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【Prologue】Story Of The Ucon Prologue/一一さんから始まったウコンの物語

これは、私たちのウコンの物語のプロローグ。

この物語の本当の始まりは1989年のこと。
私たちの師匠、山崎一一(かずいち)さんがウコン栽培を始めたのがその年でした。不慮の事故により下半身が不自由となり、自身の健康に繋がるものをずっと探していた一一さん。そのうちにウコンと出会い、自分の身体によく合うと実感し、育て始めたのが1989年のことだったそうです。

自分の健康が家族の幸せに繋がると、一一さんは話していました。
家族に迷惑をかけたくなかった、という暗い言葉を零すこともありました。

始まりの理由は確かにその通りだったのでしょう。
けれども、私たちが出会った時の一一さんは、ただただウコンのことが大好きな優しいおじいちゃんに見えました。

好奇心旺盛で、挑戦を楽しみ、惜しげも無く分け与える優しい人。ウコンは生きがいで、人生は長く楽しいものだ、と私たちに伝えてくれました。

享年92歳。2020年の晩秋にこの世を去った一一さんと、最後の時間を一緒に過ごせた僕らのお話。
ここから始まる新たな物語のプロローグとして。
一一さんのとの別れを前向きに受け入れるための文章として。

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私たち2人が一一さんと親交を持つようになったのは地域おこし協力隊としてこの土地に住んでからのことでした。一一さんの人柄が好きで、ご自宅や畑に遊びに行くことはあったものの「継ごう」とまでは全く考えていなかったと思います。

ご自宅にお邪魔するとお茶やお菓子が次々に出てくるのが可笑しくて、なかんか帰してくれないなぁなんて困ったり。いつ行っても快く迎えてくれる一一さんに居心地の良さを感じていました。そんな一一さんが育てているウコンという謎の作物も興味深く、その内に協力隊の活動としてウコン栽培を手伝うようになったのが始まりだったと思います。(僕よりもずっと前に一一さんと知り合っていた美央さんには、また違うきっかけがあったようです)。

農業初心者でよく分からない中、水をやり、収穫をして、乾燥させて粉砕して。あれよあれよという間にターメリックのパウダーが出来上がり、ちょっと感動したものでした。この期間に、ウコンがスパイスのターメリックと同じものなんだと知りました。

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きっかけはそう、一一さんの人柄からでした。

けれども、ウコンの魅力に惹かれ出したのもこの時からでした。
万病に効く家庭の常備薬としてのウコン。クルクミンが豊富でお酒の酔いに効くウコン。布地を鮮やかな黄色に染める染料としてのウコン。大地や木のように芳しい香りを持つ香料としてのウコン。インドで幸せの象徴とされているウコン、など。なんて不思議な魅力に溢れた植物なんだろう、と。

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「一一さんのウコンを受け継ごう」そう美央さんと私が決めたのは2019年の暮れのことでした。

当時はまさか2人でウコンを継ぐなどとは考えていませんでした(なんなら美央さんはガラス職人になるんだって言っていたくらいでした)。
偶然、美央さんと私が顔を合わせるタイミングが重なって、ウコンを絶やしたくない気持ちだとか事業としての可能性もあるんじゃないかなどと話しが広がって、いつの間にか自然とウコンを継ぐまで気持ちが固まっていきました。

思い返しても不思議な流れでした。なにか運命めいた力さえ感じ、現実的な課題がたくさんあったにも関わらずそう決まっていったのです。
一一さんが好きで、ウコンという作物にも可能性を感じていて、やってみたら何とかなるんじゃないか、ととても前向きでした。
その気持ちを伝えると一一さんも喜んでくれたものだから、憂いなくスタートできました。今でもこの選択をして良かったと心から思います。

そうやって私たちはウコンを一から育て始めることになりました。

一一さんが師匠で、実際に考えて栽培するのは私たちで。
あっという間に一年が過ぎ去って。
農業初心者の私たちは栽培が下手くそで、たまに「まだまだだなぁ」と一一さんのダメ出しを食らったり。
春の芽出しは思うように行かず、夏の草刈り水やりは灼熱の中果てしなく、時には一一さんのご自宅で休ませてもらったり。

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一一さんのウコンを代わりに販売したときなんかは、今日は何本売れたよと報告すると嬉しそうに聞いてくれて、さらにやる気が漲ってきたり。
ウコンのプロモーションを兼ねたホームビデオを撮り続けていこう!と一一さんを撮影してもらったこともありました。
結局それは最初の一本が最後の一本になってしまいましたが、一一さんとの日常がありのままに残せて、これは本当に撮って良かったと思います。

そんな日々が、ずっと続くのだと信じていました。

もちろん高齢だから近い未来の別れを覚悟してはいましたが、何年も先のことだろうと高を括っていたのが実際です。
晩年だって、95歳までは畑をやると言い、翌年は3倍の量を育てるんだと意気込んでいたのですから。
今年はウコン葉のお茶に挑戦してみたいのだと試作品を出してきたこともありました。その場にいたみんなで香りを嗅いだり齧ってみたり「これは、だいぶ"よもぎ"に近いですね」なんて話していたら、一一さんが「間違えた」と笑い出して。「こっちがウコンの葉だ」と隣に置いてあったものを引っ張り出し、さっきまで味わっていたのが本当によもぎの葉だったもので、大笑いになったりして。

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こんな風にずっと続くと信じていた日常が唐突に終わりを迎えたのは、とても信じられないことでした。正直、今も家に行くと一一さんがいつも通り出迎えてくれるような気がしています。

それでも私たちは一一さんの居ない現実を続けていかなければなりません。
できるなら前向きに。
一一さんが残してくれたものと向き合って前向きに進んでいくのです。

そうして出た答えが「私たちのウコンの物語のプロローグ」が終わったことを受け入れることでした。
一一さんが残してくれたことを大切にしながら、私たちは新たに物語を始めていくのです。小さなことはたくさんあるけれど、大きなことを三つだけ言葉にしておきます。

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一つ目は作物としてのウコン。これは一一さんの生きた証です。
ウコンは毎年毎年、収穫したものの一部を種芋として残す事で、栽培を繋いでいく作物です。よく芽の出そうな芋を見極め、冬を越せるように保管し、それが翌年新たなウコンとなる。
一一さんが三十余年そうやって育て続けてきたウコンを、私たちは託してもらえました。一一さんのウコンは一年辞めたら消えてしまう、とても儚いものです。
だからこそ「絶やさない」意思そのものに希望を感じています。このウコンを次の年に繋ぎ続ける事が、一一さんの生きた証をずっと残す事に繋がるのです。
それに一一さんのウコンを受け継いでいる人たちは、実は他にも何人かいるのです。ルーツを同じくする兄弟たちの存在は、私たちにとっても嬉しいことで、その話はまた別の記事で紹介していこうと思います。

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二つ目は名前。一一さんの名前を、ブランドの名前にもらいました。
漢数字の一と一で"かずいち"。以前、その名前の由来を一一さんに尋ねたことがありました。由来はあまり好きじゃない、と一一さんは少し寂しそうに話しました。「学がなくても、自分の名前が書けるように」横線を二本、一と一で"かずいち"。誰でも書けるだろうと名付けられたのだと。
それを聞きながら、私は勝手にも「一一」という名前がますます好きになりました。もともと、線と線が並ぶだけの潔さ「一一」の字面を美しいとさえ思っていたものですから。
誰でも書けるということは、見方を変えれば代え難いユニークな名前でもあります。いつかこのウコンが世界に広がって行ったとき、国も言語も超えて、誰もが書ける名前だと思いました。線を二本、横にシュシュっと書いて、これは「KAZUICHI」っていう日本語だぜ!と世界のどこかで誰かが自慢している光景が目に浮かんだのです。
「一一さんの名前でブランドを作っていいですか」と伝えると、それは恥ずかしい、とはじめはやんわり断られました。ことあるごとに、一一さんの名前でやっていきたい、とても格好良い名前だと伝えている内に「まぁいいか」なんて返答するようになって、最後のほうは満更でも無いように見えましたが、実のところどんな心境だったのでしょうね。まだ恥ずかしいのか、本当は嫌だったのか、結構嬉しかったのか。答えは分からないけれど、一一さんの名前を残していきたい私たちの気持ちを、許してくれていたら良いなと思います。

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三つ目は生き様です。人生は、長く、楽しいもの、という一一さんの生き様。
「ウコンは生きがいだ」と、一一さんはことあるごとに話してくれました。
思い返すと、栽培の苦労さえ楽しそうに語っていたと思います。
「こっちは秘密の部屋だ」とウコンの道具が仕舞い込まれた作業部屋には、一一さんの試行錯誤が積み重ねられています。ウコンの粒を作るための道具は、昔、特注で作ったんだ。妻と1日中ウコン粒を練っていたこともあった。芽出しの方法はなんだかんだ電気毛布に包むのが一番だ。なんて、どの話も誇らしげに話していたものでした。
また、玄関を上がってすぐの「一一さんの部屋」には、色んな雑誌や紙束が積まれています。
写真、絵葉書、新聞の切り抜き、古文書、ウコンの本、農業の書類、ソトコト、dancyu・・・
一一さんが取材されたメディアから、ウコンの勉強の書類など、どれにも物語があってお客さんが来るたび嬉しそうに話してくれました。
ある日、秘密の部屋で一緒に作業していた時には、一一さんが出演したTVの録画を1日中BGM代わりに見せられたこともありました。朝から晩までループ再生はちょっと参ったなぁと思っていたけど笑、基本的にウコンで起きた出来事を楽しむ一一さんはとても幸せそうに見えました。
ウコンで、人生が長く楽しいものだと思えるようになった。
そう話す一一さんの生き様は、言葉より日常の端々に表れていたように思います。私たちもまた、一一さんのウコンの物語に巻き込まれたうちの1人ですから。そうやって人生を長く楽しむ生き様は、周りの人も、自分自身も幸せにしていくのだと教わりました。私たちもその生き様を見習っていきたいと心から思います。

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終わりに。
私たちがこれから始めていくウコンの物語は、一一さんがいたからこそ生まれたものです。
まだまだ一緒につくっていけると思っていたけれど、もう一一さんはいなくなってしまいました。
だから一つの節目として。これまでのお話は「私たちのウコンの物語のプロローグ」として折り合いをつけることにします。
一一さんと一緒に物語を描くのはここまで。
この先は、一一さんが残してくれたものを携えて、私たちが新たに物語を始めていくのです。
一一さんの生きた証と、名前と、生き様を受け継いで。
ちゃんと一一さんの歴史は続いてるよと胸を張って言えるように。
人生を長く楽しいものに。
ウコンの物語をつくるブランド。
Story Of The Ucon KAZUICHI。
ここから始めていきます。

(2021.01.01/文章:斉藤翔)


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