私はいかにして自罰思考から脱却したか・補足(2024.05.22)

上記の続き。執筆後に思いついたことや自己分析、書き切れなかったことを書いておく。なお、これはあくまでも私自身の個人的な経験ではあるが、同じ悩みを持つ他の人にもヒントになると思うのでできる限り書いていきたい。

いつから自罰は始まった?

元々私は物事を過剰に捉えてしまう癖のある人間だったが、本格的に自分を罰するようになったのは中学生の頃からだ。先の記事にも書いたとおり私は中学1年では学級委員長を務めており、そしてクラスの問題の責任は全て私に降りかかってきた。その過程で、次第に全てのことは自分も連帯責任を負わなければならないと思うようになった。

そもそも当時の担任がかなり癇癪を起こすことの多い人間で、大声で怒鳴ったり問題行動(例えば給食のパンを生徒間で投げ渡すなど)を見かけると「お前らは家でもそんなことをやっているのか!」みたいに力強く投げてその後ドアを投げるように閉める人間だった。そういう担任と3年間一緒だった。そういう状況だし、そもそも原理的に教室というのは教師という権威に逆らうことは基本的に許されないため、どんどん自分を罰するようになっていったし、また従順になっていった。

高校は親の転勤の都合により福島県から宮城県仙台市(仙台第二高校)に進学した。高校に入ってからは政治や歴史認識問題などといった社会問題に興味を持つようになったが、なまじ3年で形成された自罰癖が抜けなかったためか、全て自分が悪い、自分は連帯責任を負うべきだと思い込み、他の生徒の面前で自分を殴るなどしていた。また他の部活動に所属する部員が発した冗談を真に受けたことがきっかけで自分の所属する部活動の先輩を怒らせてしまい、その後は部活に所属しながら先輩が卒業しても帰宅部を続け、さらには保健室登校になったこともあった。

とにかく、「自分はあらゆることに対して連帯責任を負わなければならない」という前提を疑うことができなかった。親や高校の教師や会社の上司からは「自分をいじめるな」「自分を大事にしろ」と言われ続けてきたが、そもそも自分は責められる人間であり、自分を大事にする資格などないとずっと思い込んできたので、受け入れることはできなかった。

大学院を修了して最初に入った会社で、2011年、当時の民主党・菅直人政権が批判されていたときに、「自分は有権者だから政治に対して無限の責任を負わなければならない」と会社の上司の面談で言い、上司は「無限の責任とは?」と言ったので「端的に言うと死ぬことです」と言うと、上司は「俺も民主党に入れたんだけど死ぬべきなの?」と言ってきた。私は「そんなことはないです」と言うのが精一杯だった。

家庭環境に問題はなかったか?

よく「自分を過剰に責めたがる人」の解説では、「家庭環境が悪いなど、親が承認を与えてこなかった、親から与えられなかったこと」を原因であるとする解説も多いが、これについては私は全く当てはまらない。親子関係は極めて良好だ。

きっかけは何かというとやはり中学時代の経験であると言える。そのときの経験でいろいろとすり込まれたと思う。

自罰思考がエスカレートするとどうなる?

そんなわけで何十年も自罰思考を持ち続けてきた私であるが、「自分はあらゆるものに対して連帯責任を負わなければならない」「自分は責められなければならない人間だ」という考えがエスカレートすると、他人がそのように扱ってくれないことに対して焦りを持つようになる。自分を責めなければならないという焦りに加え、自分が「責められるべき人間である」と周囲が扱ってくれないことの焦りが加わって、自傷行為などに繋がってしまう。

また、他人の話やSNSの書き込みを、自分が「責められるべき人間である」ことの証拠として集めてしまう。2018年の私は、当時(現在以上に)低迷していた東北楽天ゴールデンイーグルス(ゴールデンウィークには既に自力優勝が消滅していた)の選手や球団を批判するツイートをむさぼるように読んでは、それを自分への非難だと勝手に読み替え、自傷行為を繰り返すということをしていた。とにかく自分が悪い、自分が原因だという「証拠」がほしかったのだ。そんなことはどこにも書いていないのに。

2023年の5月頃の職場でも、楽天ファン(私以外)の人たちは口を開けば石井一久体制への批判が多かった。その輪の中に自分を殴りながら「全部私が悪いんですよ!」と加わってしまい、多くの人になだめられてしまった。まあこれで暴発したことで結果として解決へのきっかけをいくつか得ることができたのだが……。

野球に限らず、政治から身の回りのことに至るまで、ありとあらゆることに連帯責任を負わなければならないという強迫観念にさいなまれ、暴発することもたまにあった。心配そうな目で見る人も、冷たい目で見る人もいた。ただ、多くの人に心配と迷惑を掛けてしまったのは確かだ。

自罰をやめることになったきっかけは?

結論から言うとよくわからない。ただ、あるときふっと「結局は自分で自分を追い詰めていただけなのかもしれない」という考えが自分の中に自然に降りてきた。それまで周囲に「勝手に自分を責めるな」とよく言われてきたが、それが自発的に降りてきてからは急に肩の荷が下りた感じになった。

それまで本を読んだりウェブ検索をしていたり、何とか脱却できないかと模索していた。出展は忘却したが、いくつかきっかけとなった言葉を挙げていきたい。

  • 自己責任論こそ子供の論理。大人社会はむしろ全てが自分の責任というわけではない

  • 社会は教室とは違う。教室では先生の言うことを聞かないことは死だが社会はそうではない

  • 他人に相談しないことこそ最大の自傷行為(松本俊彦氏の著書から)

有り体な「自分を許そう」「ありのままの自分を肯定しよう」「あなたには幸せに生きる権利がある」みたいな言葉よりも、むしろ「お前一人が責められるべき人間ではない」という言葉の方が有効だった。まずは「全ての元凶は自分だ」「全てのことに連帯責任を負わなければならない」という観念を解すことが重要である。そのためにはまずは他人と話す必要がある。メールでもいいが、SNSではいけない。

短期的に有効なことは?

短期的に有効なのは、SNS断ちである。特にひいきのプロスポーツチームが敗れた直後は、自罰思考に溢れた人間にとっては、自分が悪いという「証拠」に溢れた魅力的な空間だ。実際2018年から2020年くらいの私にとってはそうだった。SNSに溢れる選手やチームへの批判を全て自分へのものと受け止め、自分はこんなに悪い人間なんだ、と考えて悦に入ることができる。それを頑張って我慢しようとしても駄目だ。だったら思い切ってゲームをしよう。ユーチューブやニコニコ動画、アニメを見よう。SNSに溢れる批判や憎悪の言葉は極めて甘美な麻薬である。自分が悪いという自分の偏った考えを肯定してくれるからだ。

実際、野球でも、速報を見たり、あるいは家族でテレビ観戦しているときはなんともなかった。例え試合内容が酷くても(例えば2023年の楽天対ロッテの最終戦。勝てばCS進出の大勝負で楽天は併殺の山を築き5-0の敗北)自罰感情は生まれなかった。現地観戦はむしろ自罰思考から自由にさせてくれる。いくらボロ負けの試合でも(2018年に観戦したとあるオリックス戦はそうだった)。

最後に

自罰思考とは「自分は責められなければならない」「自分は罰されなければならない」という思考に囚われることで起こる。結局は自分の問題だったと自分で結論に達したときには、25年以上背負った十字架をようやく下ろすことができたという感慨深さがあった。

そのため私は、民主党の鳩山・菅・野田首相も、昨日今日の試合でふがいない結果を残した楽天イーグルスの選手も、石井一久氏も、批判することはあれど誰も恨むことはないだろう。ただ一人、中学校の担任を除いて。

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