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皆さんは、邯鄲の夢という故事をご存知ですか?

有名な話なので、一度は耳にしたことがあるかもしれませんが、先にストーリーをご紹介します。

ストーリー

開元七年(西暦719年)のこと。

呂翁(りょおう)なる者が、旅の途中、鄲邯(戦国時代の趙の都市)のとある宿屋に立ち寄った。そこにたまたま通りかかったのが蘆生(ろせい)という青年。盧生は人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、旅に出ていたのだ。

慮生は、呂翁に「男子たるもの」の理想像を述べる。

立身出世し、大将軍や宰相になり、ご馳走を腹いっぱい食べて、一家一族繁栄させる、これこそ男子の楽しみといえるのだ、と。それなのに今の自分は、延々と僅かな田畑を持つだけだ…と自らの不平を語った。

呂翁は袋から枕を取り出し、蘆生に手渡した。

「この枕で寝てみなされ。そなたの願いが叶うだろう」

蘆生は、数か月して名門の崔(サイ)氏から美人の嫁をもらい、翌年は進士の試験に合格し、トントン拍子の出世をした。そのうち根も葉もない中傷によって左遷されるが、三年経つ頃に召し返され、宰相として天下の政権を執り行うこと十余年、皇帝の信任も厚く、我が世の春を謳歌。しかしこれを妬む者に謀叛の濡れ衣を着せられ、流罪となった。数年して帝は蘆生が無実の罪であったことに気づき、再び彼を召し寄せて宰相に任じ、蘆生は栄華を極めた。その後八十年を越えて病に伏すと、慮生は逝去し、人生の幕を閉じた。

蘆生は大あくびをして目を覚ます。見ればわが身は邯鄲の宿屋で寝ており、かたわらに呂翁が座り、宿の主人が火にかけた黍の飯はまだ蒸しあがっていなかった。

蘆生は飛び起きて言った。「なんだ、夢だったのか」

呂翁は言う。「人生の栄華なんてこんなものだよ」

全ては夢であり、束の間の出来事であったのである。盧生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。

もうお気づきですよね。これ、呂不韋のことではないでしょうか?

キーワードから辿ってみる

文中でキーワードを太字にしてみました。

✅呂翁とは、呂という名の老人と捉えています。年老いた呂不韋が、立身出世を目指す青年に、自らの人生を投影して栄枯盛衰を説いているように思えてきませんか?

✅邯鄲は趙の都。大商人・呂不韋が、異人(後の秦王・荘襄王)と出会った街です。

✅美人の嫁…趙姫でしょう。呂不韋が趙姫と出会ったのも邯鄲であり、趙姫が嬴政を産んだ街でもあります。

✅宰相として天下の政権を執り行う…まさに秦時代。呂不韋が宰相でした。

✅流罪…趙姫と密通していたこと、謀反の疑いがあったことから、呂不韋は蜀に流罪になったとされています。

もう、完全に呂不韋としか思えません。

なぜ小説として書き残す必要があったのか

邯鄲の夢は、沈既済(しんきせい)の小説「枕中記」の故事の1つです。なぜ沈既済がこの話を書き残したのかを、想像してみましょう。

以前の記事にも書いた通り、「史記」から呂氏の痕跡が消されてしまっていることは、当時の人々の中にも知っている人が多かったと思われます。史記が完成したのが紀元前92~89年と言われてますので、そこから沈既済が生きた唐の時代は数百年が経っています。

前漢・武帝のように少数民族に対して傍若無人な人もおらず、表現の自由も許される時代になった。そこで、「消された呂氏」とりわけ呂不韋の栄華を後世に伝える物語として作ったのではないでしょうか。

とは言え、露骨に「史記」を否定することも出来ませんから、呂不韋の人生を「青年・蘆生が見た夢」という形で再現してみた。あれは儚い夢だったのだ、と。

垣間見えた無実

太字にしたキーワードで、1つだけまだ書いていないことがあります。それは「無実の罪」であったという部分です。

「夫が亡くなった後の妻の密通は無罪」という秦の裁判判例は、過去記事をご覧ください。

「史記」では、呂不韋は趙姫ともども悪人として描かれていますが、沈既済はそれが「無罪」であると知っていた。そこで、流刑にされた(とされる)呂不韋の密通・流刑は創作であり、その後も活躍していたのだ、としたのでないでしょうか。


仄めかされた徐福の存在

中国では「黄粱一梦」と呼ばれているこの故事の原文の中に、非常に面白い一文があります。

道士有吕翁者,得神仙术,行邯郸道中…
(不老不死の)神仙術を得た呂翁という道士が、邯鄲の道を旅していると…

冒頭、呂翁が神がかった仙術を使う道士として紹介されているのです。これは想像を膨らませると、始皇帝に不老不死の仙薬を探せと命じられた(ことになっている)徐福のことではないでしょうか。

呂翁(呂不韋)=徐福。これが繋がった気がしました。

日本にも伝わる故事の中、作者の意図したことが垣間見える瞬間です。

最後に、下記の一文についての考察をしておきます。

その後八十年を越えて病に伏すと、慮生は逝去

徐福が亡くなったと思われる西暦208年、呂不韋が生きていれば82歳でした。これも符合します。やはり、徐福の正体は呂不韋だと思います。

今となっては確実に証明出来るものがありませんが、確実に否定することも出来ないところに、歴史のロマンがありますよね。


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