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魔法が起きる場所 ③-2 (空海)

          魔法が起きる場所 ③-1 (空海)はこちらから

「空海」の映画を観終わりました。もの凄い物語でした。
しかしながら、私が伝え聞いてきた話とは食い違う部分がいくつかあり(もちろん映画なので演出もあったでしょうが)その食い違いが気になって仕方がありませんでした。その中でも一番気になってしまった部分は、空海が崖の上から飛び降りるシーンでした。

映画では、空海は大学を辞めると言い出して、ある日突然姿を消して旅に出てしまいます。やがて田舎に帰るという手紙を書き、父母と再会を果たしたのち故郷の山々を旅することとなります。そして崖を飛び降りる。。。
大学生であれば、人はなぜ生きているのかを知りたいと願い、それを試したいと思うことは別段取りたてて騒ぐほどのことではないように思います。
しかしながら、私が知っている言い伝えでは、空海が切り立った崖の上から飛び降りたのは僅か7歳の時のことでした。
「人はなぜ生きるんだ。。。私が生きるに値する人間なんだろうか?」
この難問の答えを知るために空海は崖から身を投げたわけですが、私の中では「本当に7歳の子供が崖から飛び降りたの??」という疑いがありました。「だって、7歳といえば小学校の1年生だよ~~!!」

今現在、私は「ギフテッド」と呼ばれる方たちの存在を知っていますので、7歳の子供が「自分が生きるに値する人間かどうかを試したい」と言ったとしても充分納得できます。IQ180ほどあれば、7歳で人生というものを考えても何の不思議もありません。空海は間違いなく天才だったのでしょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

こんな風に、私が「空海」の事を考えていると、なぜかしら空海情報が集まってきます。先日、「魔法が起きる場所」で御厨人窟などのことを書いていたら、突然「空海」の映画の話が飛び込んできました。
そして、映画を観ていて、空海が飛び降りた時のことを考えていると・・・
・・・なんと私、見つけてしまったんです。。。!!!
何を見つけたかというと14年前の日記💦 ネットに公開していたのが今も残っていました😅

2006年4月26日、この日私は姉と二人で「四国八十八ヶ所巡り」の73番札所「出釈迦寺」の奥の院に行きました。この奥の院には捨身ヶ嶽(しゃしんがだけ)という場所があるのですが、この場所がズバリ!空海がその身を投げたという崖のある場所です。
その日の日記をここに貼ります。(だって、見つけてしまったんだもん💧)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2006年4月26日

 今日、姉と二人で73番札所「出釈迦寺」の奥の院に行ってきました。
 72番と73番の札所辺りと思っていたのですが、感覚的には奥の院以外
 には 考えられなくて・・・
 とにかく何かに駆り立てられるように出釈迦寺の奥の院に向かいました。
 やっぱりすごい場所でした。
 この山は、いつも峠を越えるときに見えている山なんですが、見た目より
 も登ったほうが『切り立った山』というのを強く感じます。
 坂道ばかりが延々と続いていて、階段がないのがちょっと不思議。

 山に登っていると、箸蔵寺でもなく、稲積山でもなく、固有のエネルギー
 があることに気がつきました。
 言葉ではうまく説明ができないのだけど・・・
 天と地であれば 地 のほうです。
 修練、修行、そういった人間臭いような感じ。
 泥臭い・・・といったら御幣があるかもしれないけど、何か天よりは地の
 エネルギーを強く感じます。
 そのせいか、今日はとっても足の裏が熱くて熱くて仕方がありません。
 
 奥の院の管理を任されているご住職は、まだ若い青年でした。彼は、お坊
 さんになろうと思ったのが3歳の時だったといいます。出釈迦寺の副住職
 も、わずか3歳の時にお坊さんになると決心したらしく、ご縁があって今
 この山で仕事を勤めさせてもらっているとおっしゃっていました。
 空海のお話をいろいろしていただきました。
 空海、空白の7年間、という話も面白かったです。

 出釈迦寺奥の院入り口

2006.4.26-出釈迦寺


2006年4月27日

昨夜、夜中に目が醒めました。
半覚醒状態になったまま、目を閉じていると・・・
閉じたまぶたの裏の暗闇に、昨日登った「捨身ヶ嶽(しゃしんがだけ)」の画像が浮かんできました。
映像がはっきりとしてきた時、私は自分がまさに「捨身ヶ嶽」の切り立った崖の上にいるのがわかりました。
下を見ると、とにかく何もなく・・・はるか彼方に下界が見えるような感じです。

空海が投身したのは480メートルほどの絶壁だったそうです。
昨日奥の院に行った時には、空海が投身したこの崖には登りませんでした。
鎖を伝って登るそうですが、高所恐怖症の私はその場所を見に行くことすらしませんでした^^;;

それなのに、あぁ、それなのに・・・

真夜中に起きた私の瞼の裏側で、まさに私はその断崖絶壁に立っているのです。でも、不思議と恐怖心は全くありませんでした。ちゃんと下を見ているのです。

それで、まるでスローモーションのように、その絶壁から飛び降ります。
不安や恐怖もなく、ただ飛び降ります。

すると体がふんわりと宙を舞って・・・

まるで、空海が飛び降りたのを、私自身が再現しているようです。

。。。ところが、人間界で言う「飛び降りる」というのとは違っています。
感覚的には、「愛の中に抱かれに行く」みたいな感じ。。。

お釈迦様の大いなる愛の中に吸い込まれ、
尚且つ、手を差しのべてくれた天女のやわらかな愛にすっぽりと吸収されていくような感覚。

 『愛は試さなくても そこに在る』

そんな言葉が脳裏に入ってきました。

捨身ヶ嶽(しゃしんがだけ)というと、なんだか怖いようなイメージがありましたし、空海の捨身に関しての情報も「運を試す」みたいな含みが感じられ、私はそういう話を拒絶していた部分がありました。
でも、7歳の少年はすでに人間の考えの及ばないような感覚の世界で生きていらっしゃったのではないかと思います。

肉体を持ちながら、本質を悟っていらしたのかもしれませんね。。。

なんだかとっても満ち足りて、飽和状態になった私は、そのまま眠りに入っていきました。あぁ、なんて幸せ~~~💖なんて思いながら。。。

山道から見た「出釈迦寺」 ⇩ ⇩ ⇩

2006.4.26-捨身ヶ嶽(しゃしんがだけ)

お寺の後ろが 捨身ヶ嶽 ⇩ ⇩ ⇩

2006.4.26-捨身ヶ嶽(しゃしんがだけ)2

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

まさか、自分がこのような日記を書いているとは思いもよらず。。。

映画では、空海が切り立った崖から飛び降りる時、「ここから飛んでも死にはしないと思う。仏が もしいらっしゃるのなら、仏が助けてくださるはずだ」という強い信念が観てとれました。
「お前は仏を試す気か?」という問いかけに、
「自分が生きるに値する人間かどうか、それを問うてみたいだけじゃ」
という言葉を発した後、空海は身を投じました。

この日記を書いた頃の私は、夜中や朝方に鮮明な映像を観ていました。
この時に観たものが真実なのか、間違った情報なのかは分かる術もないけれど、もし空海が飛び降りた瞬間に「愛の中に身を投じた」という感覚を持っていたとしたら素敵だなぁと思います。
もちろん、空海が観た景色が私が観たものと同じであった確率は低いかもしれません。でも私が観たものは『愛』だと確信できるので、空海が愛に抱かれた姿を想像しては嬉しくなっています。

やはりこの世界は
  Where the majic happens!!

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