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トマトとシリウス

包丁を研いだ。 キャベツを切ったつもりでもまさしく首の皮一枚でつながってしまっているからだ。

ホームセンター買ったで大工さんの使う刃物用の砥石はそれ自体が受け身でありながら金属さえも削り落とす対抗能力を持つためか、その存在の圧力を放っている。

刃の片側を向こう側に向かってシャカシャカ研ぐ。 10本の指先に細心の注意を払い研ぐ。小指がいちばん緊張しているのがわかる。小指を嘲う。

角度の問題。 反対側を研ぐときは刃先を自分側に向けなくてはならず力も入りにくい。全てにおいて素人の問題が発生する。 おののきながらの研ぐ姿はきっとへっぴり腰で情けないのだろうな。

でも刃先はおそろしい。

結果的に研げていればそれでよい。
研いだ、研げた。試しに庭先の雑草に振り抜いてみる。

スパッと切れた。今度はたくさん実っているミニトマトに鋭い視線を向けた。

振り抜いてみる。 一回目、空振り、二回目も空振り。 あっという間にツーストライクまで追い込まれてしまった。

トマトごときに三振を喫するのは野球経験者としてのプライドもあることだしやめた。

あしながバチが来た。 一瞬、悪魔のささやきが 心をよぎる。
停止しているトマトが打てないのだから、大谷選手なみの高速変化球が打てるわけはないと思うと同時に空振りした場合、 逆鱗に触れ急襲されるのは目に見えていたので思いとどまった。 包丁を持ったまま刺されたくはない。 包丁を持ったまま誰かに焦った様子で刺された、と言ったらその後、ただならぬ展開になってしまう。

包丁は想像以上によく切れるようになった。 豆腐などはすっと切れてしまう。

憧れのトマトの極薄スライスもチーズの極薄スライスも可能になった。半面、これはあぶないな、と思った。凶器だなと思った。

少しずつ命をすり減らしながら毎日を生きている。

立ち振る舞いも脳力も切れ味も元々悪いがさらに確実に悪くなっている。
人生もずっと切れ味は悪いが、それぐらいがちょうどいいんだなと思う。

暑さ続く夏の夜は二階の窓からシリウスがよく見える。いつも以上にその光をましている。
きれいにカットされたトマトスライスに味塩をかけて小さめの厚みのあるグラスに氷を入れてジャックダニエルを少しだけ注ぐ。角張った氷の角がとれて丸くなるころにゆっくりゆっくり嗜む夏の夜。
夜烏が泣き止むころ決まって肌寒くなる。寒暖差が切れ味鋭く激しい。もう秋だ。

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