AI時代、文系的な大卒の身から思うこと。
ChatGPTの流行がすごい。サービス開始からわずか2ヶ月で、月間アクティブユーザー数が1億人を突破したらしい。
「世の中のいろんなことを知れたらいいな」と思い、私は教養学部の大学に入った。英語で社会科学の学問に励めたり、留学する機会があったのは良かった。ただ、ひとつ大きな後悔として、理工学系のリテラシーに一切触れられなかった点がある。
当時、AIや機械学習の授業はあったものの、メジャーは国際関係やビジネスで、どちらかというと影が薄い存在だったように思う。そもそも、自然科学系の講義はほぼないに等しく、学生も大学側も「教養学部だから」という業務的なお墨付きのために、仕方なく数単位だけ必須にして履修する、という空気感だった。
「AIが知的労働にどれほど影響をもたらすか」、深い課題意識に根付いて提起する人は、教育サービスの供給側にも需給側にもいなかったように思う。いたかもしれないが、大きな潮流にはなり得なかった。
この点、今20代後半の私が「自分の起こす労働に実質的な価値が伴っているのか」という悩みに直面しており、この議論をできなかったことを残念に感じている。
これは、私一個人の話ではない。イギリスやオランダの調査によると、国内の過半数を超える労働者が「私の労働には実質的な価値はない(=ブルシット)と思っている」と答えた。(『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』)。マクロなレベルで、しかも国内外を問わず、優秀な大学を卒業したホワイトカラー職の人間が比較的簡単に陥る症状なのだ。
なぜ大きな問題なのか?本書でも指摘されているが、①自尊心の低下をもたらす。その人は替えが利く存在な上、そもそも誰も大きな期待をしていない。② 職場・人間関係の悪化。ブルシット・ジョブに励む人々の職場は、「無意味なのに一生懸命やっている」ことへの馬鹿らしさを自覚しながら、そんな本心をお互いに誰も曝け出さないため、他人への信頼や共感よりも、サディズム的な空気感が芽生えやすい。同僚との会話も、ワクワクする会社の未来よりもドロドロな社内ゴシップに陥りやすい。
だから私は、常に問いたい。「意味のある労働とは、何なのか?」「どんなサービス・財に価値があるのか?」これらの点を自ら見出せず、他人任せにしてしまうと、自分の自律した生き方・アイデンティティを見失ってしまう怖さがある。
■「オールドタイプ」と「ニュータイプ」
ブルシットに支配されない本質的に意味のある「労働」「価値」「財・サービス」とはどう生まれるのか? 山口周さんの「オールドタイプ」と「ニュータイプ」の区別が参考になると思う。
「『20世紀的優秀さ』の終焉」と銘打っているのが、論理とサイエンス重視の「オールドタイプ」。知的な大卒で、真面目と合理性で課題解決していく存在。一方で、必需品が満杯となった先進国においては、感性のままに意味を追求できる「ニュータイプ」が新たな価値をもたらす。
UX(ユーザーエクスペリエンス)的なサービス・プロダクトが流行る背景もここにある。機能偏重の日本製ガラケーが廃れ、タップと直感的な操作のiPhone以後スマホが世界市場を席巻するのがわかりやすい。
他にも、今ではUberでシェアエコが流行ったり。「合理的に考えてこれが正解だ!」というより「直感的にこうなったらいいよね」の方が求められる時代になる。言い換えると、「左脳的思考」から「右脳的直感」に価値比重が移っていく。
(1) 「適度な頭の良さ(左脳的)」をほどよく捨てていく
私が「文系的な大卒」の身として、最近深く考えるのがこの点になる。もちろん論理的な思考力や、読解能力がそれなりに大事なのは変わりない。ただそれだけの手法しかない身についていないと、突破力に欠ける気がしている。
というのも「中途半端な頭の良さ」だけでは、AIがやるのと変わらない領域になる。偏差値の高い左脳的なスキルは、むしろ余計にすらなり得る可能性がある。例えば、Paypal創業者のピーターティールが、ハーバード・ビジネススクールの学生に失望する様が象徴的だ。
東大生の行きたい企業ランキングが、外資コンサルで一位になる現状とやや被るかもしれない。また、個別銘柄を選定する投資家よりも、預けてほったらかしのインデックスファンドの方が成績が良かったり。適度な人間的賢さはないほうがいい場合がある。
インテリな大学の出身者として、それらしい「態度・雰囲気」を意識してしまう。企業や組織に属すと殊更に、賢そうな振る舞いをしてしまい、そのマインド=仮面が一種の制約になることも。
しかし今のAI時代、突き抜けた何かの価値を生む躍動感は、単なる高偏差値的な知性とは別に、異なるベクトルから生まれるのではと感じる。それが「右脳的な思考」にシフトする契機となる。
(2)「人間的な感度(右脳的)」を研ぎ澄ませていく
例えば、SNSで何が見られているのか?がヒントになる。TikTokやTwitterなど、短尺で細切れな枠に、食・性愛・笑い・驚き・好奇心といった、まさしく「人間の直感」そのものが乗っかるグローバル・プラットフォーム。
最近「すごい」と感じたのは、#animedanceという、日本人ダンサーさん発で2022年末に投稿したショートが、世界各国中の人らに真似され、わずか数ヶ月で14億回再生(タグ / 2023年2月17日時点)を記録している。
またTwitter漫画も熱い。勘違いから始まった女の子同士の恋愛話で、わずか4ページずつの更新形式で、1ツイートで1,000万viewを記録。コメント欄も日本語圏以外の読者が非常に目立っている。
エンタメ・ポップカルチャー的なコンテンツが生み出す「価値効果」で言うと、すさまじいと思う。「論理的に思考した結果、この企画でバズらせたい」という左脳に捉われた手法では、おそらく到達できない領域。
「マネしたい」「共感する」という人間的な欲望は、生み出す本人自身が直感的でないと他者に伝達しない。あらゆる起業家に共通するだろうけれど、「オタク的」な熱意や感性に没頭すること。
2016年に創業されたばかりのベースフードも、創業者本人(当時28歳)が自ら健康的な食生活に強いこだわりを感じたからこそ、売上高が数十億を超し、海外進出も目指して拡大し続ける若手の日本企業となった。
また、クリエイターや創業者自身の直情的なアプローチに対して、「ユーザー(=人)がそもそも何を求めているのか」を追求するUXリサーチの分野も。例えば文化人類学的な思考が注目を浴びている。
さらに文学を読んだり、心理学に精通して、人間を深く理解していくこと。個人的には、こうした人文学的要素はUX的な感性を磨き得ると感じる。夏目漱石の『こころ』やジェーン・オースティンの『高慢と偏見』を読み、感想を言語化する過程で、人が何を求めているのかを探るヒントになる。
上に挙げたいずれの面でも。高偏差値の論理性より「フィーリングと直感」が重みを帯びてくる。いわば「人間らしい」ことをしたい/追い求める人は、左脳型知性の自動化が進む中で、加速的に伸ばしていける可能性がある。
今後、他の界隈でもAIによって、人間の役割が「左脳型」から「右脳型」にシフトしていくように思う。例えば教育でも、教師の役割は「教えること(単なるインプットの提供)」よりも「ケア」に比重が移っていくのではないか。
私が文系的な大学で培ったのは、主に左脳型で論理的なスキルを磨くことであったと思う。小論文を書いたり、文献を読んで発表したり。もちろんそれらの経験を否定しないが、今後のAI時代において「ブルシットではない、本質的な価値観のある」労働・モノ・サービスの決定打となるのは、右脳型の直感を養うことに依ると思う。左脳的な賢さを、部分的に捨てていくマインドがもしかしたら必要かもしれない。
教養学部にいながらにして、残念ながら理工学系のリテラシーをその当時十分身に付ける機会が得られず、後悔した面もある。ただ、今後は右脳型直感を試しながら、AI時代の潮流を私なりに乗り越えてみたい。
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