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歴代周王と羌族の関係

日本に来ていた周王朝の血縁。周王朝の創始者である武王が正室としたのが邑姜という女性。彼女は呂尚(太公望)の娘でした。

羌族である呂尚は、娘を周王朝に嫁がせることにより、羌族の威厳を高めると同時に古代中国における一大勢力を築いていくことになります。周王朝と羌族の蜜月ぶりがどのようなものであったかを、まとめてみました。

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羌族出身だと思われる后妃を赤文字にしています。因みに、紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から秦に滅ぼされるまでが東周(春秋戦国時代)と区分されています。尚、最後の昭文君は王としない説もあるため「第38代」という記載はしてません。

<考察ポイント>
✅初期は呂尚の影響が強い
✅東周、特に後期は羌族の影響がほぼない(と思われる)
✅後期は兄弟間暗殺など闇が深い
✅なぜか後期に行けば行くほど情報がない

殷を倒し、周王朝を興した功績が大きい呂尚(太公望)。自らは斉の土地を与えられ統治しつつ、娘を周王朝に嫁がせることに成功しています。この時から、羌族は「勝ち馬に乗る」「機を見るに敏」という言葉がピッタリの民族だと思っています。特に西周の時代においては、羌族の女性が嫁いでいるケースが多く見られますね。

東周の時代に入ると、羌族の女性だと思われる后妃は2名しかおらず、「もしかして羌族を排除していった?」と妄想することも出来ます。後述します。

また、後期になると后妃に関する情報が全く出てこなくなります。何かあったのでしょうか?歴史が古くなると情報が不足するのは当然なのですが、その逆なのです。

ここで戦国時代に入る時代、東周後期の勢力図を見てみます。

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周王室の影響が小さくなり、異民族・周王室と異姓の勢力が大きくなっているのが分かると思います。ここで「勝ち馬に乗る」「機を見るに敏」という言葉が再度思い浮かぶのですが、昭文君を殺して周(東周)を滅亡させた人物をご存知でしょうか?

呂不韋です。

彼は東周を滅ぼしたことにより、その地・洛陽を封地にします。秦の職を解かれた後、隠居したと言われる河南の地もここ洛陽です。彼が昭文君を殺害したことで、春秋時代が終わり戦国時代に突入したわけです。まさに時代を変えた人物。

東周における羌族の存在が薄れていった理由の1つは、東周王朝が羌族を排除していった可能性と、もう1つは「周王朝が滅ぶ」ということを悟った羌族が、東周になってから王朝から徐々に手を引いていたのかもしれません。そんな過渡期に登場するこの呂不韋という人物は、やはりただものではありません。間違いなく傑物。

「勝ち馬に乗る」「機を見るに敏」というのは、商人として培った部分も大きいでしょう。これは妄想ですが、羌族は昔から商人的な行動をしていたように思います。治水も得意で、商売で財を成す。そんな民族的特質を受け継いだ呂不韋が、「これ奇貨なり。居くべし 」と異人を見つけ秦の中央に入り込んでいく様は、通快そのもの。

「勝ち馬に乗る」「機を見るに敏」が得意な羌族の人物を改めて記載しておきます。全員、その時代の「トップ」たる人物に取り入ってます。

✅呂尚(太公望)…呂氏の始祖、周・文王に仕え軍師として殷滅亡に尽力。
✅呂不韋…嬴政の父親、東周を滅亡させ秦の相国に登りつめる。
✅呂雉…劉邦の妻。劉邦亡き後、実権を握る。

※呂雉の死後、前漢・後漢により羌族は弾圧を受け激減

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周王朝は秦(呂不韋)によって滅ぼされるわけですが、以前の記事に書いた通り、その一族は日本に渡来して国造りをしていました。

羌族は長らく周王朝に取り入ってきたわけですから、一族が日本に渡来したことも当然知っていたと思います。実際に呉太伯の母親が羌族でしたから、呉太伯の後裔が日本に渡来したということは、羌族の血が日本に渡来したと同義です。

これだけの栄華を誇った羌族の繁栄が途絶えた理由も、以前書きました。

呂不韋は「華夏族である昭文君を殺し周を滅ぼした」ため、悪人として扱わなければなりません。漢族である劉邦亡き後、実権を握った呂雉も漢族をないがしろにして羌族復権を画策して悪女とされた部分がゼロではないと思っています。

「漢民族の国」でなければならない中国の、「不都合な真実」が史書から消されている可能性をまた追っていきたいと思います。

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※エンターテインメントの1つとしてお読みください

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