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義帝・熊心②

今回は、前回の記事の続きとなります。

熊心について少しおさらいです。

熊心セリフ

あぁ、絵が下手くそでごめんなさい…昌平君に似せたつもりですが、才能とボールペンの限界を見ました。

ここからは鶴間和幸先生の著書「人間・始皇帝」を少し引用しながら書きたいと思います。

この熊心が建都したエリアは、甘泉山(今の陝西省咸陽市)の一帯だったらしいのです(P138)。ここはかつて匈奴が天を祀っていたと言われる地であり、もともと戎狄の地であった、と。

甘泉宮地図

キーワードがいくつか出てきてますので、掘り下げたいと思います。

①甘泉山(かんせんざん)
②匈奴(きょうど)
③戎狄(じゅうてき)

まず①ですが、始皇帝が甘泉宮を建設した地です。甘泉宮は、始皇帝の大事業でもある直道のスタート地点でした。つまり、非常に大切な場所なのです。

直道については下記の記事をご覧ください。

甘泉宮は、「匈奴からの使者を迎える場所」であったのです。なぜ重要だったかと言えば、その匈奴が天を祀っていた地であるからです。ここで②に繋がるわけですね。

※ドローンによる撮影風景画像はこちらをご覧ください。

②匈奴は、血統的なつながりについて義帝・熊心①で書きました。匈奴と羌族のルーツは一緒なので、熊心が建都した意味もここで深みを増してきますね。熊も匈もシオンです。

これについては、過去記事をご覧ください。

ちなみに、一応誤解のないように記載しておきますが、「姓」が純粋な民族を代表することはないので、必ず混血してます。

③の戎狄(じゅうてき)とは、当時の中国が中国の外側の野蛮な民族を卑しんで呼んだ言葉です。「外から来た民」という、異民族的な蔑称でもあったのでしょうね。

始皇帝が将軍・蒙恬に命じて築いた直道は、この甘泉宮のある場所からスタートしています。繰り返しになりますが、この地は「重要」であったのです。通説では、ここに5万戸を移住させて匈奴からの侵攻を守らせた、ということになっていますが、違うと思います。

過去に異民族である匈奴が天を祀った地であり、始皇帝にも重要な地であるからこそ、政治的に重要な血族を移住させたのだと思います。呂不韋と一族を蜀の地に移住させたのも、左遷ではなく意図があったはずです。

匈奴が長城を突破した場合、咸陽まで直道を真っ直ぐ下って攻めてこれるため、わざわざ敵にも有利な直道を築くわけがない。これは戦争のためというよりは、やはり始皇帝の融和策であって、匈奴を迎える重要な地・甘泉宮には、異民族系の血筋を多く住まわせたと思います。異文化が触れ合う、賑わった場所であったことでしょう。一方で、オルドスを巡っては、秦と匈奴は争っていたと思われます。蒙恬による河南奪取後、始皇帝は直道を築いて融和外交をスタートさせたのでしょう。

オルドス

ちなみに…このオルドスも河南と呼ばれていました。3か所目の約束の地ですかね…

話が逸れましたが、重要な地であったからこそ、熊心はここに建都したのだと思います。その熊心殺害を指示した項羽は、同じ楚人としていかがなものかと。熊心殺害に憤慨し、項羽をやっつけたのが楚人の劉邦です。

劉邦は、前漢高祖として君臨するわけですが、呂氏と繋がっていたわけであり、項羽を倒した大義名分が「秦を出た昌平君(熊啓)の子・熊心を項羽が殺害した」というドラマがあるのです。不思議と…昌平君の「想い」は、劉邦の前漢統一で成就されたような気もしてくるのです。

家系図・呂不韋

本日も妄想にお付き合い頂きありがとうございました。

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