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人生の中で、人は2度会う

ドイツのことわざ

小学生の頃から、ことわざが好きだった。生活(今もあるんですかね、そんな授業)の時間に畳の部屋に移動して、ことわざカルタで遊んでいたことを思い出す。ことわざの意味を表す絵柄が書かれた札の右上に、丸で囲まれた「こ」などが書かれている。この場合、読まれることわざは「光陰矢の如し」で、たしか絵柄には太陽と矢、そしてその影が描かれていたように思います。当時はとても楽しかったけど、思うとあまり絵柄の意味はなくて、先の話だと「こういん・・・・」の「こ」を先に聞いて、それが印字された札を見つければ、それで良いのです。ことわざの意味を考えさせるというよりは、ことわざそのものの音を覚えさせたいということでしょうか。まあ、絵柄のセンスもありますよね。ただ、このことわざカルタのお陰で今でも「ことわざ」そのものに興味があるので、この生活という授業もある程度の教育的な意味はあったということですかね。ことわざは漢字で書くと、「諺」なわけですが、語源は「言(コト)の業(ワザ)」らしいですね。色々と興味深かったので、諺の構造なども調べてみましたが、下記のコトバンクによくまとまっていました。是非、読んでみてください。特に、諺の3類型:比喩、対比、語呂については、なるほどなと思いました。

さて、今日はことわざの成り立ちではなく、あることわざについて考えてみたく、文章を書いています。たしかYouTubeだったと思いますが、ドイツのこんなことわざに出会いました。

一生の中で、人は二度会う
(Man sieht sich immer zweimal im Leben)

出典不明

さっと、聞き流したのだけど、どうもその後もこのことわざが頭から離れませんでした。なんとなく、哲学的だな、さすがドイツと思いました。初めてこのことわざを聞いたあとに考えたこのことわざの意味は、「初めて会って、その後会わないと思った人でも、また会うことがあるので、失礼な態度を取ってはいけない」でした。でも、本当にそういう意味なのだろうかと、問いを繰り返していました。

このことわざの意味

時間をおいて、度々このことわざの意味を考えていましたが、とりあえず本家のドイツではどのような意味なのかを調べてみることにしました。ドイツ語の「Man sieht sich immer zweimal. im Leben」で調べてみると、結構似たようなことを考えている人がいて、Yahoo知恵袋的なサービスで下記のような記載がありました。

Woher kommt... "Man trifft sich immer zweimal im Leben"?

Beim Klassentreffen ist das oft der Fall: Diejenigen, die man nach der Schule eigentlich nicht mehr sehen wollte, kommen garantiert. Es gibt halt Treffen, auf die man verzichten könnte. Auch im Sprichwort "Man trifft sich immer zwei Mal im Leben" kann das damit gemeint sein. Denn es kann beim zweiten Treffen auch mal um Rache für die erste Begegnung gehen.

antenne unna (※1)

これをGoogle翻訳に突っ込んでみると、

「人生には必ず二度会う」の由来は?

これは同窓会でよくあることですが、放課後にはあまり会いたくなかった人たちも必ず来ます。なくてもできる会議ばかりです。 「人生には必ず二度会う」ということわざも、このことを意味しているのかもしれません。なぜなら、2回目の出会いは、最初の出会いに対する復讐になる場合があるからです。

Google翻訳

ちょっと、直訳では意味がわかりづらいですが、要は「また会うかもしれないので、他人には優しくしようね」という意味のようです。(間違っていたら、ごめんなさい。。。)たしかに、そう意味なのかもしれませんが、でも本当にそれだけなのかな?と思ってしまいました。このことわざが持つオーラ?みたいなものに比して、意味が淡泊すぎるなと。

その後ランニングをしながら、ふとこのことわざが頭に浮かび、改めて考えてみました。ちなみに僕はランニング中にものを考えることが好きです。流れゆくせわしない時間のなかで、自分だけの時間を確保できる数少ない手段だと思っています。そして、その時に思ったこのことわざの意味は「人はある人に対して、少なくとも大きな発見を1度以上はする」という意味ではないかと思いました。「あーこんな人だな」とか「この人はこういう人だよな」といった印象を誰しもが誰かに対して思っているわけですが、長く付き合っていると、「いや、意外とこんな側面もあるな」や「むしろ、新しく気づいた性質は側面ではなくて、それが本質だった。これまで見ていた性質の方が側面だった」と考えを改めることがあると思います。つまり、こういった相手に対する「再発見」について、このことわざは言わんとしているのではないかと思いました。そうですよね、側面よりも本質を先に理解できるという考え方の方がおかしいと思います。僕が考えるこのことわざの意味が正しいかは別として、改めて「再発見」って良い言葉ですよね。似たような言葉で僕が好きなのは、「Research」です。再びを意味する「Re」と探求を意味する「Search」を組み合わせで、「再び探す」という意味です。探し出した、あるいは探したと思ったものを再び探求すること。再発見と同じで、過去にリスペクトを示しながらも、再び新しさを追い求める感じがして、美しい言葉だなと思います。余談ですが、「中世の覚醒」という本が好きです。

数学や学問の「再発見」に関して書かれた本です。枕にできそうなくらいには分厚いですが、お時間があれば是非。

言葉が独立して歩行するとき

言葉が、元々の意味とは異なる意味で解釈/展開されることがあると思います。これって、どういう現象なんでしょうか?考えられる背景は複数あると思います。1)その言葉を作った人が思い描いていた意味よりも狭い範囲で言語化してしまった。2)ある言葉やフレーズが意味する情景自体がもっと芳醇な意味を持っていた。3)時代や背景が移り変わる中で、言葉自体の意味が変わってしまって、それに伴いフレーズの意味も変わった、などなど。ただ、なんとなく2)が一番近いのではないかなと思います。似たようなことは他の分野でも起きますよね。例えば、ユークリッドの第5公準(平行線公準)など。これは元々証明ができていなかったものでしたが、それを突き詰めた結果、曲率を許容する非ユークリッド幾何学が生まれた訳です。

皆様は言葉や概念がその手元を離れて、独立していくことについてどう思いますか?言葉って生き物ですよね。ハイハイしていた言葉はやがて二足歩行し、最後は歩くこともできなくなり、消えていくのでしょうか。今日はここまで。(終わり)


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