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義帝・熊心①

今日は、義帝(熊心)について書きたいと思います。今回もネタバレ激しいと思いますので、ご注意ください。

ネタバレ⚠

昌平君の子・義帝

以前の記事で、昌平君の家系図をまとめてみました。熊心は、昌平君の子供だといわれています。

昌平君は考烈王(熊完)と昭襄王の娘との間に生まれたので、楚王の熊姓を名乗れる正当な血筋です。その子=熊心もまた、楚王の血筋ということになります。

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この熊心、数奇な運命を辿ることになるのですが、そもそもなぜ熊心は生きていたのでしょうか。

熊心が生き延びた理由

なぜこの疑問を抱いたのか、古代史ファンならすぐに理解出来ると思います。キングダムファンでも、気づく方が多いのではないでしょうか。

それは始皇帝(嬴政)に関する「暴君」というレッテルに関係します。

もし本当に嬴政が冷徹な暴君であれば、反乱を起こした昌平君の一族は皆殺しに遭っていたでしょう。この時、秦の丞相は李斯。法治国家として処罰を厳しくしていた時であるのに、なぜか熊心は生きていたのです。秦が楚を滅亡させた後、熊心は地方に逃れて、羊飼いとして暮らしていたそう。

羊飼い…この「羊」というパワーワードは、やはり羌族の一部が華南に溶け込んで熊姓(楚王)を名乗ったという妄想がまた頭をよぎるのです。

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熊心が「生き延びた」理由を考えてみる

嫪毐の反乱においても、彼の一族を抹殺したことから分かる通り、昌平君の一族は嬴政(秦国)に皆殺しにされていてもおかしくなかったと思うのです。ところが、熊心は生きていた。

理由がいくつか思い浮かびます。

①昌平君の母が秦王の血を引いていた
②昌平君の反乱に一定の理解を示していた
③熊姓が羌族ネットワークだということを知っていた
④昌平君が熊心を「どこか」に隠した
④+蒙武が熊心を引き取って育てた

①は家系図から見ても、残された史書をベースに判断すると間違いはないと思います。嬴政は昌平君が「同じ血を継ぐ者」ということを知っていたので、例え政敵になったとしても最後に情が湧いて、熊心だけは生かしたという妄想です。

②は「昌平君が楚に戻らなければならない理由」に対して、嬴政が一応の理解を示していた…ということですね。まぁこれは可能性が低いでしょう。

③はそもそもの血族の話です。少し長くなるので簡単に書いてしまいますが、出エジプト北ルートから「東の羌族」になったのが呂氏です。つまり呂不韋が父親であると仮定すると、嬴政には羌族の血が流れています。同じくエジプト北ルートから華南に入ったのが「熊(シオン)氏」であり、昌平君にも同じ羌族の血が流れている。呂不韋を生かしたのに似てますが、熊心を生かしたという説です。

詳しくは下記をご覧くださいませ。

④個人的にはこの説を信じたいのですが、秦による統一後に楚王=熊氏の再興を期すべく、知性に長けた昌平君が唯一残していた子・熊心をどこかに匿っていた。私が知っている限り、熊心は唯一残された王家直系の血筋ですから、後に項羽が熊心を見つけて楚王として担ぐ理由がここにあります。

④+はキングダム的に胸熱な展開を考えてみました。無骨な蒙武が、幼馴染である昌平君との決戦時に、昌平君から最後の願いを聞くことになる。昌平君は「熊心を頼む」と蒙武に耳打ちする。蒙武は涙を浮かべながら楚との決戦を終え、心身の疲労から隠居し、真っ先に幼い熊心をかくまった。

このあたりは史実に残ってませんので、妄想が自由な箇所です。みなさんはどの説が好きでしょうか。

実はこの熊心が後に築いた都市は、これらの説を判断するのに繋がっていくのです。これはまた後日。

本日もお読み頂きありがとうございました。続きは下記へ。

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