私はいかにして自罰思考から脱却したか(2024.04.19)


はじめに

知っている人も多いかもしれないが、私は極めて自罰的な人間だった。自分が不快、不安だと思ったことは自分が悪い、と考えなければ気が済まなかった。だが、この思考にけりを付けられそうになった。もしかしたら自罰的な自分はまだ残っているかもしれないが、とりあえず脱却の道筋は立ちそうになったので、現時点での考え方を記しておく。

最初に結論を述べると、それは「「自罰のための自罰」を行っている自分が情けなくなったから」である。

我が自罰史:学校、政治、論壇、そして楽天

はじめに、私がいかにして自罰的な思考をするようになってしまったかについて述べたい。ルーツは恐らく中学生に遡る。中学1年生のときに私は学級委員長をやっていて、クラスの問題については真っ先に私が責められた。中学校の頃は3年担任が同じだったが、私との付き合いが長いことをいいことに(?)面接指導(中学校は福島県で、一部の高校では面接試験があったらしい。私は宮城県の高校に進学したので面接はなかった)のときに(実戦では絶対に聞かれなさそうな)プライベートのことまで問い詰められたりもした。自傷行為(自分を殴ること)もこの頃から始まった。高校でも、社会問題について全部自分が悪いと叫んでいたりした。

だいぶ時間が飛んで2011年、当時は私は東京都に住んでいたが、3月11日に東日本大震災が発生。家族も被災した。その中で、次期東京都知事選に出馬しないことを表明していた当時の石原慎太郎知事が出馬を表明。その際に津波被害に対して下記のような発言をした。

石原慎太郎・東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。(略)(一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。

https://www.asahi.com/special/10005/TKY201103140356.html

翌月行われた知事選で、私は現在共産党国会議員の小池晃候補に投票したが、当選したのは石原候補だった。そしてこの結果について、被災者から「都民の皆さんへ。私はあなたたちの選択を忘れない」というツイートがなされ、それを見た私は「自分は故郷の裏切り者だ」と思い込み、何とか感情を抑えていたが、職場で泣き崩れた。しかも3日連続で。(被災した)親と電話したりあるいはそのツイート主とメールでやりとりをしたが、自責の念は止まらず、3ヶ月ほど休職した。

また、当時の民主党政権についても批判される度に「全部自分が悪い」と思い込み、八ッ場ダムの建設再開が決まったときは精神科のロビーで大声で泣き崩れながら自分を殴ったりもした。そして職場でも同様の理由で泣き崩れ、最終的に大学院から新卒で入った会社を2012年1月付けで退職し、仙台に戻った。仙台に戻ってからしばらく自罰も自称も収まっていたものの、2014年に朝日新聞の、日本軍「従軍慰安婦」報道に関する報道の訂正があったことで同紙への批判が激化したが、その際でも全部自分が悪いと思い込み、1週間で1000発は下らないほど自分を殴った。限界を感じた私は仙台市内の精神科も標榜していた神経科医院に通院した。初診時は病室で「全部私が悪いんですよ!」と絶叫した。

その後も当時の民主党→民進党→立憲民主党絡みで問題が起こったり、あるいはツイッター上で左派系の論客や朝日新聞の記者が批判されていたりすると全部自分が悪いと思い込んで何度も自傷行為に及んだ。そしてツイッター上で謝罪した。精神科にも通った。話の内容は基本的に政治絡みだった。その中で唯一安心して話せる事象だったのが、私の応援するプロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスだったが、それも2017年頃には自罰の対象になってしまった。

このあたりの詳しい話は過去にも書いているので参照されたい。

解決への模索

2020年代に入ると、自傷行為や自罰思考の中心は楽天イーグルスとなった。2023年、そろそろなんとかしなければならないと思った私は自傷行為の専門家である松本俊彦氏の著作を読み、「誰にも話さないことこそ最大の自傷行為」という趣旨の記述に衝撃を受けた。

2023年の楽天はそれまでの年とは違い、序盤は大失速した。職場では特に当時の石井一久監督への批判を雑談で行う人もいたが、その人達に対して「全部自分が悪い」と言ったりした。ただ周りの人たちの反応は暖かかった。「そういう風に錯覚するときだってある」などとなだめられたりした。また家族にもメールで打ち明けたり、直接話したりした。

湧き上がる自罰思考を抑えるために、ツイッターでは様々なアカウントをブロック・ミュートしたり、スポーツナビのプロ野球速報や楽天イーグルス公式アプリをスマートフォンから削除したり、テレビやラジオ中継も極力見ないようにして、結果だけを見るようにしたりもした。だがそれでも、シーズン終盤戦、(これも例年とは大きく違う)夏の大躍進を経てクライマックスシリーズ争いが本格化してきた中で、当落線上に立っていたとき「CSに進出できなかったら自分のせいだ」と思い込み、感情を爆発させてしまった。

シーズン最終戦の千葉ロッテマリーンズ戦。この日は会社がたまたま休みだったこともあり、一部始終を見届けようと久々に序盤からテレビ観戦した。効率よく点を取っていくロッテに対して楽天は併殺の山を築き結果0対5で惨敗。しかし自罰の感情は不思議と浮かばなかった。そのときに、自分は試合の結果に対して自分を罰しているのではなく、職場やSNSでの評判に対して「自分が悪い」と思い込んで自分を罰していることに気付いた。

また、感情を爆発させてしまったときに「頭に血が上っている」とか「脳がバグっている」などと言われたことも幸いした。バグなら再現性があるはずだと考えた私は、自罰の感情が湧き上がってきたときは、とにかく頭を冷やす、頭痛を止めることに専念するようにした。元々締め付けるような頭痛から逃れるために自傷行為を行っていた側面もあったため、心のことは後でどうにかする、まずは体(頭)をどうにかしろと考えるようになった。市販薬もいくつか試したが、個人的に最も良く効いたのはツムラの54番「抑肝散」だった(あくまでも私個人の場合ですが、その他には緊張性頭痛や気圧による頭痛の薬がいいかと思います)。

文献やサイトにもいくつか当たったが、多くの場合その原因を親子関係に求めていた。私は親子関係は良好な方であり、それは違う、と当初は拒絶していた。だが、自罰的な思考は主として他人の目を伺ってきた人間によく見られるということに触れて、自分はいつからか「全部自分が悪い」ということを他人に認めてもらうために自分を罰していたのではないか、とついに結論づけるようになった。要するに自分のエゴだったわけである。その瞬間、長年背負ってきた重荷が消え去る感覚が出てきて、一気に身体がほぐれた。ほぐれすぎて逆に節々が痛むくらいである。

私は自分が直接起こした問題については冷静に対処できる方だと思うが、政治や野球などといった「自分が起こしていないけれど自分が悪いと思っている問題」に対して必要以上に焦燥感を感じていた。後者については、「お前が悪い」という他者からの評価を求めていたという結論に至った。そういう評価を求めるために、積極的にツイッターを見ていたきらいすらある。いつしか自罰のための自罰、自罰のための自罰のための自罰……をしていたというわけだ。それが情けなくなった。自罰的な思考は、むしろ自分の思考を奪い、思考の軸を他者に明け渡す行為でしかない。

自罰的な思考は決して自責的な思考ではない。むしろ責任を回避するものだ、という文言はよく目にしたが、当初は反発していた。しかし今ならその意味がわかる。結局のところ何もしないだけである。そしてそれは、他罰的な人間についても同じだ。

最後に:健全な他責のために

最近の私は「普通の日本人」叩きに明け暮れるサブカルチャー左派、左派”オタク”の類をよく批判している。彼らは積極的に他人を罰したがるが、むしろその歴史や解決策については言及を忌避し、「甘やかし」として叩く。

サブカルチャー左派の他罰思考は問題の解決ではなくむしろ諦念に向かう。下記のような書き込みはその典型である。

岸田一人が無能であるというわけではなく、政治家、官僚、有権者などが歴史的かつ積極的に構築してきた破滅的無能エンジンとでもいうべきもののこれまでの業績が今顕在化しているだけだと考えるべきだと思うし、その破滅的無能エンジンとべつの機械を作らない限り総理大臣や政権与党をいくらすげ替えても無意味なのであって、じゃあ革命を起こしますかって言おうにも国民自体が破滅的無能エンジンの主たる部品である事実は変えられないから俺はもう諦めてネコ動画を観ておるよ。

松下哲也 https://www.threads.net/@pinetree_1981/post/C52Unzgytzo

まあ基本的に、市民による相互扶助みたいな意味での「社会」が、おそらくどの先進国よりも激しく壊滅している国なんだろなと。あらゆる立場が互いに腹の底で憎み合ってんの。どうしようもないすね。

前田久 https://twitter.com/maeQ/status/1769319562129162490

ネット左派の論客の中には、「普通の日本人」や若年層を罰するような発言をするが、それが結局の所他人を見下す快楽の提供にしかなっていないものも多数いる(典型は北守=藤崎剛人)。そういった他罰はむしろ我が身かわいさで諦念、さらには被害者意識に浸るものでしかない。

我が国に必要なのはむしろ健全な他責ではないか。とにかく科学と歴史の視座により問題を外部化し、社会問題を構築していくものである。(自分以外の)有権者や「普通の日本人」、そして若年層を罰し、自罰を求める思考はむしろそれらの人間から思考の軸を奪い、服従させたい欲望の発露でしかないことを改めて認識すべきだろう。


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