません(個人的には、1巻がミステリアスで訳が分からなかった分、2巻を結末まで読んだときの最初の感想は「普通」でした。そのため、本作は特に問題提起の部分に他の作品には見られないスリリングな面白さがあるように思います)

さて、そんな駿を連れて精神科を受診した母は、幼少期の駿のことを尋ねられて、こんなことを話します。

「変わったところというより まだ小さかったからだと思うんですが この子 死んだ虫や こわれたおもちゃとかがあると 台所の流し台から流してたんです」
(1巻134ページ)

それに対して「ほー」と冷静に相槌をうつだけの精神科医も、やがて化け物と化していく駿の超自然的な力によって殺されてしまうのですが、このセリフが本作「Sink」のコンセプトを端的に表すシーンのひとつです。

さて一方、駿の父である山下は、同じ大学に勤務する変わり者の友人・林と、身の回りで起こっている些細な違和感について対話を重ねていきます。
山下の最初の違和感は、ほんの小さな気づきの積み重ねでした。バス停のタバコの吸い殻や、自宅近くの造成地に積まれた石が増えているという感覚、交通事故現場で見かけた首の長い女や、大学ですれ違った手の長い男子学生といった具合です。

それを聞いた林は、異様なものはバランスが崩れる前兆だといって、山下を当惑させる「バランス論」の話を繰り広げます。
この、山下と林の一連のやりとりは、まるで「ぼのぼの」に出てくる動物キャラ同士の噛み合わない会話のように、漠然としながらも哲学的で深みがあり、さらにシニカルな視点やとぼけた味わいのユーモアが感じられ、それが単なるホラーとはいいきれない本作最大の魅力となっています。
ですから、この2人の主要キャラが終盤にかけて次々に無慈悲な死を迎えるというバッドエンド的展開は、初読のときはにわかには受け入れられないものがありました。特に自分は、この駿のお父さんにあたる山下に、ある面で感情移入して本作を読み進めていたからです。

しかし、再読した今は、この設定で、本当の解決策が描かれないまま、登場人物があの状態でいたなら、あの展開はある意味で必然だったのだろうと思います。
なにせ、このマンガは、壊れてしまったこの世の中と人間そのものを、そのままタイトルの如く流しに捨ててしまおうという話なのです。
(星新一のショートショート「おーい でてこーい」に若干通じるような発想でしょうか、ちょっと違うでしょうか)

それを指揮するのが、「げんざ」という血族であり、自らの身に不幸があったとき覚醒する、人間の世界に紛れ込んだ異形の者たちという説明が作中なされます。林は、その「げんざ」が家の中に忍び込んだことを察知して大きく動揺する山下に対して、「忍び込むのを止めさせるなんて無理だよ」といってこう続けます。

「だってアレは不幸そのもののようだよ」
(1巻186ページ)

そして林は、「捨てる」ことが「げんざ」から身を守る唯一の方法だといって、山下に家を手放すことを説得していきます。対する山下は、最後までかつての幸せの象徴であった自分の家に執着し続け、ハンマーを使って家の中を破壊してまでも自分の家を守り続けようとします。守ることが、壊すことになるという一見逆説的な真理がここに描かれているのです。

自分が本作を「原罪の可視化を試みたマンガ」と表現したのは、げんざという響きがなんとなく原罪と似ているから、という単純なものではなく、むしろいがらしみきお先生が「Sink」以降、「ぼのぼの」も含めて何度も作品の中で扱っている「自分を捨てる」というテーマが、その意味合いの違いは別にして、とてもキリスト教的なもののように感じられるからです。

誤解のないように書き添えますと、いがらしみきお先生自身は、少なくとも本稿を発表する時点ではクリスチャンではありません。2023年12月、石原書房から約30年ぶりに復刊されるいがらし先生の「IMONを創る」というパソコンにまつわるエッセイを、自分は18歳ごろに地元の公民館で見つけパラパラとめくったことがありますが、その中で、新約聖書のマタイの福音書に書かれた「思い煩うな、鳥は蒔かず、耕さず、刈り取らず」というみことばの意味を取り違えて誤解(あるいは曲解)し、だから聖書は所詮昔の人の書いた言葉なのだと切り捨てていたのを読んで残念に思った記憶があるからです。
近年だと、2021年に発表されたWebちくまの連載コラム「問いつめられたおじさんの答え」(リンク記事参照)において、自らがスピノザの汎神論的な神観に傾倒していることを明かされています。これは自分が知っている人格を持った三位一体の神とは異なるものです。


なおそれでも、いがらし先生が追及するテーマは、キリスト教の中心的テーマともかなり重なる部分があると自分は見ています。

と、ここまで書いてあらためて感じることは、自分は読書感想文やあらすじ紹介を書くのがとても苦手であるということです。

・・・③に続きます。

※写真は「ぼのぼの名言集」上・下(竹書房)

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