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「暗号資産王」転落の内幕 「善」を掲げて「1兆円」を消した男の素顔とは

彼の話はどれも信じられないような内容だったが、のちにすべて本当だと判明した。(中略)ベンチャーキャピタリストたちはサムが人類初の「兆ドル単位」の資産を持つ人間になると踏んでいた。

1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊』(マイケル・ルイス著、小林啓倫訳、日経BP・日本経済新聞出版、2024/6/26刊)が描く脚光と凋落の主人公は、「若き暗号資産王」とも呼ばれた時代の寵児、サム・バンクマン・フリード氏だ。

●「効果的利他主義」のアイコン

バンクマン・フリード氏は、暗号資産で築き上げた莫大な金の使い途として、社会的な「善」を掲げる「効果的利他主義(EA)」の旗を振った。

「無限のドル」が必要な理由は、地球上のあらゆる生命の存亡にかかわるリスクを解決したいからだ――たとえば核戦争、新型コロナよりもはるかに致死的なパンデミック、人類を滅亡させようとするAI、など。最近このリストに「米国の民主主義に対する攻撃」が追加された。

「世界をより良い場所にする」というスローガンは、ジョークのネタにもなるほどの、ハイテク業界の代表的なマントラ(呪文)の1つだ。

テクノユートピア主義と呼ばれることもある、シリコンバレーを中心とするハイテク業界の土台をなす思想であり、文化的背景でもある。

「効果的利他主義」はこの土壌と極めて親和性がある。「効果的利他主義」を掲げるハイテク業界の著名人には、スカイプの共同創業者、ヤン・タリン氏、フェイクブックの共同創業者、ダスティン・モスコヴィッツ氏らがいる。2023年11月に起きたオープンAIのCEO、サム・アルトマン氏の解任劇を巡っても、同氏と対立した理事会を主導したのが「効果的利他主義」の支持者らだったことも注目を集めた。

その「効果的利他主義」が「暗号資産王」と結びついたとき、その全体像を誰にも理解できない「サムの世界」が急速に膨張していった。

サムが巨額の資金でつくりあげたパズルの全貌を把握しているものは誰一人いなかった。

●「暗号資産王」の誕生

バンクマン・フリード氏は、スタンフォード大学ロースクール教授の両親を持ち、「天才」とも称された。

高度な数学・物理学的手法を駆使したクオンツ取引会社「ジェーン・ストリート」を経て、2017年にハイテク業界の中心地、シリコンバレーを含むカリフォルニアのベイエリア(バークレー)でクオンツ取引会社「アラメダ・リサーチ」を立ち上げ、さらに暗号資産取引所「FTX」を展開。業界2位、1日当たり100億ドル規模の取引を手がける「暗号資産王」が誕生する。

香港、さらにバハマに拠点を移し、5年後の2022年末、同地で詐欺などの疑いで逮捕。禁錮25年の判決が出され、控訴中だ。

裁判では、バンクマン・フリード氏は顧客の金80億ドル以上を盗んだ、とされている。これが邦題の『1兆円を盗んだ男』の由来となる。

著者のルイス氏は、ブラッド・ピット主演で映画化された『マネー・ボール』で知られるベストセラー作家。本書も米国でベストセラーとなった。

ルイス氏が描くのは、時代の寵児となったバンクマン・フリード氏を中心とした「サムの世界」としか呼びようのない、どこまでもつかみどころのない「カオス(混沌)」だ。「効果的利他主義」の旗が、この「カオス」にさらに複雑な色合いを添える。

だが、難解なシステムが絡むテーマをサスペンス小説のようにまとめる手練れのルイス氏は、この「カオス」を見事に腑分けし、「暗号資産王」の没落と事件の「構造」を、その現場の内側から描き出す。

●内側からの”実況中継”

逮捕の1年前の2021年末、バンクマン・フリード氏と会ってその印象を確かめる、という奇妙な依頼を友人から受けたルイス氏は、この「カオス」を内側からの“実況中継”として描くという独特のポジションを手にした。

2022年11月のFTX破綻、そしてバンクマン・フリード氏の逮捕へといたるクライマックスで、ルイス氏はまさにその現場に居合わせ、廃墟と化した「暗号資産王国」の崩壊を畳みかけるように活写する。

バハマ空港の駐車場には、会社の車のかなりの数が、キーを残したまま放置されていた。それは奇妙な光景だったろう――パニックに陥ったFTXとアラメダ・リサーチを社員が、サンダルと派手な柄物のシャツを着た無邪気な観光客の波に抗うように、我先に逃げて行ったのだ。

ハイテク業界の周辺では時折、このような事件が起きる。

血液検査の医療ベンチャー「セラノス」CEOとしてやはり時代の寵児となったエリザベス・ホームズ氏をめぐる事件では、詐欺罪で2022年に禁錮11年3カ月の判決が出され、服役中だという。

事件には時折、ビッグネームたちが顔を出し、巨額の行方不明の金と、多数の被害者を残す。

『1兆円を盗んだ男』はジェットコースターのようなサスペンスドラマだ。厄介なのは、一気に読み終わった後、このような事件から何を学び取ることができるのか、判然としないことだ。

「世界をより良い場所にする」というマントラとともに、「カオス」もまた、ハイテク業界を脈々と形作る地下茎のようなものだからだ。

バンクマン・フリード氏は最初の1人でもなければ、最後の1人でもないはずだ。

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