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前漢・後漢による少数民族弾圧

私は今まで、羌族が古代中国において(特に秦まで)、強大なネットワークと財力・影響力を持った民族であること、そしてその中心にいたのが太公望・呂尚から始まる呂氏であったこと、史書においてその栄光・痕跡が「意図的に」消されてきたことを書いてきました。

そしてそれは前漢以降に行われたことも詳述してきました。

今回、前漢における1つの思想から、それらをさらに裏付けようと思います。華夷思想(かいししそう)です。羌族が受けた虐待とは一体何だったのでしょう。中国の方にとっては耳が痛いかもしれませんが、史実を交え書いておきます。

華夷思想とは

華夷思想とは…漢民族が自国民を中華と称して尊び、異民族を夷狄(いてき)と称して卑しみしりぞけた思想。

漢民族とは、極力簡潔に言いますと、その名の通り漢以降の主流民族のことを指します。中国では、初めて中華を統一した秦よりも、秦を倒し、「漢民族の完全形成期」としている漢を重視しています。

理由は4つ。

①秦の統一が中原においてまだ領土的に狭かったのに対し、漢は匈奴を撃破し、西南夷を征服するなどして郡県を広げ、漢民族の移民を通じて中原文化を辺境に伝えるとともに、少数民族を漢民族の中に融合した。

②少数民族の側でも、匈奴・羌・東越など漢民族地域に移住して融合する者が多かった(移住させられた)。

③経済文化の発展が民族意識をより強めた。とりわけ武帝が儒教思想を歴代王朝の正統思想とした影響が強かった。

④羌族出身である嬴政(始皇帝)による統一を、漢民族として認めるわけにはいかず、華夷思想において羌族はあくまでも「夷狄」でなければならなかった。

羌族は古代中国において大民族であった

羌族は春秋から戦国時代にかけて、甘粛省や陜西省西部を拠点としてきました。また、下記の記事でも書いた通り、春秋の前には一部の羌族は山東省や河南省に封じられていました。

羌族はそこから青海、新疆、四川、雲南にも広がり、勢力を拡大していきます。関連部族はなんと150種、人口は当時の中国全体の4分の1、推定1,200~1,300万人いたと思われます。

前漢による少数民族弾圧・武帝

始皇帝は匈奴と幾多の戦いを行いつつ、晩年は融和策を進めようとしていました。そこにはきっと、自身が異民族・羌族であったということも影響していたと思われます。

前漢になると、秦時代の融和策は徹底的に破棄されました。特に第7代・武帝の治世において、彼は三度の重大な戦役を経て匈奴を撃破。南越を滅ぼして九郡を置き、西南夷・夜郎・滇なども直轄領としました。

これらは漢の強大化をもたらした一方で、地方少数民族に対する残酷な搾取と抑圧のもとに成し遂げられたわけです。

余談ですが、対匈奴との戦争において、匈奴の捕虜となった前漢将軍・李陵。彼は李信の子孫です。李陵の投降をかばったため、武帝から宮刑に処されたのが司馬遷です。

宣帝~後漢も続く弾圧、そして衰退

前漢の第九代皇帝が宣帝です。当時、羌族は匈奴に味方して前漢に抵抗していました。そこで、陜西・先零羌の諸部長を斬り捨てたのが宣帝でした。

当然、羌族は前漢の態度に反発します。しかし、前漢皇帝の劉一族は、異民族が力を持つことを認めません。華夷思想です。弾圧と搾取を繰り返し、後漢になっても羌族は弾圧を受け続けることになります。

後漢王朝はその間、240億余銭もの軍費を支出したため、国家財政は危機に瀕し、国土は荒廃しました。

その裏にあったのは、強力な中央集権制と、誤った華夷思想です。漢王朝拡大・強大化の維持に、少数民族・弱者への理不尽な圧力があったのです。特に武力弾圧をした羌族に対しては、降伏した者を強制的に移住させ、官吏や地方豪族の奴隷として使役・虐待したのです。

当時、羌族の多くは漢による直接統治を受けていません。当然、漢による賦役や兵役もないのです。

結果的に、前漢元始二年(西暦2年)には1,200~1,300万人だった羌族の人口は、西暦140年までの約140年間でなんと半分にまで減ったと推定されています。これこそ強制使役・ジェノサイドと言っても良いのかもしれません。

改めて武帝に遡る

華夷思想を強めた武帝。この時、「史記」を完成させたのが司馬遷です。宮刑に処された司馬遷は、武帝に逆らえなかったと思います。

その武帝が、「史記から異民族の活躍を消せ」と司馬遷に命じたとしても何もおかしいことではありません。特に目の敵にした羌族のことは、過去の栄光すら消し去りたい。

羌族の中心氏族であった呂氏の栄光・痕跡を史書に残すことは、絶対に許せない。秦統一の立役者であった呂不韋は悪人に仕立てて、不可解な死を与え、嬴政が呂不韋の実子であることは伏せ(秦王が異民族だと認めることになる)、嬴政を暴君として、呂不韋が懇ろになっていた嬴政の母・趙姫は淫乱女にしなければ気が済みません。武帝は、前述した李陵の妻子を皆殺しにするほどの、超短気・短絡思考です。結果的に李陵は無実であったため、いかに武帝が「憎しみやすい・残忍な」性格かが分かるでしょう。

結論

前漢・後漢の思想は、華夷思想です。劉一族が正統な漢民族たらしめるには、異民族の栄光・痕跡は消さなければなりません。また、劉邦から始まった前漢の取り組みを正当化するために、前漢以前の秦については否定しなければなりません。

ここに、羌族(呂氏)の痕跡が消された闇が見えてくるのです。

歴史は常に、勝者のもの。敗者は過去に葬り去られるのみですが、そこを掘り起こすのが私の使命かもしれません。「賊軍」とされた会津の出身ですから、呂氏の気持ちが分かるというものです。

お読み頂きありがとうございました。


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