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「選択肢がある!というのは恵まれている」と考えるに至るまでの話

▼脱欧米か!

当時22歳の自分。

生意気の極み、理屈を述べ、話が通じない人は自分とは違うと切り捨て、社会の酸いも甘いも、いわんや苦味もしらない、そんな自分。

そんな自分は、

2013年の10−12月の約2ヶ月間を、にっぽん丸という船にて、日本及びアセアン10カ国の代表青年、総勢300名超と洋上および東南アジアにて過ごしていた。

*アセアン:東南アジア10か国から成る東南アジア諸国連合(ASEAN)のこと。

日本国政府が実施する「東南アジア青年の船」(以下略、東ア船)事業は、1974年のインドネシア共和国、マレーシア、フィリピン共和国、シンガポール共和国及びタイ王国の各国と日本国との共同声明に基づいて始められた事業であり、40年以上も続く権威も歴史もある事業である。

※参照1:「東南アジア青年の船」事業

子どもの頃から海外への憧れが強く、毎週土曜夜放映される世界ふしぎ発見は世界史の勉強という名目で、ワクワクしながら見ていた。幼少期には、世界ウルルン滞在記をあたかも自分が旅しているかのように没入して見ていた。そんな漠然と海外に憧れをもった幼き自分であったが、当時は海外=「欧米諸国、英語」というかちこちの固定観念をもっていた。

しかし、何気なく参加した合宿型のイベント日本・ASEANユースリーダーズサミットで、自分の海外の認識が変わった。

日本・ASEANユースリーダーズサミットは、東南アジア青年の船のスピンオフイベントで、意欲さえあれば誰でも参加できる門戸が開かれたボランティアイベントである。

もとは、たまたま散歩した先で、日本・ASEANユースリーダーズサミットの募集の文字を目にし、「宿&ご飯付きで無料で東南アジアの人と交流できるなら、、、行ってみるか!」という軽いノリで応募し、参加するにいたった。

船に乗り、これから東南アジア各国へ旅に出る、かっちりとした制服に身を包む選ばれしメンバーとただ飯につられて参加した私と他ボランティアメンバーは、参宮橋のオリンピックセンター(以下略、オリセン)にて、2泊3日過ごした。

「今まで接したことない東南アジアの人たちと交流して、なんとなく知れればいいなー」と思いながらゆるーりと参加した自分だったが、甘かった。オリセンで過ごす時間は、なにかしらの固いトピックについてのディスカッションおよびプレゼンにて構成されていたのだ。

「うわーすごい真面目な人による真面目な場なんだー」と勝手にがっかりしつつも、周りを見渡してみると、ほとばしる情熱を身体中から発して、世界や国の未来や自分やその家族の将来について語るフィリピン代表の青年がいた。

「なんでそこまで、自分と無縁なことについて考えて、本気度感じずにはいられない熱量で、しかも英語でこんなに恥ずかしげもなく語れるのだろう?、、、とりあえず、自分圧倒されて負けてるな、、、」と思った。

もしかすると、今まで「日本はどこか他のアジア諸国より格が上だ!。日本に対して東南アジアなんて、、、。と自分は高をくくっていたのではないか? いや、そうだ。ベトナムって聞いてもベトナム戦争で枯れ果てた地を想起するし、カンボジアにはぼろ家とたくさん地雷が埋まっている光景が目に浮かぶし、フィリピンは街に溢れかえるストリートチルドレンや売春をして生計を立てているのだと思っていたし、そんな地で生きる人を日本は支援してあげないといけない」、と現地のリアルを知らずに一色単にして、あなどっていたいたのだ。

現実を見ずに、現地の人のことを知らずに、そんな思違いをずっとしていたのか?自分は。と恥ずかしくなった。そして同時に焦りを感じた。

自分は、GDP世界2位の日本という地に生まれ落ち育った。それは、決して自分の功績から成し得た地位ではない。たまたま、日本に生まれたのだ。先代の功績からなる今ある環境を当たり前かのよう享受していたのだ。では、そんな日本というプレミアムな鎧を外し、東南アジアの彼ら、彼女らと向き合った時に、未来に対するビジョンの有無、語学力や知識量の有無や自分でやりたいことや、やるというWantやWillへの熱量全てにおいて負けているのではないか?完敗ではないか?と、考えるといてもたってもいられなくなった。

いまある環境ににあぐらをかいていたら、彼ら・彼女らに相手をしてもらえないどころか、彼ら・彼女らに使われる日が来ても全然おかしくない日が来るのではないか?と。

そんな気づきを得て、もっと彼ら・彼女らのことをもっと知りたい!と思い、帰宅してから東南アジア青年の船の事業に必ず参加すると決意した。

そんなきっかけで参加した東ア船。東南アジアの地を東南アジアの人と周れる期待と喜びに胸を膨らませ寄港地フィリピンに降り立った。

▼フィリピンのホームステイ中に受けた衝撃

現地では、お互いの理解を深めるため船を降り、現地の受け入れ家族先にホームステイというお邪魔し、衣食住を共にするのだ。

できる限り、特別扱いや特別待遇をなくして、現地の人と同じ生活サイクルを体験したかったので、普段食べているもの、普段行く場所、普段会う人を追体験したいとお願いした。

それなら、と普段買い物に行くというイオンの数倍大きなモールや、毎週行くという教会や、いつも会う人たちのたまり場であるおしゃれなカフェに連れて行ってくれた。「めちゃくちゃ日本と格差あると思ったけど、来てみるとなんだか日本と大きく変わらないなー」とその時は感じた。

その辺で飲み物を買いに行きたい!と思い、「駅近くの売店で買いたい。」というと、ホストファミリー全員から激しく反対された。まるで、自分がいまから犯罪を犯すのか?と錯覚を起こすくらいやめるんだ!と説得された。

それでも、私は立派に建てられたモールではなく、現地のマーケットに行きたかったので駅近くの売店や商店街が気になり、どうしても行きたいと主張し、ホストファミリー同伴で目的のものを買ったら即帰るという条件付きでOKしてくれた。

そんなこんなで、歩いて駅のホームが視界にはいる近くまでくるやいなや、黒い集団に囲まれた。現地のストリートチルドレンだった。「Help!」「Money!」と口々に連呼している。みんな髪は伸びきって、服は茶色く変色しズタボロで、素足の子も多い。ただ、目は澄み切っていて、おもちゃやお菓子を親にせびる子供と遜色ないと感じるほど、純真無垢な子たちが自分に走って寄ってきて、ものやお金をせびるのだ。

雨後の筍のようにいたるところから、どんどん子供が湧いて、自分の取り巻きはどんどん大きくなる一方だった。その時、自分は表現しがたい恐怖を感じた。

「はっ!」と我に帰り、一目散にその場から逃げた。

自分がフィリピンにきて、現地の人と生活し「日本と変わらないなー」と感じたのは、たまたま自分が恵まれた家庭に受け入れられたからだ。考えてみれば、塀に囲まれライフルを持った警備員が24時間体制で入り口に立っているのをみて、違和感を感じていたではないか。

車に乗っていろいろなところを移動しているが、周りを見渡してたら、バイクや乗合タクシーや自転車で移動している人がたくさんいるではないか。

あー自分は、一側面をみてそれをいまのフィリピンだと勘違いしていたのではないか、と痛感した。純真な目をしたストリートチルドレンたちは、生まれ育ってからあそこに住み、周りがお金やものをせびる姿を見て、自然と自分たちもそうやっているのだろう。毎日を生きていくために、ごくごく自然な行為なのだろう。生きるために、いまはあぁするしかないのだろう。そう考えると、大学に進学するかしないか、進学するとしたらどこに行くのか?卒業したら、結婚するのか、就職するのか、大学院に進学するのか、自分で会社を興すのか、はたまた納得いくまで自分探しの旅に出るのか等、自分とその周りの人は、たくさん選択肢をもっているではないか、、、。生きるために働くという次元を超えて、自分のやりたいことを実現させるために働くという何段階も恵まれた環境にいるではないか、と感じた。

選択肢というのは、誰しも同じように持てない。だから、より広範な選択肢、誰しも得られない限られた選択肢を持つというのは、それ自体素晴らしいこと。そして、今は持っていない選択肢を自ら獲りにいく、というのは非常にエネルギーが必要な行為で、選択肢を広げてあげる・気づかせてあげる、というのは非常に尊い行為だと心底思う。

そんな、今まで考えもしなかったことに気づけたフィリピンのホームステイであった。これが、私が「選択肢がある!というのは恵まれている」と考えるに至るまでの話である。 

写真1)フィリピンのホストファミリーとともに

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(続く)

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